スマホの時代に
コロンブスの卵、、、と入力したら
どんな記事が出てくるだろうか?
クリストファー コロンブスは、アメリカ大陸を発見した。
そして、世界の辞典には
「コロンブスの卵」という諺が掲載されている今日である。
コロンブスが居なかったら、
アメリカ大陸は永遠に発見されなかっただろうか?
いつの世も、妬み嫉み、、、、
いじわるは人間の証のように
アメリカ大陸なんて、、、
誰でも発見できる!と言った。
コロンブスはやり返した。
「この卵を、、、立ててみろ!」
意地悪い嫉妬の連中は、
卵ぐらい立てられる!
皆の衆が卵を立てることに挑戦したが、、、
簡単そうに見える卵は
なかなか立ってはくれなかった。
つまり、、、なんのことは無い、
立たせればOKなのだから
コロンブスは、卵の殻を割って立てたのだった。
誰でもできそうな事
簡単に見えそうな事
卵の殻を割っても良いから立たせればOK なのだ!
自分にも出来たさ、、!
卵のおけつの殻が割れて平らになって、卵は立った。
実際、人がなしたことを
後から、評論するのは誰にでも出来る。
初めに卵を割って
立てたコロンブスの実績は、確かな現実となって
アメリカ大陸の発見の歴史の一ページ目に
貴重な歴史として、足跡を残すという、
真実の時間のなした事の大切さを
万人が認めたとき、歴史は真実の足跡を残すだろう。
「コロンブスの卵」という
聖書を一行で読んだような明確な、、、何かが伝わってくる。
歴史は嫉妬も権力も、政治も、、etc.
現実とは違う記録となって
真実のような顔をして残ってゆくことが多いのだと、
つくづく思った。
子供の頃の無垢な時代の
敗戦で変わってゆく日本の意識の現象が
子供心に、
素直なまっすぐな感情で、
敗戦から立ち上がり始めた日本を見た。
閉鎖されていたような自治体の治外法権のような
既得権で動いていた村落にも
アメリカ兵は、バターたチョコレートを届けてきた。
學校には「コッペパン」なるものが配られて、
ピーナツバターを塗ってもらうのに並んだ。
明治20年代に生まれた私の祖父は
東京の師範学校を卒業して、長い間留学していたので、
校長先生と、町長さんや村長さんを頼まれて
復活のリーダー役を果たしていたようだった。
晩年は叙勲を受けて、
皇居で天皇様に拝謁がかなったと、
めったに笑わない顔を
恵比須様のように、横横の皺をよせて、
孫たちにも、話してくれた、
天皇様は、
皇居という東京の真ん中のお城にいらっしゃるのだよ!
祖父の時代の人は、
皇居に行って、陛下とお会いできることが、
これ以上ない名誉であることを自覚し、
一族皆のお祝い事でもあった。
戦中であろうが、終戦後であろうが、
復興期になっていようが、
御爺ちゃんは、
今上天皇様ほど偉い方は居ないと言っていた、
ド田舎に住んでいた割には
電蓄も、世界の国のレコードも、
三つ揃えの背広姿も、御爺ちゃんと言えば
背広から取り出して時間を見る、銀の懐中時計は
夏目漱石のようにハイカラだった。
「おじいちゃんが死んだら、その時計くれる?」
毎回、御爺ちゃんに念を押していた私だった。
「おう、、、!きっと遣るから、おじいさんだと思って
誰にもやらずに大切にするんだぞ!、、、ハ、ハ、ハッ、、、。
後日爺ちゃんが死んだとき、
私は留萌の海辺で、私の名を呼ぶ真っ赤な夕日を見た。
「留萌の海は日本一美しい夕日が沈んだ、、、。」
「私は、、、御爺ちゃんが死んだ、、、と、主人に行った。」
それから数時間後に、母から爺ちゃんが死んだと、、、電報が来た。
爺ちゃんは4時に起きて、鶏に餌を創ることを教えてくれた。
校長先生と、
村長さんと、町長さんと、
鶏を200羽も飼っていることが
爺ちゃんの、表から見える仕事だった。
私は、三つ揃えの背広を着る前の
野良着のじいちゃんと、鶏のエサを創るのが楽しみでした。
ぬかと、
なんば(とうきびの事)と
ギシギシという雑草と、
雑魚の粉砕した粉と
農協に出せない不揃いの小松菜など
次節によって変わる野菜を刻んで混ぜるのである。
仕上げの貝殻は光る砂をかけるように
全体に混ぜてゆく。
大きな鳥小屋の上には
カスミ網が貼ってあって、
猛禽類が鶏やヒヨコを襲うので
バリケードとして
時には、ハヤブサが紛れてきて
私は、御爺ちゃんに頼んで、
餌をやって、飼いならしたいと言った。
「ハヤブサは誇り高い鳥だから、人間がくれたエサは食わないよ。」
爺ちゃんは、野生に戻すと言った。
私は、どうしても、餌をやりたいと、無理を言って、
地下室の大きな籠にハヤブサを入れて、
餌を食べさそうと、一日中にらみ合った。
カエルや、興梠や、青虫まで、いろいろ試したが、
絶対に食べようとはしないのである。
サツマイモを蒸かして、団子にして与えても、見向きもしないで
ハンガーストライキを続けるのだった。
2日、、、3日、、、水だけは飲んでるようだ、
とうとう、、、5日過ぎたころ、、、
爺ちゃんがやってきて、言いました。
「人間のエサを食べないだろう?、、、野生の鳥は、人にはなつかないよ。」
とうとう、、、逃がすことになった。
蓋を開けると、まっしぐらに山に向かって飛んで行ってしまった。
寂しかったが、その毅然としたハヤブサの姿は
気品に満ちていて、野鳥の美しさに気付いたのでした。
爺ちゃん、、、御爺ちゃん、、、囲碁が大好きで、
父と対決したくて、
良く碁盤の前で唸っていましたね。
9目黒石を置いても、父に勝てなくて、、、
患者さんが来るたびに中座している日曜日にも
母が「いい加減にしてください」と
怒り出すまで。夕食を傍らに、碁盤をにらんでいましたね。
この爺ちゃんが、、、
なんで?コロンブスの卵?
南紀の山奥の後醍醐天皇の時代に出来た村落の
ドンの家庭で生まれた。
代々、村落の知恵袋として
、村を納めていた家系の次男だった。
この地に生まれたのは
明治20年代の事でした。
山又、山の、山奥の南紀の里から、
現在の筑波大学の前身である「師範学校」を卒業したあと、
アメリカに渡って、
カリフォルニア州の砂漠に、
樹木を植えることから始めたそうである。
日本人の生真面目さが、カリフォルニアの砂漠に
緑地帯を完成させたと思うのです。
現地人に「コロンブスの卵」だと
砂漠の水の供給を工夫する工程には、
眼を見張る驚きを隠せない工夫に満ちたものだったとか。
地道な客土、
地道な植林、
開拓の工夫は、正に大発見の連続だったそうです。
勤勉すぎる日本人は
警戒されながらも、
アメリカ大陸に居場所を創っていったそうです。
日本人町が生まれていったそうです。
第二次世界大戦で、アメリカの兵隊として、戦い
アメリカ人になった同郷の者も居たそうですが
祖父は、日本の、原点である南紀の故郷に帰ってきました。
串本に生活の基盤を置いていたようですが、
南紀の山の奥の、村落に、電気が無いことを嘆き、
アメリカでの体験や知恵を評価されて
頼まれ町長や、頼まれ村長で
立候補者が祖父一人という、
学問とはあまり関係のない村落に
ダムを建設するという
大きな村人たちの合意のもとに、
国会議員さんや、県庁の土木建築や、
道路などに関する
政治家や、公務員、弁護士さんや学校関係者、
いつの間にか、農協の方々からも、
頼られる存在になっていました。
娘の婿さん(私の父)が、北京の大学病院に
当時は外科の医局が無かったらしいと聞いていますが
子供でしたので、祖父も父も、子供にわかりやすく
戦争と戦後の激動の家庭の動きを話してくれました。
父は、銃創や切断された手足の手術方法など、
大学病院に外科の医局が無いために、西洋医学の指導者として
日本の国から、戦地の近くの病院で、
外国人、日本人、兵隊、将校、政治家、内閣と、
目まぐるしく変わる戦場の医療班の責任者として
現地人医師の指導をしながら
いつしか戦争に巻き込まれていきました。
武運長久、、、千人針の刺繍のたすきと、
日章旗、、日赤の看護婦さんらと
野戦病院の勤務が始まった終戦の前年。
戦場の近くに居たのだそうでした。
昭和19年8月、戦場は各地とも激戦区になり
新聞の報道とは裏腹に、
あちこちで、日本兵の部隊は
掃討作戦で全滅の兆しが見え始めた頃、
祖父は、単身で、戦場の近くでメスを振るっている娘婿に
「着のみ着のまま、なにも持たずに、、、国外に、出るように
日本からの退去の認可を持って、
父を迎えに大陸に行ったそうです。
韓宇連絡船は、もはや護衛の船もない中を、
日本にたどり着いたとき、
祖父が目下
仕事のベースキャンプだった
串本から
山の村々へ
焼夷弾の降ってくる中を
防空壕に入りながら、ひたすら、
疎開地に向かったそうです。
疎開地での生活は、物資も資源も日常品も不足する中で。
敗戦の日まで、
祖父は白い手袋に
教育勅語を
朝礼で読んでいたそうです。
真珠湾攻撃で、
多くのハワイ在住だった日本人の移住者も
アメリカ兵として、戦ったり
犠牲になったことに、
黙とうをささげていたと、
母が言っていました。
山本五十六という、日本から渡米して、
ハーバード大学に留学していたという大将が
国力も、
エネルギーも、
あまりにも違いすぎる日本は
戦争が長引けば、
敗戦は、確実だと、
親しい人に話していたとか?
今となっては、真偽はわかりかねますが、
世界の中の日本を把握できていたインテリジェンスの高い
国際人も居たのに、
日本は、戦争に、巻き込まれていったのはなぜなのか?
私ごときに解るわけはありませんが、
祖父は、疎開地に電気が無いような事では
これからの情報戦争に、なすすべもないと、
ダム建設の計画が、国からの命令なのか?
村落の、近代化への目覚めなのか?
ともかく、何軒かの家は、
村落まとめて、川の底に沈むことになるが、
ダムの建設は、勧められてゆきました。
アメリカに敗戦した日本は、
追いつき追い越せ。。。と
情報の必要な時代に、
電気が通ってないことは、生き残りが
かかってくると
私が小学校3年生ぐらいのときでした。
ダムの工事が始まり、労働者の団体が
村落の飯場に集まってきました。」
つづく