花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

10連休明けのサッポロの郊外

2019-05-12 06:37:09 | Weblog
昭和44年

ふとしたことで6月の札幌に

仕事でやってきました。

大学に入学したとき、

学校サイドから

クラス幹事に指名された成り行きが

まんべんなく、

クラスのメンバーと話す機会があった。

小学校から大学

まで御茶ノ水の駿河台から30分の自宅は

下町にあった。


オリンピックを境に

下町も、整理整頓され、

戦後の産物のように立ち並んでいた住宅は

ビルになっていった。

戦後20年前後の

昭和42年ごろ

そのころ大学の卒業まじかにあった私にとって

自分で時間を作りやすい環境の

最後の華の時間でもあった。

戦後の貧しさから立ち直りつつあった東京は

将来「独身でキャリアウーマンを目指すグループ」で

お茶の水界隈の喫茶店、、、例えば「丘」

ミロ、ジローのケーキ喫茶、、などなど

卒後の進路を語り合ったものだった。

高校時代からの独身を誓い合った友人も

どこからともなく連絡があり

猪苗代のスキー場のロング休日を楽しんだ。



その時のメンバーは生涯独身を通し

60歳代のころは

世界のあちこちから、はがきが届いた。


あるものは、昭和40年代の箪笥のようなパソコンに

人生の伴侶に代わって恋をして、

スパコンを使う技師になった。

大学は某工大卒業。


彼女の兄さんは東大生だった。

すべてに上から目線の兄を

男の姿だと思うと

パソコンと暮らすほうが楽しいと言っていたのを思い出す。


ある友人は、10人家族の末っ子に生まれ、

生家は下町の旧家で、

おまけに兄弟姉妹は歯科医や先生や、

、東大卒のエリートサラリーマンで

女子大でのお嬢様と結婚していた。


ごちゃごちゃと姪っ子や甥っ子に囲まれて

旦那さんに仕えなければならない義姉たちを見ていると

貴重な人生の時間を、

幼児の世話や、

舅や、姑の用事で

時間泥棒のような勝手な生き物の中で、

ハチの巣になっているようで、

結婚はしないと言っていた。

当の本人は、ぶんぶん飛びながら

人生の花の蜜の味で

幸せなのかもしれないが、

それは、、、錯覚に思えてしまうと、、、考え込んでいた。


彼女は、独身を通して、

医科大学の教授待遇のポストで

海外勤務に奔走しながら

研究者になった。

大学院の夜学の教職課程で一緒に机を並べた同級生は

誰が見ても、「超美人」だった。

しかし卒業後、、、同窓会で会ったときは

名門の私立医科大学の、基礎系科目の助教授に就任していた。

薬理学の部活で一緒に過ごしたとき

らせん構造のDNAに興味を持ち、

リン酸化をテーマに

遺伝子の変化や、塩基を付加する実験などに

夢中だった記憶がある。

美人の彼女には、男子学生がいつも恋をしては失恋していた。

教育実習には「おんなじ中学校を選んで、理科を担当した。」

当時の指導教官の先生方は

私たち3人の実習を指導してくれながら

3人とも、個性的なので、思うとおりに実習を進めるように

全部、任せてくださったことを

感謝で思い出すのです。

美人で、優秀で、独身を通したキャリアウーマン、の彼女。

クラスでの大輪の花だった。

もう一人の独身グループの友人だった女性は

私のことなど、

忘れているはずの60歳のころ

オーストラリアに別荘を購入したので

老後、

一緒に海外の休日を暮さないかとの知らせに微笑みが出た。

学生時代は、自分以外の女性は結婚して

未来の日本を背負う後継者を育ててほしいと思うけど

私は、、、自分のあたわった時間を全部

自分のための人生に使いたいと、、、いつもの口癖だった。

また、一緒に薬剤師国家試験を合格したもう一人のユニークな彼女は

「独身主義」がクラスの男性の間にも浸透していた。

集団の男女の交際には参加するが

特定のボーイフレンドは作らなかった。

美人で、快活で、ボーイッシュなスラックス姿は

実験の白衣がよく似合った。

卒業後も、こじんまりとした、ビルの中で

マイペースで仕事と趣味に生きれる調剤に従事していた。

独身主義だったこともあり、女性の友人が多かった。

ところが、37歳になって、

結婚することになりました

。。。。。意外な知らせが舞い込んだ。

しばらく彼女と電話で話をした。

37歳になったら、

子供を産まなくてもよい年だから

男性に対して、

鉄壁の気迫でそっけなく用件だけという

元来のポーズが、消えて、自然態に戻ったころ、

バツイチの歯医者さんが、

決まった時間に薬を取りに来るようになり、

「結婚の失敗話」などを話す愚痴りに、

うっかり耳を貸してしまったそうである。

「子供ができる前に離婚できたのだから、かすり傷だ」と、

愚痴を聞いているうちに



「はい!傷薬!と、

ドラッグで買ったメンソレの軟膏をあげたと言った。


愚痴止めのつもりで、

人生のかすり傷の客に渡した軟膏が

「子供を産まない結婚」もあるのではと、、、

結婚対象にされるようになってしまい、

毎日やってくる歯医者さんと結婚してみることになったそうである。


その後、彼女はビルの中の薬局からは居なくなった。

連休になるころ、いろいろな旅行先から
いろいろなはがきが来るのが楽しみだった。

あれから、、、何年たったのだろう、、、?

東海地震があったころから、、、

はがきが来なくなった。

旅行するお金があったら

寄付することにしたという、、。

旅行先の葉書が来なくなって、

私も後期高齢者に、あと3か月。

今年は年賀状も来なくなった。

独身を謳歌した理工学部のクラスメートたちは

どんな老後を楽しんでいるのだろうか?

基本的に、「世紀の恋の花が咲いた昭和時代」の

テニスの恋、以来

独身主義は、心の中で、ほとんど卒業していた私にとって

いずれは、結婚して、子供を育ててみたいと

考えは柔軟になっていたが、

30歳までには、一人前の薬剤師としての自分育てを決心していた、

成り行き上、神様は、私に結婚する道を与えた、

「結婚を通して、神様は私に何を教えてくれるのですか?」

成り行きに任せて、私は24歳で結婚した。

愛とか恋とか思いやりとか、一切なかった

医師として、医師をするための、、、助っ人探しの外科医と

父の早すぎる逝去のため、

父の残した患者さんたちを引き受けてくれる外科医が
独身主義だった私の前に現れた。

自分を仕上げている余裕はないと、

父の消えた実家の開業事情が迫ってきた。

自分の人生を貫く独身主義は

家族の強烈な意見の結果、

結婚に進路変更のハンドルが切られた。

独身グループから落ちこぼれてしまった若き日。



毛婚生活も50年経過。

孤独な育児の続いた、、、女の一生だと思いながら

75歳になる私は、

家事の合間に

某大学の夜間の講義で、老化と痴ほうを防ぐつもりの

頭の体操に通っている。

研究者の講義主は

研究のヒントをしゃべってしまわないように

気を付けているのかどうか?

戦場と言われる大学研究職員の実験から

最先端の事は講義には触れないようだ。

学生時代

のめりこんでいたテーマの顛末が講義で話されるとき、

脳神経に刺激を受ける。

「面白い、、、」と。

リラックスしながら、頭の体操にはよい時間だ。」

周りを見当たすと、

老若男女、、、講義主の教室員や学生も交じっている。」

家事ばかりやっていると、

終わりなき煩雑な単振動にめまいがしてくる。

働き方は主婦にこそ、大切な課題であると私は思う。


帰ってきても、仕事のことしか話さない主人とは

相槌だけの対話の人生であるから、

頭脳は「受け身の話題を整理しているだけだった。」

その点!!

夜の大学での講義は「非日常を演出してくれる。」

夜の講義は、1か月に2回だけ。
しかも、1時間30分だけ、

束の間の結婚前の自由な頭に戻れる、、

事情が許せば、駿河台を離れないで

大学院に通い

自分のなっとくできる自分を完成したかった。

結婚は、一拍休み!



子供を産まなくなった日本女性は、

女性が悪いのでも、社会が悪いのでもないのかもしれない。

限られた時間の人生の、時間泥棒に合わない航路を

北北西に進路をとっているだけかもしれません。




連休前に、息子に会いに行ってきました。

45歳を目の前に、

ありがたいことに、、、いろいろお話を持ってきてくださるそうですが

「45歳になっても、僕は家も、車もありません。
目下、仕事にやりがいのある毎日なので、

奥さんになる人は、、、奥さんになるという生き方が

人生の目的だという女性でないと、

人の命を左右する1分1秒が大切な職場なので

家庭に責任を持つという伴侶にはなれません、、、と

初めに、仕事第一主義を言ってしまうことにすらしいのです。

45歳になる医師なら、家も、車も、財産も

目に見えるような「子育ての巣」がないと、

アイドル性のない年を考えないと、、、

成立するわけはないと、、、話をいただいても、

親は動きようがありません。

でも、連休は混むからと、

親子会食でもしながら、家庭をするのもよいことだからと、

息子のところに行ってきました。

今の45歳の仕事漬けの医師って、、、若いですね!!!

実年齢はともかく、

運ばれてきた患者さんが、助かって

自分の腕が役立ったと実感できるとき

生きがいを感じるという、、、単細胞のような若さである。

結婚の事を考えていても、

実際に目下、家があっても管理する時間が無いという。

車での束の間の居眠りが

睡眠不足の疲れをいやすそうで、

車はタクシーで間に合っているとのこと。

家庭が憩いの場であり、車が運転でき☜、

地元の皆さんに、自然体で受け入れられる性格で、

子供を育てるのが夢である女性、、、、

つまり、、、、平和な心が満たされた時代の健康な女性なら

女性を生きることが、最も豊かな心であると思いました。

私たちの生きた時代は、

戦争未亡人が多かった。

子供を産んでも、女性は路頭に迷う時代だった。

心の貧乏が、勉強や、技術や、独立した社会性に向かわせた時代だった。

戦後の、貧困が、自立の精神を産んだような時代だった。

令和の時代は、、、、美智子様のような

自立なさりながらも、男性に寄り添って、一枚の衣のごとく

絹のような裏を努められる女性で

女性の輝く場所では

リバーシブルの輝きで

男性を圧倒する女性のしなやかさを感じさせて、

豊かな環境で育たれた女性の素晴らしい完成された生き方を

お手本のように示してくださった

昭和から平成の日本の復活の時代だったと

大切に心に刻みました。

このような時代の次に令和となりました。

昭和生まれの、どこか心の豊かさにかけていた

母親のもとで、手探りで生まれ故郷の本州に仕事を求めて

独身で頑張っている息子に、幸あれと。


この絵は、疎開地から父の生まれ故郷に帰れたとき

兄弟で父の顔を見ながら、

団らんの時に、サーと描いたものです。

右の絵が私の作品。
左の絵は年子の兄の絵です。



母を見つめながら、描いた私の絵と、父の顔を描いている母の絵です。

同じ父の絵なのに、

母から見た父の絵はまるで、、、優しい影のように揺らいでいます。



この絵は両方とも母の絵です。

今、目の前に居る、、、父を描いている母と、

母のアルバムに有った若き母を思い出して、

夢の中で描いた私のイメージする「ピアニストの母」です。



実際のモデルになってくれた父母は、この写真の人です。

楽しかったことばかり思い出しますが、

父は、若き日に

沼頭の御用邸の近くの医療施設で、外科医をしていました。

雨の日の、長靴と、笠と、

大きなソテツの木の生えている生垣のある家が

父母と長男が暮らした家です。

静岡で、北海道生まれの息子が暮らすとき

本人も、周りも、よそ者と、思うかもしれませんが、

親子2代で静岡で医師の仕事に従事している不思議な縁です。

祖父は、剣道5段で、宮内庁に勤務していたので、

沼津御用邸の事は、小さい時から、話に聞いておりました。

静岡に行くたびに、海の馨りのする公園になっている庭を歩きに行きます。

息子には、

祖父も、

父も

母も

住んでいたことのある静岡だとは話していませんが
時を超えて、地元の住民に知人が居ない私にとって

息子の気に入っている静岡で、幸せを見つけるサポートは

皆目、、、手に負えません。

弟が、しばしば、静岡の休日を楽しんでいて

交際も広いと思いますが、

気安く物事を相談できる子供時代とは異なりますので、

やがて、息子とも、ごく自然に、出逢える日が来るといいと思っています。

弟は、団塊の世代として、戦後の復活に

医学の分野で、がんと闘う早期発見や診断で

昭和から平成時代のがんセンターの黎明期に貢献できた年代です。




今は退官したので迷惑は掛からないと思うので

お話しできますが、


このゑは、カレンダーのようですが、

ポロの絵描きさんが描いた絵の印刷物です。

我らが結束して生きた、戦後の復活の時代の

4人の兄弟のように思えて、大切にしていると、言っていました。

私も、写真を引き伸ばして、自宅の母のピアノの上に額に入れて飾りました。

静岡で暮らした昭和の初めは、父母の幸せな時代であったと

昭和11年生まれの兄が、回顧しています。

第一線から定年した弟ですから、

もう、、迷惑がかかる時代が過ぎたので、

医師の叔父さんは、医師になった息子にとっては

大きな存在だったと言えるほど、

影響を受けた人でした。

休日には甥っ子の指導をしてくれる叔父さんは

仕事の話になると、、、最高の笑顔になる。


息子は、、、放射線医になることを選んだのも

おじさんの影響が大きかったと思われます。

叔父さんは、、、「神の域の名医だ、、、」と

学生時代は、叔父さんの書いた肝胆膵など、本を机に置いて

頑張っていた姿が思い出されます。

学部では、叔父さんの本が授業で使われたこともあったそうです。



、連休も、仕事漬けの医師に

働き方改革の命令が下ったとかで、

連休は「オンコール」で出勤と当直が当たって

さらに、、、忙しくなったとか>>>>?



何でなの???、、、と、聞いたらば、

「若手に、働き方改革の時間を守ったら、

中堅の腕利きの年代の医師と、副院長や、科長に

当直が回ってきたから、、、

10連休が無くなったから、、、今年も札幌には帰らないから、

秋になったら、母さんのほうで、また来てくれ、、、」


病院という職場は、

腕の未熟な医師が

休みの急患を担当するのは

プレッシャーが多すぎるのだろう?



働き方改革を、

四角四面に病院医師に当てはめると、

腕の良い先生が、

当直ということになり、

オンコールに待機することが、

患者さんの為になることはわかるだけに、

連休の里帰りは無理であった。



その結果、私の連休は、

布団干し、

庭の手入れ、

保存食つくり。


主人は、

新入職員の歓迎会や、勉強会や、医師会の会合や、、、

連休中は、、、

コンパ爺さんであった。



札幌の町は、、、

タクシーが暇で、

マイカーでサッポロ圏外への行楽で、

町はどこもかしこも閑散としていた。



連休の初日だけは、主人と二人で

札幌のデパートで開催されていた、

平成時代を象徴する

平成の時代を象徴された

「天皇皇后」両陛下の写真展示会を身に行きました。



大きなパネルの美しいカラー写真の平成時代を

美智子皇后は美しく、天皇陛下に寄り添われて

国民とともに生きてくださった

全身全霊の祈りの場面には、

主人も、私も、

足が止まってしまいました。


バンザイ岬の両陛下の後ろ姿のお写真の前で

主人も、私も、しばし動けなくなって

一緒に祈りをささげてきました。

こみあげてくる気持ちが、

抑えきれない一粒の涙になりました。



戦争を終わらせてくれた両陛下の祈りに

国民とともに歩いてくださった戦後が

終わったと、、、

感謝で、

美智子様の

国民と皇室の間の

虹の懸け橋となって輝いてくださった

思い出のパネル写真の数々が

平和への道とつながってきた平成時代を

写真展で、私たちも心で渡ってきました。



新しい「令和」に時代を象徴される

天皇陛下の、幼い時の

人間味あふれた

ご家庭のご様子に、

親しみを感じました。

「令和」時代に生きる孫子の時代も

どうか、、、どうか、、、

戦争のない時代でありますように

祈りとともに、

平成時代の戦争のない時代のアルバムを

出口で、

しっかりと買い求めてきました。

私は、、、

幸せな時代を生かされてきました。


令和元年。

10連休は、緩やかなお気持ちで過ごされることを祈りながら

ベランダに布団を干す、

幸せな75歳です。



桜満開の札幌の5月初めでした



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