花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

父の日が過ぎてから、眠れなかった、

2019-06-17 03:47:05 | Weblog
昨日は父の日であった。

息子達の父の為に、付き合う家族。

孫たちの都合に合わせ、先週の日曜日に

父の日会食で、回転すしやにて、
皆で父の日の感謝を表敬したが、

、本当の父の日は

札幌の天気も雨が降ったり止んだり、、、風も強い。

日曜日は、ゆっくりとTVも観たいし、「笑点」もあるし、

この年になると、

夫婦の間には父の日も母の日もない年齢になった。



お互いが空気のように、
勝手に動きながらも

仏壇の父母を思い

それなりに、時間が過ぎてゆく。

夕方、息子夫婦がちょこんとやってきて

「お父さんに、コーヒー」と
母さんの疎開していたという
紀州の梅の味を持ってきたよ。

「国産、紀州 南高梅アソート」と
四国で創られている「ゆずドリンク」である。

高校生と中学生の育ち盛りの息子たちは

試験の最中とかで、
息子夫婦は久々の買い物に行ったようである。

ささやかな思いやりに、、、主人ははニコニコしていた。

私は、この雨をチャンスとばかりに

庭の草取りと、蜂も虫も来ないうちにと

昇り藤の種がびっしりついた花穂の部分をきりながら、

花の派手さの陰で
目立たぬように種をつけている雑草を
抜きながら

全身運動を兼ねての家の手入れが

目で見える、触れば解るという品物ではないが

存在がなくたって、

父の日のプレゼントのつもりである。

なかなか帰ってこないので、

さすがに気になったのか、
庭に出てきた主人は、

90センチ四方の透明ごみ袋に

びっしりと詰められた雑草には
全く、気が付かない様子で、

「シャクヤクの花、、、綺麗だね!」

確かに、、、ゴミも女房も、空気であり

深紅の上品で艶やかなな芍薬は

まさに、万人の目を奪うだろう。

40代に主人が単身赴任して、

函館の国立病院の勤務に2年間勤務していたころである。

朝昼夜と三回分の弁当を冷蔵庫に創り於いて

水を得た魚のように

社会参加の正職員勤務だった。
40代後半まで医局の生活をしていた主人は
本当に楽しそうに頑張っていたが、
外科の医局は人数も多い。
各人が世界を舞台に
インターナショナルな巨人である。

そこで医局長のお仕事を担当させていただいていたわけですから

社会の、大学院大学に居るような、
日々新しい知識が入って来たことでしょう。
完全に、自宅は、主人不在。

充実していると、
健康状態に気が付かないままに
オーバーワークするものなので

おかめ八目で
歳周りから言っても
主人の年齢は縁の下になる。
家内から言わせると
同じ北大を卒業して、
チームの呼吸が合わないと手術は一人では出来ない。
スタッフが信じられる北大卒に囲まれて

人様の命を前に
難しいOPEに臨むのだから
相棒になるスタッフとのチームが
いかに大事かは

ど、、、ど、、土俵外の私にも解る。
父が開業していた経験者なので

優秀なスタッフに来てもらえるには
お金では解決できない「絆」が必要である。

私が2歳の時、
大やけどをしたとき
京都大学の教授でいらっしゃった先生が

はるばる汽車に乗って、指導に来てくださった。
4歳、6歳と、、、
子供であるため、骨の成長をさせ乍ら、
皮膚を何回も切開して、縫合を繰り返しながら

成長に合わせて、手の形をつくりながら

組織や機能の回復手術を繰り返すのだった。
風呂上がりに「タルク」という粉で

父は毎日、毎日、、、「のう、、、」とつぶやきながら、
私の手を、指が伸びる方向にマッサージするのでした。

2歳と言えば、まだ、意識が固定していない。
母の所に居たお手伝いさんが

小さなお店を持った男性から「お嫁さん」に欲しいと
母を通して、申し込まれた。、、、

母は、あの時、なんで、、、結婚を勧めるようなことを
言ってしまったのかと、、、後悔していた、

疎開地では戦陣外科を体験してきた40代の父は
村々の最重要なスタッフの一人として

父が村で受け入れられているからこそ、
母も、子供たちも、悠々と、、、
のびのびできていたのだという事が
後日、大学で「教職課程」を取得するときに
日本の大きな問題として、残っている
歴史的な出来事だったことが
20歳過ぎるころ、私は理解できるようになったのである。

疎開で、七か所の村が無医村で
B29も飛んでこないところに
唯一の医師として入り

大歓迎をされて、



戦後の貧困時代にも、
作物や、川魚や、山で採れたと松茸やクリ、ヤマモモの実が
我が家の居間には光り輝いていたのを思い出します。

父は休む暇もなかった、
どこの家も、親子で運動会や学芸会に来ていても、
父は仕事だった、

村の娘さんを看護婦さんがわりに雇用して、
夜は、村から30分も三輪バタコの自家用車に乗って
准看護婦の学校に行けるようにして、

知事さんからの免許を取得させていた、

もう少しで、准看護婦さんになれる娘さんに
母は、言われた通り
結婚話の中継ぎを話のついでにしたのだった。

良かれと思ってしたことであったが
娘さんは、父のもとで見習い看護婦をしながら
准看護婦になろうとする自分自身が
挫折させられると、、、誤解したのだった。

後日、そういう解雇の為の縁談ではなかったことがわかり
父も母も。その娘さんが准看護婦さんになって
街の病院に勤められるまで

めんどうを見続けて、
心には、なんのわだかまりも残らなかったが、

私の右手は7回の形成手術を受けて
一番とばっちりを受け止めたのでした。
しかし、父の、村唯一の外科医で、
戦争前は総合病院の院長さんで、
日赤の看護師さんらと、戦地では
ボロボロになるまでご奉仕した経験の持ち主だったから、

娘の右手の大やけどは、戦場の悲惨さを思えば
厄おとしぐらいに思えたのかもしれません。

ひたすら、医師として出来ることだけを
体当たりで、娘に医療を施してくれた父でした。

たった、、、一回、右手を▽布でつって

ちっと一緒に「那智の瀧参り」をしました、
父は、華厳の滝の大ファンでしたが

「那智の瀧は力をもらえるような気がする。」と言っていたのを思い出します。


歴史的にも、動かしがたい風習のある村で
疎開をするという事は、

村は「村のしきたり道理」の婚姻で

村の唯一の診療所の奥さんだからと言って
「婚姻をお世話することで、解雇と勘違いされるような、、、」

結婚お世話という行為で、
過剰な愛情が、
村で育った娘さんに理解されなかった。」

自分の夫が、村人の大切にしてくれる医師だからと言って

奥さんには、
プライベートな村の結婚に
関与する権利はないという、、、、誤解が、

ちょうど、、、
ひざに乗せて、あやしていた娘の私が

抱っこされて囲炉裏の傍で
居眠りしていたという
タイミングの悪さだった。

解雇の為の縁談と思ったのだろう、、、
膝の上の私の手を放して、
そのまま立ち上がり
母の前を去ろうとしたという。

そのとき、
囲炉裏の対面に居た母は
「ミーちゃん、、、早く早く!!!抱き上げて、、、」
振り返って戻ってきた娘さんは、
我に返って、私を抱き上げたときには
私の右手は団子のなっていたというのです。

お手伝いに任せて、
言いつけてばかりいる癖が

「あなたの手を焼いてしまった、、、ごめんね。」

母は繰りことのように、
ため息交じりに言っていたっけ。

「あの時、、、女中に戻ってきて、囲炉裏から
抱き上げなさい」と、、、

命令している暇があったら

何で、
目の前で、

火をつかんでいる我が子を

自分で抱き上げなかったのかと、、、悔いても悔いきれない!」

母は折に触れては、私に言った。

「それは、、、私が言うのなら話は分かるけど、、、
私が、そんなこと思ってないのだから、、、
いつも、いつも、おんなじこと言うのやめてよ。
治ったんだから、、良いじゃない、」




17歳になって、警察病院の大森先生が
「Zカット」という形成術の手術を日本で初めてされており
最後の仕上げに、成長した骨に何度も形成を施して
皮膚の厚みが出来て、、、全体にヒキツレテイタ薬指と小指と
手のひらへの移植手術の境目に

まるでゴム紐になったような手術をしてくださいました。

包帯をとるとき、、、優しい笑顔でおっしゃいました。

「よく、、長い間、何回もの手術に頑張ったね!、、、完成だよ。」
本当に、私には優しい優しい先生でした。

でも、スタッフの人も、秘書さんも、看護婦さんも、

「怖い先生なのよ、、、!」と言っていました。

右手の火傷のおかげで、私は普通なら、おめもじかなわないような

大先生や教授とお友達のようになれたことは

怪我の光明でした。
京都大学の、近藤教授の先生には
疎開地を去る前に、

「お婆ちゃんのお墓も、そのまたお婆ちゃんのお墓も

大きな銀杏の樹のあるお寺にあるんよ、、、」

と、おはなししました。
「この次来たときは、診療所に泊まるから
そこに連れて行ってくれるかい?、、、そんなに大きな銀杏なのかい?」

先生は、優しいまなざしで、約束を守ってくださいました。

私の手の生体移植をするためには、
診療所に泊まりながらの手術と傷の手当てが要るという
滞在の期間を利用して、

お寺の銀杏の樹の下の、27歳で学校の先生をしていたという
母の母に当たるおばあちゃんのお墓に
お参りをしてくださいました。

私は若かったら、、、「とうちゃこ」に
手紙を書いて、南紀の山奥の、銀杏の樹のお寺に行って
観てきて下さい、、、と

NHKを困らせるような、自転車の旅をお願いした科もしれません。


子供心には、、、ヨセミテ渓谷のメタセコイヤの樹よりも
大きかったような記憶があるんです。


近藤先生が何度か来てくださったあと、
私は京都大学に受診の機会が出来て、
いつしか京都の町を、母と歩き回りながら、

日本の文化と触れ合う機会が多くなり、

火傷のおかげさまで、
私的には、ラッキーな出会いがいっぱいでした。

小学校4年生になったとき、

まっすぐは伸びないが
マルクカーブした指が5本とも切り離され、
野球のグローブのようなカーブの右手が戻ってきました。

火傷で出来た肉塊のような肉の団子は、指の内側から切り離され

移植した皮膚が、知らん顔して、私が指ですよ、、、と
威張っているようで、、、やったー!と思いました。

私は、和歌山県下の学校対抗、弁論大会に応募しました。

テーマは「私の右手」でした。

今なら、父の頑張ってくれた深い愛情とか、
母の、勇み足の縁談介入とか、

ありえないような、、、
京都大学の外科の教授の先生との出会い!
テーマが客観的な視点で構築できるのですが、

なんせ、、、小学生です、

自分が頑張った事ばかり書いたような記憶があります。

おまけに、

帰ってきた右手を、

真珠貝に例えてしまったりして、
、、


真珠の貝は、常に泣く、、、
人こそ知らない、、、海の底で、、、

真珠の貝は常に泣く。

真珠の珠は、、、涙の化粧なのです、

観てください、、私の右手は

真珠貝のように甦り輝いているのです、、、!!!

とか、、何とか、、、言っちゃって、どうだ!!どうだ!!!

観てよ観てよ、戻ってきた右手、、、

ずいぶんと、うれしさのあまり
言いたい放題の作文をつくって、

弁論大会で,
フィーバーした記憶が思い出されます。

今なら、、、恥ずかしくって、、、

良くも悪くも、、、あんなに自分の事ばかり、
一人で耐えた結果が、、、真珠のような手になった!、、、なんて。

お母さんは苦笑していたっけ。


この陰には「父が居てくれたおかげ」であることが
今の私なら、、、そちらをテーマに書いて、
大人に読ませる作文を書きますね、

お父さん、、、ありがとう、、、私の、、、お父さん。

お父さんの姿を生け花で絵のようにあらわしてみましたよ。

社会のなかにも、お父さんのような
私の成長の手本になってくださっている

一方通行ですが、
多くの指導を受けたように思える
遠くそびえる山のような人が思い出されます。

名寄の薬草園と言えば、「本間先生!」

私は、本間先生が丹精込めて書かれた
「北の薬用植物という本を

座右の銘のように

いつも身近において、ページをめくっている。

本が汚れるので、

まるまる一冊コピーして、自分用の、友達だと思って

しょっちゅうページをめくっている。

表紙には、おかしの箱の厚紙を使い、
厚めのビニールテープでしなやかに曲線に曲がるように
ぐるぐると巻き付けた表紙をつけた。

薬草を触っている手で、本をめくっても、
ウエットティシュで汚れはとれる。
原本は、愛蔵本といっよにしまってしまい、
目下探すのは困難。

植物の本で、博物館のように

まるで辞典のように

学術的な、知識の増える本はあふれている。

愛とは無関係な本がほとんどであるが、

本間先生の本は一味違う、

手塩にかけた植物たちの育児日記のように

母親が、子供の事を観るような視点で

子供の友人に至るまで深く観察しているが如く、

植物への

「いわゆる、、、深い造詣と言えばようのだろうか?」

魅力にあふれた本である。

東京と薬用植物園に行ったときは

「この植物知っていますか?」というような

絵本のような、

メルヘンタッチの本をいただいたことが有ったが、

学識の本とは一味異なる視点であった。

雨の中で、雑草を引っこ抜きながら

この手の雑草も、本間先生は、同様の目で愛していたのかもしれません。

退官後、ヒノキという製薬会社の薬草園で

宿泊学会があったとき、

私は、柴田さんの漢方の本で使われている薬草を

頻度によって、漢方処方の構成している生薬の薬用植物を

統計して分類して早朝の学会発表の時に

参加者の先生方にお配りしました。

そのとき、本間先生もいらっしゃっていて

早朝学会の席にいらっしゃいました。

合宿が終わるころ、

名寄の薬草園での見学会にと
案内状をくださいました。

薬剤師会の会員の参加権で、

名寄のサンバレーの学会に参加した帰り
本間先生の勤務されている薬草園に見学に行きました。

そのとき、

「シャクヤクは一重の花が原種だよ。」とおっしゃられて

一株、研究用にとくださいました。

又、企画の大きさから

標準品として使えない大きな半夏を、タコ糸でつないで

「こんなに大きな半夏も、収穫されることが有るんだよ。」

植物を愛でる目は、わが子を観るようなまなざしでした。

雨の中で、雑草を駆除しながら

おじいさんだった本間先生と、

主人の「笑点を見ながら、腹抱えて笑っている主人」と

同じように見えるから、、、不思議な父の日でした。

私の父は、54歳で、あまりにも早く、、、突然消えてしまいました。

今の私よりも。20歳も若いのでしよ。

毎日患者さんに誠心誠意対応して、

大きな手術の執刀をした後でした。
「患者さんが、麻酔から覚めたら戻るから、、、」と

仮眠しながら、

自分でも、、、死んだことに気が付いていないのではないかと、、、

今でも思うのですが、、、

寝顔のまま、私が大学の在学中に、、、眠り続けてしまった。

人生には。父の日があるという事は良いことです。

私が活きてる限り、父が忘れされれてしまう事は無いからです。


ありがとう、、、お父さん!

小学校の時は、右手を▽布で肩から固定したため
左ぎっちょでしたが、
今では、なんでも右手で出来るんですよ。

外科医には「愛」は邪魔で

切った貼ったの世界だと、思っている人も多いでしょうね。

父を身近に「外科医の先生」としての
厳しい一面と接してきた私にとって

振り返ると、

慈恵会医科大学の教えが
「病気を診るよりも、病人を丸ごと診なさい。」という学校だったんだよ。

父が、後日、東京に帰還して
私の兄や弟が
医者になりたい、、、と言い出した時に

何度か聞いたセンテンスですが、

父は右手が使えない私を励ましたりはしなかったが

そのことによって閉じこもってしまうような
劣等感を持つようなことが無いように

人の値打ちという事を

折に触れて話してくれました。

野口博士の事を聞かせてくれたのは

小学校に入学した頃だったと思います。

父にとっても、娘という、長い付き合いの患者さんが居たことは

親子の「絆」他に、 
治癒に向かう共同戦線を戦った人間同士の「絆」が

兄も、弟も医師になったという道へ導いて行く
「真摯な治療へ向かう医師の背中」を見せたのかもしれないと、、、」

外科医の繊細さ、 優しさ、怖さ、厳しさ、、、、私は接することで

内側から外科医の一面を知りました。

パレは、床屋さんだったんだよ、
昔の外科医は、、、つまり床屋さんは
瀉血もしたんだよ、

床屋のぐるぐる回っている看板の

赤色は動脈
青色は静脈だよ。

決して身分は高くなかったパレは

学問の域にまで、高めて

外科学という学問の始まりを世の中に示してから

「外科医」が産まれたんだよ、

子供のころ、右手をマッサージしながら、
私が、成長するにしたがって、

目線を合わせながら外科医への接し方、
先生と共同作業なんだよと、、、

言い続けた父の言葉が、忘れられません。

「お父さんは医師として、誰一人患者さんを助けることは出来ないんだよ。」
「病気と闘う本人が、自分のやる気で、体の中から見えない兵隊を
病気に向かわせて、勝つのだよ、、、、お父さんたち医師はね、、、
戦う患者さんに全力で作戦と、武器と気力を送って、一緒に戦う仲間なんだよ。」

父の言葉を思い出すたびに、

先生方のメスが「強い味方」に思えて
痛みはなかった。

私は泣いたことが無かった。
痛みは、、、恐怖や、戦う気力が無い時に感じる者なのかもしれません。

あの、、、長い年月の手術の繰り返しの中で
7回にもなる入院の思い出の中に
「痛みが思い出されない。」

お父さんあなたの可愛がっていた、、、疎開地で生まれた弟は

貴方とそっくりな顔になりました。


弟の顔を、TVやネットで観るたびに
お父さんが一緒に生きてくれた人生だったと思います。

私の結婚は

54歳で、これから外科医として、
世間様に奉仕の円熟期に差し掛かったとき
戦争で見えない部分に無理があったのか?
私が、右手の火傷で
苦労をかけすぎたのか?
市ヶ谷のお屋敷の坊ちゃんだったというから
根っこが、雑草のように強くなかったのか?

震災や、戦争で、何度も東京の生活で恐怖にあったという事が
生涯を通して、「物」ではなくて「精神」の中に
生きてる証を求めたのか?

疎開先の、7か村の唯一の診療所の医師という
年中無休で、全科に渡って診療せざるを得ないstressだったのか?

あのまま、、、村で尊敬されて、
京都大学の先生の指導の下に

医者を続けるには、学問の補給路のない苦しさがあったのか?

アメリカやヨーロッパの植民地にこそなってはいなかったが
5か国と結んだ不平等条約のもとに

「おらが村さえ良ければいいさ、、、とサザエの貝のように
自分だけ守るための、蓋をして
村に閉じこもることが

世界からの情報から漏れて、
子供たちは、サザエの貝の丸ごとのつぼ焼きにされては
たまらないと、、、東京人の父は、
戦後の教育を受けさせないと
日本丸ごと、つぼ焼きにされると焦っていたのかもしれません。

弟が、がんセンターの定年まじかに、
がんにかかった患者さんの血液の研究と
健康な人間の血液の
比較研究をしていた時、

2番じゃダメなのですか?

名文句を残した、
美人国会議員の節約対象になったのでしょうか?
研究費が突然、独立法人という名のもとに

自給自足の、方向性が示される社会の動きがあり、

完成まじかの論文が挫折してしまったという
政権交代の激動の時代に退職しました。

小さなビルから、始まった「国立がんセンター」。

東京に開業という形で帰ってきた父は、
臨床と、研究と、開発と、、、かってなかったような

これからの日本、世界に向かって一歩も引けを取らない
「国立がんセンター」が出来る!!」
無口で、穏やかな父の顔に、
唇が震えているほど、言いたいことが言えないもどかしさで

まだ、まだ、低学年の、私と、弟に行ったことが有った。

8歳年上の兄は、ちょうど医科大学を卒業したばかりであった。

当時、崎田先生と、言う言葉が、兄が口を開けば出てきた先生の名ですが

私は、、、最先端の事をなさっている先生なんだなーとしかわかりませんでした。

兄は、父の開業を手伝いながら
国立がんセンターに研修に通うようになりました、

何年か後に、指導医の認定を取得してから、

父の亡き後、「医療事情は大きく変わる、、、」

次々と、開発される胃カメラを、毎年買い替えながら、
患者さんの為に、早期発見が唯一の方法だと
当時は、がんと闘う事に、夢中でした。
三井物産に勤めた従妹の初任給が14000円ぐらいの時ですから、
一本150万円以上する「オリンパスの内視鏡」を、
毎年改良されてゆく度に買い替えるのですから
兄が作った内視鏡室は
道場の木刀かけのように、

太い内視鏡は、上に上にと押しやられ、

肩の高さの所には、頭部が回転して細くなった内視鏡があった。
そして、次には、胃の中の粘膜を引っ掻いて採取できるものに変わり、、、

そのころ、私は、未来において、我が家で医師として、
父の亡き後の、外科の看板を守ってくれるという
実家が東京にある為、いずれは帰るという北大医学部の外科医と

家の都合で、結婚することになりました。

総合病院の薬剤師として、勤務中だった私には
30歳までは、経験を重ね、熟練の技術を身に付けてから
結婚するか、自分で貯金したお金で

大学院に行くか、夢がいっぱいでした。
「なんで、、、今結婚しなければならないのか、、、」

開業を続けてゆくのには、
医師のスタッフを増やして、時代の要求に答え乍ら、
日進月歩の進化を遂げる医療界についてゆくために、

博士号を、取得したら、
開業医の実家の
「マスオさん」になってくれるという

父の生まれ変わりのような外科医が
北大で修行中と

本人と母との話し合いで、
私は、北海道に、未来の我が家の副院長を迎えるという
生きるための結婚に踏み切ったのでした。

結果は、、、国のお金で医師になった医師が
一個人の開業の為の医師になることは、

ありえないのです。

ミイラ取りの私が、、、ミイラになって
人生の半分を、雪かき、

残りの半分は、
54歳で、この世を去った父のやり残した診療を

主人となった外科医が、外科医をすることの為に
医師以外の一切の仕事や雑用を引き受けることで、

この、、、一見、、、我が家に都合のよく見えた縁談は

医学の神が裁いたのです。
私は、自分自身が優柔不断な、人任せの親孝行を
絵に描いた餅を食べてしまったのですから。

主人の友人は北大に入学してから
同級生と結婚していた、

主人も、学生時代に
彼女を見つけて、

北海道の、地元にしっかりと根を張った家の娘さんと

結婚できていたら、

北海道を家族丸ごとで楽しめたと思いますよ。

二人とも東京っ子ですから、

北海道の、感動するような名所も知らないし

私の運転で帯広から襟裳岬にドライブするぐらいで

浜に降りて、昆布を拾い集めるところにも
行ったことが無い。

晩年になって、トロピックスという
旅行のツワーで、知床に行きました。

その後、サロマ湖や、阿寒湖の旅館の
鶴雅に宿泊しました。

さすがに、木彫りの素晴らしい作品が目を楽しませてくれました。

若い時に来れていたら、主人の人生は
北国の恵みを、

享けられたと、思いました。

生涯、北海道に住むと解っていたら、

もっと、北国の良さを知るためにも

道内旅行に明け暮れていたかもしれません。