花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

先生は、戦後、大きく変わったといわれる。、、思い出してみよう、、先生を。

2017-06-06 13:28:27 | Weblog

むかし、昔、、、先生は偉い人でした。

師の影三尺離れて、踏まないように教えられました。

私の母のお父さんにあたる、、、つまり「おじいちゃん」は先生でした。

私の母の母にあたる、、、つまりおばあちゃんも先生でした。

明治生まれのお爺ちゃんの時代は、今の筑波大学にあたる教育大は

師範学校として、厳しい国策にのっとって、意義をただし、、、、

今のお兄さんやお姉さん、はたまたお友達のような「口のきき方」は、出来ませんでした。

お爺ちゃんは、普段は威厳があっても優しいいい親だったと、母は回想していました。

毎朝、朝礼で、白い手袋をして、厳粛に「勅語」を朗読したと言っていました。

その時のお爺ちゃんは、よその叔父さんのように、他の生徒と同じように接してきたとのことです。

朝礼は長いし、遅刻すると立たされるし、だらだらすると、皆の前でも注意するし

母は先生をしている居のお爺ちゃんは、他人だと思って割り切っていたと、、、笑いました。

御婆ちゃんは、明治時代では珍しい才媛で、先生をしながら、

自宅を開放して、「生きてゆくために必要なお裁縫を、無料で教えていた。」そうです。

厳格な性格のお爺ちゃんの、まっすぐな生き方に、良く盡せたと感心する。

27歳で、お爺ちゃんの兄弟が、アメリカに渡って、

カリフォルニアの砂漠地帯の緑化の目的や、

日本人町の開発がされていた時期でもあり

当時の師範学校や、大学に相当する専門の学校を出た人たちは

急速に明治の文明開化で、海外に、海外にと、視点が開けた時期であった。

私が、お爺ちゃんに出逢ったのは、世界大戦の後の敗戦で、帰国し、

疎開地の町長と学校の校長先生を兼任していた昭和25年頃であった。

串本や、古座川沿いの、多くの集落の村が集まって、町となっていた。

其処に、娘である私の母が、東京の宮内庁の皆さんが、入院してくるという

慈恵会医科大学を卒業して、市谷の文人通りや、神楽坂の毘沙門天が

青春時代の友達とのとーむタウンであったという父が、

戦争で、実家も、母との住まいも、財産も、子供たちまで3人亡くして、、、

母の故郷の南紀の山奥へ、山奥へと、、、

疎開という行動に導かれてゆくのでした。

疎開という運命の出会いが、

この、集落の集まった町との人々の人生を、側面から支え

供に、敗戦の心の痛みを乗り越えて、

、医療のみならず、心の文化を育みながらも、妻である、私の母の心も

少しずつ、、、少しずつ、、、癒し、立て直していったのでした。

 

戦後の日本の立て直しに、一役も二役も、

果してゆくことになったのでした。

そして、、、母が40歳という、当時としては「高齢出産」に挑戦したのでした。

亡くした3人の子を取り戻す!母の口癖だったように、

少女の私には、「、、、取戻す、、、、という意味が解らないままに」

弟が、誕生した時、

「とりもどしたの?」と、母に言ったら、、、

「違うよ!この子は、新しい子供だよ!!!、、、戦争を知らない、新しい時代の子だよ!」

母は乗り越えたのでしょうか?

戦争での喪失感や、我が子を失った喪失感から、立ち直ってゆくのでしょうか?

その時は、意味も解らず、、、「新しい赤ちゃんが生まれたよ!」

私は、皆に伝えて、嬉しくて、うれしくて、、、

赤ちゃんに、、、ほっぺをくっつけては、話しかけておりました。

その後、新しい赤ちゃんのおかげで、村も、町も、集落も、

新しい時代に向かって、立ち上がり始めてゆくのでした。

                                続く、、、又、書きたくなったときにね。

ともかく、、、、戦争だけは、、、もう、、、二度とない世界を目指して

日本は、復活した今、世界平和に貢献してほしいと祈っています。