上皇ご夫妻が天皇陵を参拝
6月12日の夕刊に掲載されていた見出しには
退位を報告 と、
太い字で印字してありました。
上皇ご夫妻が 京都市東山区の泉涌寺を訪れ、
退位の報告の為 孝明天皇陵を参拝した。
記事はもっと 詳しく報道されていますが
上皇様となられ、ご夫妻は公務や伝統行事で
お休みになれない日々が続いているのですね。
昭和、平成、を生かされてきた私たちにとって
人災とは申せ、戦争は天災よりも
心が、立ち直れなかった時代が思い出されます。
国民の御一人として、
美智子様が、皇太子殿下の御心を
世紀の恋とテニスの恋、、、戦後の復活は
日本は、植民地にならない、又、世界のいかなる国も
日本の存在は、日本にしかない文化の継承と
天皇陛下が、
いつの世も、
千年以上、
民とともにいらっしゃったという
日本人の心は、どんな時も、日本であったという
過去が現在に続き、未来に希望の光となって
戦後の慰霊の旅をして下された事で、
大事に世界大戦は、
原子爆弾で人間を元素にしてしまうという
神の域に足を踏み入れた戦争に対して、
人間が人間ではなくなる、元素へ分解してしまう
問答無用の地球への支配は、
動植物のみならず、地球そのものを
核戦争が壊してしまう未来が見えるだけに
2発も「原子爆弾の被爆を受けた日本が
立ち直れたのは、
平成の両陛下の、
国民と皇室の共通の思いを
両陛下の慰霊の旅は、畏れ多い事でした。
退位のマジカな月に
札幌三越で、両陛下の慰霊の旅や外交のご公務の
写真展を、主人と一緒に観に行きました。
あの展覧会の中で
万歳岬に慰霊の鎮魂のお辞儀をされていた両陛下の
後姿に、思わず、こみあげてくるものがございました。
敵の捕虜になるくらいなら
女性は高潔な魂のまま
海に身を投げていったという事は
昭和生まれの者なら、サイパンへの慰霊は、
涙とともに絶句する出来事でした。
日本人は天皇陛下とともに
歴史を振り返るとき、
言葉にも、詩にも、文にも表現できない
日本人にしかわからないだろう、、、
国の母の美智子様とともに
光に導かれて、両陛下の後姿のお写真の後ろにならんで
慰霊の涙がこぼれました。
原子爆弾を2個も落とされた日本は
昭和天皇の玉音放送で、戦争を終わらしてくれました。
ラジオから流れる玉音放送に
国民は皆、頭を垂れて、戦争が終わった事に感謝しました。
皇室の慰霊の旅の毎に
立ち上がる勇気をいただき、
光の方へと歩き出したのでした。
日本は、上皇様ご夫妻に
80歳過ぎても公務をされたお姿に
平成時代は、過ぎても、私は、忘れられないと思うのです。
戦後のどさくさの中で、
お手本になって下された美智子様の事は
天から光の滝が降り注いでくれるような
戦後のまっすぐな
女性のお手本でした。
いつの時代になっても「感謝」の心でいっぱいです。
忘れません。いつまでも。
民間人にはとても、真似のできない激務をこなされ、
感謝です、
これからは、ご健康を第一にされまして
ゆっくりと ご養生されることが 国民の願いです。
平成天皇陛下が
手術をされて、間もなく東北の被災地のご訪問をされたとき
ハラハラ、ドキドキしながらTVを拝見していました。
あのころは、弟も国立がんセンターの
検診検査研究の現役間ただなかで
陛下のお体を心配しながら、
ご公務の多さにびっくりしていました。
これは私的な日記ですが、
平成の皇室に
感謝、そして、国民の一人として
令和の時代に、 感謝します
兄からこんな手紙をもらいました。
40年も前に
神様は天皇陛下のお体を守れるように、
基礎の基礎の基礎の研究で
主人は博士号を取得していたのを知りました。
手術された前後は、論文の問い合わせや
論文のコピーを、引用された思い出があります。
あちこちから、質問もありました。
40年後に、実際に手術を出来る医師が現れて、
医学の世界も、歴史同様に、学門が受け継がれていって
引用されながら、発展してゆくことを知りました。
人間は、、、一人では、、、一部しかできませんが、
歴史と時間と、代がつで居てゆくことで
神業のような、外科医が産まれるのですね。
真夜中で、、、寝ぼけの文になっていますが
明後日までには、きちんと推敲した分に書き換えます。
今夜は、、、とりあえず、、、睡魔がすごくって、、、ドターってなります。
平成の陛下の激務の公務とご病気を回復されて心より
お慶びした日が昨日のようです。