枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

誰か居る?

2010年04月24日 | Weblog
 先日、奇妙な声に辺りを見回した。しかし姿はない。何だかなぁ・・・、誰か居るようなんだ。小さな引き出しが話しかける訳はないけど。それ以外には思い当たらない。で、そのことを話していくと。思いもかけない展開になった。なんだってこういうことはあたるんだろう?最近の大量生産とは違って、木の材質も、作った人も、心の入れ方も違っている。魂が入っているんだよ。

 目が見えない。耳が聴こえない。言葉が喋れない。その人たちの伝達手段は何が一番手っ取り早いか。心で考えて送る。テレパシー、テレパスとも言う。念じる力が強ければ、遠く離れていても通じていく。木に魂が宿ることも有り得る。生きている木だけでなく、作った人の精魂込められた物でも、そういったことはあるのだろうか?慣れてきたとはいえ、ちょっくらびっくりした。でもあるんだねぇ。自分でそれがわかるのがちょっと厭だが、行くべき処に落ち着くのはよろしい。

 以前の体験でいうと、何故かはわからないが、足が勝手に動いて、他所の家の玄関に行ったり、これから出会うであろう人が夢に出てきた。まったく行ったことのない景色を、見たりすることもあった。そのほとんどは災いで、難問が降りかかってくる。他人に気を許してはならないことも改めて知った。今は、何も怖くない。自分のものはないからだ。必要な人には全てを与えよう。と思っている。神さまはそれら一切を許してくださる。

 リエさんの出版記念会を、どうするのかな?と、サンタさんに問い合わせたら、発起人だそうです。なしてわかったんだ?奇怪なことですわ。ほんとうに突然、言葉が閃くのです。有無を言わせない感じです。私には、実にリアルな成り行きですが、他の人にとっては以外な展開でしょうね。何故わかるのかがわからない。それって、理屈ではありません。わかるからなんです。って、説明できない。

 私くらいの力を持っている人は、多いと思います。その力を何に使っているかはわかりませんが、生活のためでも、自分を守る手段であっても、コントロールさえできれば、いいと思いますよ。況してや、力を封じ込んでいる人も、その膨大なエネルギーの放出をしなければ、自分が壊れてしまうのです。最近の新聞記事を読んでいて、悲惨な結果に哀しくなりますね。自分を見失うことは、自分の破滅です。心して生きていってください。

 今日は、お天気だったが風が冷たかった。午前中は布団干しや、洗濯にあてて、午後から友人の月命日に当たるので出かけた。花を切って行き、水を抱えて、彼女を訪ねた。花筒の水を替え、墓石の周りの枯れ葉を拾い、草抜きをして帰った。先月と先々月は都合がつかなくて行けなかった。彼女は、私の姿に優しい微笑を見せた。月命日のお参りは、彼女に会うために出かけて行く。久しぶりに心が軽くなった。

 庭の枇杷苗の多くが、新芽を霜にやられてしまった。折角出て来ていたというのに、縮んだり、枯れたりしている。気温が逆戻りになって、一番の被害は自然の物ですね。それでも逞しく命を繋げていく姿には、じんわりと感動します。何という健気さでしょうか。明日に希望を見出しての、凛とした姿があります。自然の中に生かされて、じっと耐え忍んでいるのは、人間には中々真似のできないことですね。

 昨年の秋口に、突然下の方から新芽が出てきた。枇杷葉は、秋と春とに新芽が出ますが、伸びていくのは春が勢いよいです。いずれにしても、生命力の旺盛さには感心します。素晴らしい要素があるのですね。
 
コメント
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