昨夜もそうであったが、この暖かさにストーブをつけなくていい。電気は無論で、灯油も同じである。氷が音を立てて、割れているようで、何か心が弾む。僅かではあるが、春は刻々と近づいて来ている。梅の蕾も綻びつつある。
旧暦によれば、今年は弥生に閏弥生が入る。従って、春は肌寒く、長い季節になる。先一昨日からの如月で、次が弥生。閏弥生はその次に来る。子どもの頃、春が長く感じられ、一気に真夏になったことを思い出す。
年を重ねる毎に、そういった暮らしの一端を思い出すのは、物には不自由であり、不便を強いられていた事とは裏腹に、何と自由であったことか。貧しい台所事情であるのに、何故か懐かしさがこみあげる。誰でもなく経験したことがあり難い。
先日、湯たんぽを机の下に入れていて、毛布を直そうとしていたら、眠っている銀河が居た。寒い時には顔を擦り付けて布団に潜り、熱くなるともこもこと出て来た銀河だ。胸の上に、足元に、懐へと丸くなっていた。
父と母に、銀河へとお茶を注いでいく。毎朝、どんなに時間が迫っていても、これだけは必ずしていく。父や母の手が、銀河の姿が透き通って視える。きっと視えなければ、滑稽な風景だ。朝も銀河に『行って来ます』と言う。帰宅も同じ。
野良猫の毛並みの黒を見れば、銀河が浮かぶ。思わず、名前を呼んでいる。きっと私が往く日まで、ここに居てくれるのかもしれない。実際、同居できる環境ではなかった。それでも、捨てるには忍びない想いがあった。
今年買った、岩合さんの『のら』のカレンダー。可愛さだけでない、自然に生きる逞しさも兼ねる姿に、胸がじ~んとなる。猫であって玩具ではない。着飾ることとは無縁の野良に、拍手を送った。血統書つきが、強ち幸せであるとも云えない。
3年物の淡路田中枇杷。ここには鉢と地植で5本ある。まさにひしめき合っている。間隔をあけよう。