もう立春はとっくに過ぎているのに
今年の札幌は、、、雪ばかり降っています。
昼ごろになると、NHK旅の番組に元気をもらっています。
懐かしの三つ峠登山でした。
忘れもしない昭和36年
受験校の国立高校を受験するか?
隣の隣の駅の女学校で
今は男女共学という、、、穏やかな都立を受験するか?
中学の先生は、
「家が開業医なんだから、医科大学に行きたいのなら国立ョ。」
医師になるという事でないのなら、、、愉しい高校時代が良いわね。
「普通の四年制大学なら、都立で、人間力向上のクラブ活動する事ね」
選ぶのは、本人だから、、、と、先生は、ニコッと笑った。
進学の面接は、きわめて短く終わった。
家に帰って、家族と相談したら、
、「朝寝坊できるし、近いし、隣の隣だろう!」と、
長男の意見は、考える余地のない、即答でした。
母は、一つ違いの「次男が医大に行くのなら、応援するが、
女性の医大進学は、応援しない」という。
私の下に、
「絶対医師になると、小学校から宣言している弟」がいる。
2年浪人して、東大をあきらめた兄は、大学院進学をやめた。
学者希望だった長男は、東大に執着して、失敗に終わった。
我が家から一番近い「私立医大」に進学した手前、
親は、、、進学については、夢を語らなくなっていた。
子供たちの授業料のおかげで
エンゲル係数は100に近い我が家であった。
下手をすると、私のごとき、
末は姓名の変わるものは
四年制大学も、
やってもらえなくなる状況もゼロではない。
開業の家で育ち、普通の良き娘さんになれるかというと
回りが、仲間に入れてくれないだろう、
強くならねば、医家に育ったというだけで
構えてくる人も結構いた時代だった。
戦後は皆。一億総貧乏時代だったから、
中流の医師の家族は、内情はともかく
外からは、良く見えた時代であった。
東京横断してまで。国立に行くなんて、
電車賃毎日いくらかかると思ってるの?
隣の隣に、立派な高校があるんだから、、、、
16人もいる居候や
住込みの看護師さんも、お手伝いさんも
「私なんか、高校行くって言ったら、バカ!働け!って言われたのよ。」
お手伝いの「あつこ(仮名)は、高校進学が当然という私に嫉妬する。」
お父さんも、、人が良いんだから、、、
親戚、兄弟、そのまたお嫁さんまで、皆、焼け出された人、
学徒出陣で帰ってきた弟、引き取って
28歳から受験して早稲田に合格したからって、
授業料から、部屋から、お嫁さんまで、ど真ん中の二部屋提供して、、、
我が家って、、、良くやって行けてますね!!!
ともかく、折角先生がくれた、国立の願書は、長男が破り捨てた。
「何の権利があって、人の願書を破るのよ!」
「お前が迷わないためだ!、、、あと二人、男の兄弟が居るんだからな!」
兄の顔が「般若に見えた。」
でも、、、結果は極めてよかった。
小松川高校は下町の良さがあふれて
青い山脈の青春の映画のような
さわやかな、素敵なクラスメートが多かった。
華美ではないが、
黒いせーら服のリボンを結ぶのに
リボンと結び目と、
セーラー服の襟からのはみ出し部の比率に
休み時間を全部使って、こだわったりした。
入学のとき、
クラスの同級生が分かり合えるまで
「あなたがクラス委員をやってください。」
御茶ノ水大学を出られたという、独身の御婆ちゃん先生から
どういうわけか、私に、めんどくさい役が回された。
この高校は、
私より成績だけなら良い人がいっぱいという感じだった。
御婆ちゃん先生は、
「あなたの家は開業医だから、色々な職業の人が来るでしょう?
このクラスにも、いろいろの職業の人がいるからお願いするのよ、」
どんな人も、どんな職業も一つのデーターとして受け入れ
其の人の「命」を見つめる開業医のお家に育ったことは
きっと、クラス委員をすると、皆助かると思うのよ。
ここの高校は、勉強以外の人間力が大切なのよ、、、と。
きっと、バカ御嬢さんの、依存性の高い生徒が
クラス委員をこなせるかの試験かもしれない。
疎開先で山育ち、父は軍医経験者、
母は、モダンガールの明治生まれの国立音楽大学卒、
きっと、両親の経歴が、この地区では
変わっていたのかもしれない、、、
私自身は、
成績云々ではなくて、委員を頼まれやすい
虚弱な、嫌と言えない雰囲気だったかもしれない。
「明日からは、手伝ってね」
「はい、、、!」
何でも引き受けてみようと思った。
おかげさまで、友達が早くできた。
写真部、放送部、絵画部、科学部と、
興味のままに、半年はローティションを試みた。
放課後は、各部の責任の来ない部員に登録して
存在を消し去って、
新世界の事を知ろうと、私なりに頑張っていた。
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結局、山の好きなメンバーの多い、写真部に籍を置いた。
受験クラスは10クラス前後の内2クラスだったように記憶している。
進学で、がりがりのがり勉蒲鉾は居なかった。
土曜日、日曜日をかけて、事あるごとに山に出かけた。
帰りには深大寺のニシンそばなど食べて、
最高に幸せだった。。。。け。
この高校はの素敵なところは、
蓼科山に山荘を持っていたことであります。
夏休みに、山荘に出かけて、5時ごろ起きて、
冷たい流れの水で顔を洗った時の新鮮な朝を、
今も忘れない。
岡田さん、タケサン、久保やん、、菅井さん、、、あの、、目の細い、、、えーーーと
誰だっけ、、名前が出てこない。
夏休み、山梨のあたりまで、登山したっけね!
あの時、「三つ峠山」に、皆でいったよね!
てっぺんの岩のそびえるあたりで
空模様が激変して
真夏なのに、小石のように氷河降って来て
その氷の中には
がちゃがちゃのプラスチックボール大の大きいのもあって、、、
怖かったよね、
リュック頭に乗せて、岩陰にしゃがんで、
山の天気の心変わりの激しさを、身に染みて体験したっけ。
三つ峠を、ちんたら、、ちんたら、、、歌うたいながら、
登っては休み、写真を撮っては登り、、、のんきな登山をしたっけ!
NHKのプロの登山家は、その点、実にプロですね。
朝、天気を確認し、山の天候が変わる前に登頂成功!
すぐに下山!
さすがに「持ってるプロの登山家!」は
三つ峠の山頂の霧を、オーラーで晴れさせて
富士山を観てから下山。
私たちは、霧が晴れるまで、遊んで、、、待ったっけ!、、(^^
あれから、55年ぐらいになりますかね?
人生で「何を思い出す?」って、、、
皆と言った、、山々が、人生の友達のように、心を温めてくれる。
とうとう、、、お礼も何も出来なかったけど、
白山登山に連れて行ってくれた、日大の生薬学の先生方と
主宰された、金沢大学のM教授!
皆より、2時間遅れて、山頂に着いたときは、
日がとっぷりと暮れていた、、、け。
その後信州の山を3日かけて縦走しましたね。
水辺でであった「燕尾せんのう」のオレンジの花に見とれて、
又、又、、、、遅れてしまったっけ、、、
山の写真、花の写真、カメラが普通のカメラなので、
自分だけで楽しむ写真集になりましたが、
結局、、、友達は、、、一期一会の「山の花」だったのかな?
シラネ葵に逢った時のときめき、、、
山頂近い尾根で群生していた白玉の木、
あまりの可憐さに、、、思わずほほを寄せたら
鼻息で、飛んでしまった、、、さんかよう、、、(++!
ヤナギランの山から山に敷き詰められた赤紫の絨毯!!!
信州には体力でのみ買える、、、一瞬の宝石が光る。
その宝石は、心の琴線に触れる光の芸術だった。
天気の変わらないうちに踏破する山のプロの登山を思うとき、
何事も、素人の遊びのうちは楽しいが、
彼の場合、ひと筆踏破の登頂成功の自己との限界までの戦いだから、、、
きっと、山は、友達という、、、のんきな気持ちにはなれないでしょうね。
登山という言葉と踏破する登山の間には
次元を超えた迫力の違いを感じながら
NHKを楽しみに見ている72歳の婆ちゃんです。