さすがに、、、10年前の震災の関するTVを
ごく自然に,、、診てしまいますね。
震災地の被害に出逢ってしまった生徒に
10年と言う年月が、心の扉をノックして
思っていることを作文に書いてもらう事によって
生徒の成長をサポートしている先生、、、。
学内のTV放送の画面を見ながら
未だに、、、大自然の力の前に、、、命、、、って何なのだろう?
大人も、、、子供たちも、、、
生涯、、、生きている間中
問い掛けても答えの出ないテーマです。
被害を受けた学生の一言一言は
聖書の言葉のように、
深淵,、、深遠、、
真実そのものが
目の前の色あせない体験から降りてくる言葉のようだ。
子供たちの作文の中で、
素直な本人の心のままの発言として
死んでしまった両親に、、、いまなお、、、
頼ろうとする自分が有るという。
私の母が、7歳の時、現在のcoronaにも似て
伝染疾患の「肺結核」が流行したそうです。
私の母の実母,、、ツマリ、、、
私の婆ちゃんにあたる方が27歳で死んだとき
母は、7歳だったという。
幼かった、、、母と母の弟(私の叔父さん)は
実母が死んだ後も、、、
夢に出てくる母に頼ったと言っていたのを
役耳にした。
私は28歳の時に
「母の花、私の花」と言うエッセイにして
ありのままの気持を「生け花は語る」という
草月の出版社の本に投稿して
掲載されたことがありました。
安野さんと言う絵本作家が
表紙を描かれ、15人の女性が、
生け花の考察を書いたものですが
私は、生け花に関しては、よくわからないので
花を生けるという、、、行動になる
心の原点に、
孤独が潜んでいるのではないかと思い
母の孤独な幼年期を
北海道に嫁いだ、、、孤独と
花の孤独が重なった
自分の心を一瞬、、、内観した。
その瞬間を一気に,、、文章にして
読み返すことも、推敲することも無く
花の師匠に手渡しました。
とうとう、、、会えなかった、、、
28歳のままの祖母を、、、知りたいと思った。
どんな女性だったのかと思うとき
私の中に、、、母が入り込んだ瞬間が有った、
夢に出てきたことがあった。
母と同一人物になったような錯覚の中で
私は、戦争で、逃げ場のない逃げ場に、、
戦争の最中に、産まれています。
防空壕の中で、生まれた赤子は
栄養失調で、、、泣かなかった。
母は私を抱けなかった。
戦地まで、
我が身を振り返ることなく迎えに行った祖父が
泣かない私を抱きあげ
串本までたどり着いたとき
串本で、私の戸籍を手続きしてくれた。
母は年子の兄が生き残った事で、
やんちゃ盛りの兄だけで、
せいいぱいの逃避行だった。
外国の戦地に近い病院の宿舎から
はるばる、、、生まれ故郷まで、、、
避難してきた。
8歳の長男と、4男と、生まれたての、、、赤子!
次男三男、、、長女と、、、流産一人、、、
貧しい日本の終戦間際は
人間が武器だった。
産めよ、、、男児を!の、、、
国の生き残りをかけての
富国強兵策が、、、男子の出産!
学徒出陣、、、特攻隊、、、肉弾三銃士
戦争中の母たちは
予期せぬ、子供たちの死にもあった。
人間の愚かさが作った、、、
地獄であった事だろう!。
津波の追いかける中を、
誰かに、、、誘われて、、、
高台に避難するような、、、その時点での
一瞬の自然な、逃避行だったのだろう。
母は、激戦の戦地の中を、死んだはずの実母に導かれて
戦火の中を生き残れたと、、、言ったことがあった。
第二次世界大戦のさなか、、、
大陸から日本に帰還したときのことである。
父は
野戦病院へ向かうトラックに乗るはずが
最後のトラックも、、、来なかったのであった。
日本から、舅が、火の海を渡って戦地まで
娘の家族を迎えに来た!。
7歳の時に死んだはずの実母が、
母の父(私にとっての祖父)を
戦地の至近距離にある病院の
息子夫婦のもとに娘を迎えに行ってほしいと
誘ったというのです。
お父さん(私にとっての祖父)の言う通り、、、
子供二人と
リュック一つで、、、母は、、、
父の後について戦地を後にしたのでした。
恐怖と不安のつのる中を
どこをどのように、、、歩いているのかも
わからなかった時間が過ぎて行ったそうです。
幼いころに、、、結核で28歳で、、、死んだはずの
懐かしい、、、母が、、、
何度も、、、何度も、、、振り返りながら
母を日本迄、、、
導いたというのです。、、、
立ち止まっては、、、振り返り、、、
この船に乗りなさい。。。
この汽車に乗りなさい、、、と
まるで言っているように
振り返り、、、また…立ち止まった、、、
日本に着いてからは、
着の身着のままの姿で、、、洗濯をして
やっと笑顔が出たそうです。
助かった❕!!、、、母の、、、こんな写真は
戦争からの逃避行でなければ
凛とした母の姿以外は、、、
その後見たことがありませんでした。
稀有なる体験で、愛する家族を亡くした人には
慰めの言葉など、、、届くはずはない。
寄り添う事の難しさも感じた。
同じ苦しみを知るものだけが、、、寄り添えるのだ
同じ体験をしたものでなければ、、、
言葉は、、、空しく、、、
「何が解っているというのだ。。
と、、、慰めの言葉も無い!!」
実母を無くした母の写真は
理性だけで、、、強く生きようとしているのが
せいいぱいの瞳が語り掛けてくる。
のちに、幸せに生きている母だけに
周りのサポートのおかげかもしれません。
結婚してからも、国外で兵隊に服役した戦地の
親戚や 次男、三男、長女と
母は3人の子供を失って、、、時々、、、不思議な
音が聞こえているようであった。
幻聴なのか、、、子供の声が聞こえる、、、と
疎開地では、死んだ息子や娘に
毎朝,、、お膳を備えては
死んだ子のことを生きてる子供のように
話していた時が有った。
母は、防空壕で生まれた私のことは
自分では育てようとする気力が
無かったようであった。
父は疎開先の、戦争未亡人を私の乳母として
育児をすべて任した。
高菜のおにぎりなどを、、、
作ってくれたその女性は
男の子2人と、女の子の母でもあった。
私は、、、運が良い!
最も母親らしい女性に
育児の係になっていただけたのでした。
母は、、、たぶん、、、多くの物を無くし
娘や息子も亡くし、、、
理性だけで生きてきた,,,
ikirukoto wo mitumetahaha
強い女性にしたのは、
結核で死んだ実母が、死んでゆく、、、やぐらの上に
クラス全体ではやった和ばさみを
母が死ぬ間際まで、、、買ってほしいと、、、
せがむ我が子に、、、母さんは、、、これからも
母の朝を知らない娘が、
隔離されて、療養の小屋ごと
ダビに去れる運命を知らずに
死んでゆく母んに、、何度も何度も
来てはいけない!と、、、言われたやぐらの上の
療養小屋に這い上り、、、
クラス中の女の子が持っている鋏を
自分も、、、欲しい!、、、買ってほしいと
日参したという。
あなたが欲しいものはすべて、、、
買ってあげられない所へ、、、これから行くのです。
遠くへ行くけど
一緒にいるから、、、いつも、、
母さんにせがんで、、、来ておくれ、、、そして、、、
それを買ってあげられない所で、、
母さんは一緒にいるからね、、、
「忍耐」の中に、、、母さんと一緒にいられるんだよ、、、
夢の中で、、、実母が言っていたそうです。
母は、、、
生きる為に頑張った人かもしれません。
よそ見する余裕は無かったのかもしれません。
母を、幼くして亡くした女の子は
もっと幼い、、、弟をかばって
生きる為の忍耐強い大人になるのかもしれません。
祖父は妻が結核の末期の頃は
そのころ、、、アメリカに
いたのだと思います。
母の話には、、、祖父の事は、、、在りませんでした。
親戚に預けられていたとは言っても
実父の家は旧家の、次男で、
その村全体が、同じ姓の家が多いという
親戚の多い環境だったようです。
実母の死は、、、津波のように
母と弟を、新宮の街に運んでいったようでした。
命、、、命の火が消えるとき
津波は起きるのですね。
人間が起こす津波、、、!!!、、、戦争!
戦争は世界という広範囲を波で押しつぶす。
私、自身も、
3人の姉弟を戦争の時に失っているが
目下、、、、、、
長女ですが、、、姉が生きていたら、、次女です。
人間の罪として、戦争は非難できる。
戦争は人間の愚かさが引き起こす、、、津波だと思った。
しかし、、、震災は、。。。
大自然の地球エネルギーの氾濫です。
あ~~~と言う間の出来事であり
言葉が無い、
津波がこんなに怖いものだとは、、、知らなかった。
逃げ遅れても、、、不思議ではない。
明日は10年経った、、、とは思えない
月日の速さに驚く。
地球は真ん中は火の玉で出来ている。
転変事変は、火の玉のある限り
明日は、、、我が身かもしれない、、、災害!!
明日は我が身と心得て、、、災害に備えねばならないが、、、
ベスビアス火山のように、、、
地域ごと一瞬で無くなる津波は
私の思考能力を超えて、、、言葉が無い。
尊い命を、
一瞬で亡くされた人々に、改めて哀悼の意を表し
被害者の子供たちにも、、、
寄り添う力さえない76歳の私は
改めて、、、生きてる不思議を想い
命を、、、思う
「命」は一瞬の連続であり
一瞬の出来事で「亡くなる」
一瞬一瞬を、
「生きていること」と考えるようにして
納得のいく「死」である人生を「生きた」と言うのだろう。
76歳になっても、、、
「確実のある死への旅」が
「命」だとは、、、考えたくない。
TVに、、、映し出された少女。
少女は父母を津波から救えなかった事が
自分の非力だと、、、
心が立ち上がれなかったときが過ぎて
「命」という事を、
学友たちと考える時間を持てるまでに
災害のショック状態から
時が癒していったようである。
先生が企画した「作文を書いてもらう授業!」
作文を通して、支え合っていることが
TVを観ている視聴者にとっても
救いとなった。
夜中の番組で、、、バトミントン部の再会を観ていた。
明日の11日が、、、思い出されて、、、恐ろしいことであるが
現実は受容して、、、
あまりにも小さな人間の力が
津波や、災害の被害に遭遇することのない
「命」の守れる未来を模索⒮乍ら
11日は、、、mmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmm
波が穏やかである未来を
祈ることしか出来ません。
命、、、健全な普通の環境が、、、心を自由にさせますが
災害は、、、心を見失ってしまうのが
恐いことです。
命、、、それは、、、心が明日に向かって
生きようと,、するかぎり、、、
人は、死なない。
何年たっても、、、3月11日は、、、コワイ日の記憶。
災害に強い東北になることを
願いながら、、、
おやすみなさい