一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

大船渡市末崎町大田団地

2011-08-13 | 東日本大震災
大船渡から陸前高田に向かいます。
三陸道を使わずに海沿いの道を走ると、宮城県との県境に近いところ、大船渡市末崎町に大田団地という昭和40~50年代に分譲された住宅地があります。
Googleマップ参照)

末崎町は外海に面している門之浜湾にあるため、大船渡湾の湾口防波堤の恩恵を受けることなく、直接被害に遭いました。

団地の内部はこんな感じで、まだ残った建物や外構の解体も終わっていません。
一戸建ての住宅地として作っているため細い道路が入り組んでいるので、地震直後に避難しないと津波が来てからでは間に合わなかったのではないでしょうか。




さらに印象的だったのが、その後に出来たと思われる斜面の高いところの住宅地がまったく無傷だったことです。

これは団地への進入路のところで撮った写真なのですが、この場所から坂の上は無傷の戸建住宅が整然と並んでいて、全く普通の日常生活を送っていることが印象的でした。
その普通の住宅地を抜けるて司会が開けた先に、津波被害に遭って瓦礫と化した団地が広がっているその落差に唖然とします。





※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大船渡市

2011-08-12 | 東日本大震災
次の日は昨日の帰り道を戻って大船渡へ。
Googleマップ参照)

前日に三陸道のインターを降りたあたりで給油をしたのですが、郊外は通常の生活をしていました。
ロードサイドのコメリやケーズデンキだけでなくパチンコ屋の駐車場にもけっこう車がとまっていたのが印象的でした。

県道230号線を市街地に入っても、盛駅のあたりまでは津波の痕を感じません。

ところが県道が大船渡線を超えたあたりから急に建物がなくなります。


この建物がちょうど境目。
写真は南側から盛駅のほうを向いているので、この奥に無傷な地域が広がっています。
実際は盛駅周辺まで浸水したようですが、あまり大きな被害はなさそうでした。




反対側はこう



この方向(県道の東側)は工場地帯なのですが、建物が解体され整地されているところと、瓦礫の集積所になっているところ。
写真の手前部分を見ると建物の基礎(杭は別でしょうが)まできれいになっているのが他の町と比べて印象的です。


周りを見渡すともちろん片付け中の建物もありますが




既に復旧した建物もあります。




大船渡市で印象的だったのが、瓦礫撤去などの工事が整然と行なわれていること。



交差点には誘導員がいて、一般車両や工事車両を誘導しています。


さらにこれ



ホコリが舞わないように散水車が水をまいていたのも大船渡だけでした。
画面中央は重機が青い機械に鉄くずを入れると、青い機械がそれをプレスして立方体の塊にしているところ。
白いバンの後ろに立方体になった鉄くずが積み上げられています。



ゲートは津波で壊されてしまいましたが埠頭もきれいに片付いています。





岸壁から陸側をのぞむ

http://blogimg.goo.n



ところが市街地の方は景色が一変します。



被害に遭った建物や瓦礫が放置されたままです。



さらに南(湾方向)に行くとさらに被害が大きくなっています。




大船渡駅前。以前は画面中央に駅舎があったようですが、今はホームしか残っていません。





魚市場はさらに南にありますが、こちらは再開しています。





大船渡には太平洋セメントの大きな工場があり、被災しているにもかかわらず復旧しながら操業していました。




セメントを焼く炉は高温で金属以外のがれきを焼却する能力が高いため、被災して停止した3つの炉のうちの一つを早い段階で復旧させ、瓦礫の焼却をおこなっていたそうです。
この試みはさらに次のステップに進んでいるようです。
東日本大震災:津波がれき、セメントに 太平洋セメント、大船渡に脱塩施設



大船渡市は産業の復旧に優先順位をおいているように見えます。
住宅が被災した住民には避難所や仮設住宅で手当てをして限られた予算を重点配分することは大事だと思います。

ただこれは比較的被害の少なかった後背地があって、しかも財政的・人員的に大きな「市」であるから出来ることかもしれません。
大船渡湾にも湾口防波堤があり、これが一定程度被害の減少に役立ったということもあるでしょう。
さらに太平洋セメントのような大企業の工場が復旧して稼動している=従業員の生活が維持されていることも大きいと思います。


ただ残念ながら、今回まわった町の中では(被害が比較的軽かった宮古・塩竃を除くと)この大船渡が一番復旧(片付け)が進んでいる印象をうけました。
この状態がいちばんまし、という程度にしか復旧が進んでいないというのが現実です。




※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大船渡市三陸町吉浜地区

2011-08-11 | 東日本大震災
さらに南下して大船渡市に入り、吉浜町という小さな町三陸町吉浜地区を訪れました。
Googleマップ参照)

震災とは関係ないのですが、水産業関係の人の話では、吉浜町産の「吉浜(キッピン)の乾鮑」は中華の高級食材で有名だそうです。
なにしろ江戸時代から中国に輸出されていたのですが、今でもほんどは商社を通して中国に輸出されているので国内では知られていないとのことです。もっとも卸値でキロあたり10万円ということなので、国内に出回ったとしても味わうことはできなさそうです。
(詳細は吉浜漁業協同組合のサイト大船渡市のサイトWikipedia参照)


しかしここを訪れた目的はあわびではありません。
吉浜地区は昭和8年の震災後集落を高台(海抜約20m)に移転した結果、今回の津波で人的被害が港を見に海岸に行って被災した1名にとどまったからです。
漁師の人達は沖に逃れるか陸に逃れるかして難を避けたようです。
「沖へ」「陸へ」漁師の生死分けた一瞬の判断 大船渡(朝日新聞)

もちろん防潮堤や防風林は大きな被害を受け、以前の居住地域である海岸背後地を開墾した農地も冠水してしまいましたが、人的被害がなかったことは復旧には大きなアドバンテージになるでしょう。



港から低地に広がる農地。




上の写真の右奥に写っている高台の集落をクローズアップ





さらに近づくとこんな感じで擁壁に守られていて見たところ津波被害はまったくなさそうでした。





普代村同様、人間の知恵と努力が効果を挙げた例で、こういうのを見ると勇気付けられます。



日没が近くなってきたのでここで初日は終わり。
沿岸部には宿泊施設がないので、北上市まで2時間かけて戻りました。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釜石市

2011-08-10 | 東日本大震災
大槌町から10kmほど南に下ると釜石市になります。
(Googleマップ参照)

ここも市街地はかなりの被害を受けています。


魚市場周辺
道路事態が沈下により冠水していて、迂回が必要です。
魚市場の建物の被害も大きい。





岸壁に乗り上げた貨物船。
船主と保険会社の話がまとまっていないのか、まだ放置されたままです。





貨物船の脇から港内をのぞむ。
向こう岸の工場(ドック?)の建屋が傾いています。
水位の高さにも注目。
大潮とはいえ元の岸壁の高さはもっとあったはず。





市場近くの高台から。
津波は2階レベルくらいの高さだったので、小高いところは被害を免れています。
しかし、被災した建物の解体撤去、瓦礫処理はあまり進んでいない感じです。





同じ場所から市街地側
こちらも建物はけっこう残っています。
構造躯体は残っているのと、3階以上は被害がなかったところが多いので、補修して再利用する予定なのかもしれません。





でも、このような建物もあります。
建物が残っている状態なので、瓦礫を整理するという段階作業には至っていないようです。





市の中心部のガソリンスタンド



周囲の建物に比べてなぜか被害が大きい。



港の近くの工場。
真ん中に写っている小さいユンボが一生懸命瓦礫の片づけをしていましたが、しばらく時間がかかりそうです。





コンビニは営業中。
訪れたのは夕方だったのですが、通りで唯一灯りがともって営業していたのがコンビニでした。



釜石だけでなく、被災地のほとんどすべての町で、コンビニは貴重な日用品の供給元になっていました。

高台の国道沿いで被災を免れたところもそうですが、被災した建物を仮復旧させたり仮設店舗を作って地域の人のために役立っている姿はCSRなどという理屈は抜きの商人としての根性を感じます。
(おにぎりを買ったら何も言わずに紙ナプキンをつけてくれた宮古のコンビニの店員さん、ありがとうございました。)

ところで、岩手県内はほとんどがローソンだったのですが、宮城県にはいるとセブンイレブンが過半になってきます。
営業の重点のかけかたの問題か、商品の配送ルートの関係なのでしょうか。



養老乃滝もがんばってます。





新日鉄の工場は操業を再開していました。




釜石といえば1,200億円の巨費をかけて2009年に完成したばかりの湾口防波堤が津波の威力で破壊されてしまった空撮映像が印象的です。

(元の姿)




(津波の後)





実際に地上から見ることはできなかったのですが、破壊されたとはいえこの防波堤は今回の津波想定高さの13mが7~9mまで減衰したと推定されているそうです。
(日経コンストラクション編「インフラ被害の全貌 (東日本大震災の教訓 土木編)」による。ちなみにこの本は津波が堤防・橋・道路等に被害を与えるメカニズムや被災状況の分析が充実していて非常に役に立ちました。釜石の防波堤が破壊されたメカニズムの分析も興味深いです。)



全般的な印象では、港近くの被害は大きいものの津波は(湾口防波堤のおかげで)2階レベルの高さにとどまっており、高台の住宅は無傷であるなど被災範囲は比較的限定されています。
ただその割りにあまり建物解体、瓦礫撤去が進んでいない印象を持ちました。
大槌町と比べた釜石市の財政規模を考えると特にそうです。

ただ、あとで地図を見返してみると、今回は釜石駅から国道・川沿いに広がっている市街地を見ていないので、実はそちらの方の被害も甚大で手が回っていないとか、住宅地の復旧を優先して工場や商業地はまずは自助努力にゆだねているのかもしれません。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大槌町

2011-08-09 | 東日本大震災
宮古魚市場で写真を撮っていると、同じように写真を撮っていた人に声をかけられました。
その人は県の仕事で、各町の復旧状況を確認するために写真を撮るという仕事をしているということでした。
その人の話では岩手県の中では大槌町が一番復旧が遅れているということだったので、覚悟をして町に入りました。(Googleマップ参照)


国道から市街地に降りる側道に入ります。



この時点では既に津波被害や瓦礫については感覚が麻痺しつつあるのでそれほど驚きません。

まずは漁港のほうに向かいます。




構築物の被害が津波の大きさを物語っています。




港に近づくにつれ、魚の腐臭が強烈に漂います。
水産加工業者の冷蔵倉庫の在庫などが腐敗したのだと思いますが、実はこのあとどこに行っても、ほとんど腐臭はありませんでした。
それだけ建物の解体、撤去が進んでいないことになります。

堤防を利用して瓦礫が眼一杯積みあげられています。




魚市場



復旧には程遠い感じです。


Uターンして、今来た道のほうを眺めます。


地盤沈下して、道路面より宅盤がかなり下がっていることがわかります。
これはどこの町でも共通で、港や建物の復旧に大きな障害になりそうです。


ちょうど大潮にあたっていたのですが、地盤沈下のため港から浸水してきています。
普通は堤防はなくても大潮の満潮時よりは高いところに岸壁は作っているはずです。





市内を流れる大槌川にかかる橋



こちらは欄干が曲がっているものの橋は無事だったのですが、50mほど下流にある山田線の橋は橋げたごと流されています。




橋のたもとから西側市街地方向




北側市街地方向


鉄筋コンクリート造の建物の解体はまだ終わっていない感じです。


橋の近くの空き地に集められた自販機。



まとめてベンダーに処理してもらおうと集めたのでしょうか。
瓦礫にしても、燃える木材と不燃物もコンクリ、金属、自動車などに分別しないと処理もできないのが手間のかかるところです。


コンビニ




市の中心部



このあたりに町役場があり、役場ごと流された上に町長も被災して亡くなったそうです。
もともと行政単位が「町」なので予算も職員の人数も少ないことも復旧が遅れている原因ではないでしょうか。

城山公園から市街地をのぞむ。



市街地が平坦な部分に展開し、そこがのほとんど全てが津波の被害にあっています。
なので、再建の梃子になるものを見つけるのが難しいのかもしれません。

遠くに見える狭い湾口から町を流してしまうほどの津波が押し寄せてきた時の様子をかんがえると怖ろしくなります。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮古市中心部

2011-08-08 | 東日本大震災
田老町の被害を目の当たりにしたあと宮古市の中心部にはいると、被害の程度の差に驚きます。(Googleマップ参照)

宮古港は入り口に閉伊崎があり、防波堤の役割を果たしたのかもしれません。
それでも港周辺はかなりの被害がありますが、駅や市街地は浸水はあったようですが、日常を取り戻しているように見えました。


宮古漁港。
やはり港は被害を受けている。
後背地の水産加工会社があったらしき周辺は被害にあった建物が撤去されているが漁港の建屋自体は一部損壊で片づけが行なわれていました。






平成7年にできた宮古市の魚市場はほとんどダメージがなかったらしく、トラックが出入りして普通に営業を行なっているように見えました。



宮古市魚市場の詳細については公式サイト参照



港から河口付近は大きな被害を受けた建物も見られます。


ガソリンスタンドの看板が折れ曲がっていることに注目



ただ、市街地では地震の被害が大きく解体した建物の跡地と思われるものはありましたが、おおむね普通の日常を取り戻しているようでした。





海水に浸かって枯れてしまった道路の植栽を撤去している人々。
そこまで手が回るということは、比較的復旧が進んでいる証拠のように感じました。




ちなみに、ラサ工業の巨大煙突(参照)は無事でした。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮古市田老町

2011-08-08 | 東日本大震災
つぎは宮古市田老町(Googleマップ参照)

吉村昭の『三陸海岸大津波』でも取り上げられていたように、明治29年、昭和8年の津波でも大きな被害があった町で、その教訓から、高さ10.6m総延長2.4kmの巨大な防潮堤を設置していた町です。

しかし今回の津波はその防潮堤を越えて町に壊滅的な打撃を与えました。



港の近くの崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートが取り付けられていますが、今回の津波はそれらのプレートを壊してその上まで到達したことが伺えます。



下のプレートが昭和8年の10m、上が15mと書いてあります。



国道を通ると市街地への入り口には昭和8年の津波の遡上地点を示す標識があります。
(この写真は市街地側から撮ったもの)
今回の被害はそれよりはるかに陸側まで広がっています。





これが防潮堤。陸側からの写真ですが、津波に乗り越えられて手摺が曲がっています。





防潮堤の上から。
左が海側で右が陸側ですが、ともに建物が撤去されてなにもない状態です。





港。瓦礫撤去はほぼ終わってますが、鉄骨類の分別集積をやっているところです。





港から市街地を見る。

手前の防波堤は完全に破壊されています。
建物も残っておらず、奥に見えるたろう観光ホテルくらいです。(地図を見ていただくとそこまでけっこう距離があることがわかると思います。)





漁港にある冷蔵倉庫。写真で見ると冷蔵倉庫の裏の崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートがあります。





たろう観光ホテル。この場所で3階の高さまですごい勢いで津波が襲ったことがわかります。





おまけですが、携帯電話の基地局(ドコモ?)

かなり海に近い場所にあるのですが、基礎がしっかりしていてしかも地上部が細かったので押し波引き波による被害を逃れたようです。(根元のところに何かがぶつかった跡があります。)





防潮堤は津波を完全に防ぐことはできませんでしたが、防潮堤がどれだけ津波の被害を減少させることができたのかを検証して、今後の防災対策に生かしてほしいものです。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田野畑村、宮古市小堀内漁港

2011-08-07 | 東日本大震災
普代村から南下します。

隣村の田野畑村には、上に列車を載せたかわいい水門があります。
二年前に三陸海岸を列車で南下したときにみつけたものです。
Googleマップ参照

 ※そのときのエントリはこちら
      岩手三陸フリーきっぷの旅(その1)
      岩手三陸フリーきっぷの旅(その2)
      岩手三陸フリーきっぷの旅(その3)

二年前の写真




現状



昔の姿を知っていると、被害の大きさをより実感します。


このあたりで気がつき始めたのが、地震の揺れによる被害と違って、津波は遡上した範囲はことごとく大きな被害を与えるのに対し、津波が及ばなかったところはまったく無傷だということ。

たとえば田野畑村も斜面沿いに住宅が立ち並んでいますが、津波が及んだところは建物が全滅(または解体が必要なくらいの被害)したにもかかわらず、津波が届かなかったところは無傷で残っています。



この「0か100か」という違いが、被害にあう人や町は全てを奪われてしまう、復旧するにもとっかかり自体がない、というのが被災からの復旧を難しくしている一因だと思います。


つぎに宮古市に入ります。
市の北に小堀内漁港という小さな漁港があります。
Googleマップ参照

ここは津波が37.9mと今回の津波でも有数の高さにまで遡上したところだそうです。

切り立ったリアス式海岸の間を縫って道を下っていく途中から、陸に上がった津波が斜面によって狭められて急激にたかくなったであろうことが想像されます。


走っていると、いきなり道がなくなります。



霧が出ていたせいもあってかなり怖いです。

路肩が崩れた道を下っていきます。


セメントの擁壁が壊されています。




ここが行き止まり。
漁港があったところですが、今は何もありません。




陸のほうを見ると津波の威力がわかります。




借りた車ーが写ってますが、かわいい路線のデザインの軽自動車が異常に不釣合いです。



小堀内漁港に下る手前の丘の上(はるか高いところ)にグリーンピアというリゾート施設があります。
ここは今仮設住宅が設置されています。

ただ、場所的にはリゾート施設があったところだけに買い物などはかなり不便そうです。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県普代村

2011-08-07 | 東日本大震災
先週東日本大震災の被災地をぐるっと巡ってきました。

被災地は南北に相当範囲が広いうえに、まだ現地の宿泊施設が整っていないので、内陸部に泊まりながらレンタカー移動でした。

現地に行った友人・知人の話を聞いたり道路の通行制限状況を調べたりその他情報収集をするなどで準備にけっこう時間をかけると、だんだん見に行く範囲が広がってしまって、結局上のまとめエントリにあるような盛りだくさんなものになりました。

それだけ、道路については沿岸部で片側交互通行や迂回路、架設の橋はあるものの、機能的にはほぼ復旧しているといえます。


会社から夕方怪しげな旅装束で出てそのまま新幹線に乗り盛岡に入り、翌朝レンタカーを借りて出発。

八戸道経由で久慈に出て、そこから海岸線を南下しました。

久慈市内は港周辺に被害が集中していますが、市街地は日常生活を取り戻している感じでした。

国道を下っていくと、海に近い開けたところに出ると、いきなり津波の跡の瓦礫の山や枯れた松林などが眼に入り驚きますが、これが数百キロにわたり続くことになります。

最初の目的地は
普代村。(Googleマップ参照)

港湾土木の友人によれば、ここの水門は津波に2m超されたものの機能を維持し、中心部の浸水を防いだそうです。

村の中心部から海方面にしばらく下っていくと水門が見えます。





かなり立派なものですが、同様の構築物が破壊されている状況もこれから何度も見ることになります。

水門の上から山(集落)側



水門の内側の通路のようなものは壊れていますが、上流の林が枯れていないので、津波の遡上もそれほど大規模ではなかったようです。集落はかなり上流にあり、津波被害は見られなかったので普代村のハザードマップで想定されたほどの被害はなかったようです。


海側



海側は(何かあったとしても)全て流されています。

水門の脇を見ると、水門より高いところまで津波が来たことがわかります。
(関係者には有名なのか、視察に来ていた人が端っこに写っています。)





このように津波を防ぐことのできた施設もあったということはちゃんと評価したほうがいいと思います。
やはり堤防などの高さの絶対値が大事なのか、設置場所や形状で影響が変わってくるのか、工法の工夫で改善の余地があるのか、費用対効果はどうなのか、というあたりについて今後検証と研究がなされるのでしょう。

建築の先生が言っていたのですが、建物も同様で、今回の震災で耐震基準を満たしている建物が地震の揺れによって倒壊したものは(おそらく)なかったということも、けっこう大事なポイントだと思います。


とはいいながら、この後、いろいろなところで津波の力の大きさに圧倒されることになるのですが・・・



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しょうがない

2011-08-02 | ネタ
熱中するのは悪いことではないんだが...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする