枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

選択の余地

2010年10月20日 | Weblog
 金木犀も、銀木犀も散ってしまった。秋薔薇が蕾をつけていたのが、今朝は咲きそうになっている。ピンクのを2本と、白を1本切った。挿し木で芽が出たのに、小さな蕾が見える。これは携帯で撮った。桑の木を見ると、黒い物が生っている。赤いのもある。あれれ・・・実がなっているんだ。取って口に入れてみる。あらまっ美味しい。孫に声をかけ食べさす。今時、桑の実が熟れるとは?気候が春の終わり頃と同じ条件らしい。

 しかしこれは拙くないか?枇杷葉の苞に、多少なりとも影響がなくはないか?花芽がちゃんと咲くのか。それらが実になるのかは、甚だ心許無い。どんなに気をつけていても、自然には逆らえない。太陽の恵みや、風の吹き方に、雨の降り方にも、人間の決められることは、何一つない。当たり前の事実を、そのままに受け入れられることは、極めて無駄の無いことだが、至極難しいこと。

 リエさんが贈ってくれた本は、そういったとても小さなことに感謝したり、想いを馳せられることによって、ありのままを受け取ること。これが幸せでなくて、何であろうか?有名なデザイナーの服を着、飾り物をして、贅沢をしていることが、幸せとは思えない。地球上には、明日の食べ物に困っている人も居る。国に依っての違いや、生活習慣の差は否めないが、日本人は、幸せを履き違えているのでは?

 貧乏のどん底の生活をしてみればいい。食うや食わずのギリギリの中で、そういった物は、哀れみや蔑みこそあれ、生きていくことでは、価値は薄い。以前は過去の事実であっても、今は現実に置かれている立場が大切なのだ。そのことに気づかなければ、我が身を滅ぼす。慢心、というのか。驕り、というべきか。人間の資質の違いが、立場を狂わせ、事件を引き起こす。総じて、自分を見誤ったことに尽きる。

 旧暦を見ていると、とても不思議なことに思い至る。陰陽師の安倍の清明も、宇宙の仕組みと、人間の生死を、捉え方に依っては、操れるものではない。と、知っていたようにも思える。知れば知るほど、深まり往く謎に突き当たる。命の根源は、何処から来て、何処に向かうのか?其処に往って還って来た者も、逝って終った者もいよう。或いは恐怖に身が竦んで、行かなかった者もいる。光と闇の狭間には、何があるのだろう。

 リエさん。『きみは地球だ』、とても難しいね。人間として、当たり前の事柄なんだけれど、こういったことへの想いを、一体何人が持てているだろうね。私は、枇杷葉と関わって、心底ありがたい。と感謝している。御仏のお導きに違いない。心に念じる、願う、祈ることで、苦しんだり、悲しんだりの挫折感で、直向きに前を向くことは、とてもありがたいことです。

 枇杷葉の、苞の状態です。とても香りが佳く、心身ともに癒されます。
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第六感・・・

2010年10月19日 | Weblog
 それは、突然閃く。あ!っという感じで、視えるのだ。咄嗟には、何が何やら見当もつかないのだが、数時間後、数日後に結果はわかる。何故視えるのか説明はできない。Aさんのことが頭に浮かぶので電話した。声の張りやら、話し方で変調を感じ取る。手当てに伺う。すると、予想していた話しになる。風の音に耳を澄ませ、宇宙の彼方に心を向けていなければわからないこと。

 Aさん家に出入りしている電気屋さん。私からの伝言を聞いて、仰天したらしい。なんでわかるんだ!と、とても驚いていたらしい。わかりません。そんなことは、説明できるものではないんです。私の横を擦れ違った人の命が、数日で終えることがわかっていても、絶対に教える訳にはいきません。死霊を連れている人が視えても、近寄らないようにするのが精一杯です。口が裂けても云えません。

 この世とあの世の境目が、わかることが、好いのか悪いのかは知りません。でも、見たくもない者が視え、聴きたくもない声が囁くのには、足が竦んでしまいますが、どうすることもできません。甘んじることしかできない。忠告はできる。けれども殆どの者が、素直には聞きませんね。それだって、信じようにも証拠がないし、力もないです。かといって、親友面されるのも厭です。普通にしているのが最善で、芯が強いことがいい。

 私の手は、傷みのある患部や、病巣の元を探し当てる。何故?それが私の使命だからです。でも半信半疑だということもわかる。最もなことです。そりゃ私にも、ここまで力があるなぞとは、信じ難いことだから。龍に遭ったから、封印が解けたのか?解けたから遭えたのかは疑問。こういうのって説明は無理。私の場合は特に、修行ができていないので無理ですね。

 お天気が下り坂。腰が痛むのだ。こういうのっててき面当たる。坐骨から左足にかけてが傷む。高校生の時に、バスに乗っていて、乗用車と追突しそうになって、急ブレーキを懸けた為、運転席の後ろのパイプに激突した。左足が腫れ上がり、一時は歩行困難になった。今でも時々足を引きずることがある。いつもはわからないよう、歩いているし、気づかせないようにしている。

 外が気になる銀河。網戸にしているので、外には蝶や、蟷螂、蝿などの虫が動いているためだ。耳をピンと立たせて、じっと窺っている。

 
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狭霧消ゆる湊への

2010年10月18日 | Weblog
 今年は、未だ霧が巻かない。例年だと、朝は霧に覆われて、交通が渋滞する。時々、ライトを点けてなくて、ひやりとする。相手のあることだ。充分な注意で運転してほしい。事故が起きるのは心の油断からだが、月の満ち欠けに大いに関係があるようだ。お産や臨終は特に傾向が強く、同時に、大潮、若潮、長潮、小潮など、満干潮にも要因がある。微弱陣痛だったり、安産で生まれるのには不思議と繋がる。

 来年は、旧暦のカレンダーを買って、じっくりと向き合うのもいいかも。来年の春に出産される方がおいでなので、予定日を繰ってみた。新月から満月に向かう中に位置する。新しい命を授かることも奇跡なら、産んで育むことも奇跡のように思える。決して当然のことではなく、拡張する宇宙の摂理を想像すれば、とてつもないエネルギーだ。どうか無事に産まれてきて。祈る気持ちでしかないのです。

 リエさんが、考える絵本●7 しあわせ。という本を送ってくれた。これはフェアトレードの無農薬珈琲のことを書いた絵本。何だか、絵本の中に彷徨いこんで、一緒に珈琲の出来る歴史を旅したよう。心をこめるって、大変なことなんだ。その心をサンタさんや、リエさんのお蔭で、私は頂いている。どんな物にも、命が宿る。その命を、こうして戴ける幸せは、地球という星にも感謝すること。

 この世に存在していることを、不平不満で一杯にするのではなく、感謝することで溢れさす。どんな小さなことにも感謝する。命は、地上にたくさんあるんだから。人間だけの暮す地球であれば、きっと直ぐにも滅んでしまう。どんなに酸素があっても、二酸化炭素を吸って、酸素を提供してくれる媒体がなければ、人類は滅ぶんだ。草を刈ってしまう。木を切り倒す。山を崩し、川を埋める。愚かな人間は消えていくのだ。

 日本の山は荒れ放題。その山を中国に売るらしい。目先のことしか考えていないと、手酷いしっぺ返しを喰らう。何故にそれがわからないのだ?そういいながらも、実の兄や妹は、金さえ手に入れば満足する。手入れをしたり、補強をしなければ、山は荒れていくばかり。先祖の守ってきた山や田畑は、見る影もない。鍬をふるって耕してこそ、土は喜ぶ。生き物は増えていく。同じ兄妹なのに、哀しくなる。

 ほんの僅かでも畑や山があれば、枇杷葉を植えて育てられる。故郷の土の匂いを、あの息吹を、枇杷葉で復活したい。枇杷葉茶を売って、蓄えていくにも、基本の枇杷葉がなくてはならぬ。苗木を育てて増やすことが先決。枇杷葉が大きくなるのを、祈るような気持ちで毎朝見ている。少しづつでも、皆に送れることを願って。
 初秋の或る日。枇杷葉の葉下で、涼しげに揺れているベゴニア。
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聴いていますか?

2010年10月17日 | Weblog
 認知症の人は、自分のしていることが、何なのかを、認めて知ることが出来ない。不安げに問うて来る人も居れば、自分は知っている。と言い張る人も居て、小さな諍いを起こす。どちらの言い分も違ってはいない。介護の仕事の複雑さは、自分の言うことをどれほど聴いてくれるかだ。各々の話を天秤にかけて、同じ重さにすることも、どちらか一方を、こちらが正しいとも言えない。曖昧な返事になってしまう。

 自分の伴侶が生きていると言うのも、こちらは真実を知ってはいるが、そのまま話しても、理解してもらえないのだから、一緒に探すか、宥めるかのどちらかになる。お腹が痛くて死にそう。と言う人には、薬が効いてくる時間を告げる。心を頑なに曲げて、自殺してやる。と自分への関心を引いてみる。話しがかみ合わなくて、終いには声を荒げ怒ってしまう。個性豊かな集団での生活には、聴くことが重要な要素になる。

 況してや、聞くことはできても、相手に寄り添って聴くことは、こちらの心を誤魔化せないことでもある。嘘の言葉や態度を、見透かされる。家族であっても、他人であっても、自分を曝け出さなければ、相手の思いには届かないように感じるのです。でもそれは何等難しいことではなく、無条件で受け入れることと、素直な心になれることだと思える。それは全て私が願っていることだら。

 このところお天気が続いていて、水遣りを忘れ、鉢のランタナがげんなりしていた。夏場ほどではないが、枯らしてはいけない。朝夕の冷え込みを心配して、日中に遣っておいた。鉈豆は、花が咲いているものの、鞘が生りません。これは9月一杯かな?夕顔は未だ咲いています。金魚草は、2度目を咲いています。種もたくさん落ちて芽を出している。何でも、種から育てると、丈夫です。

 孫が、ジグソーパズルの図案を、大好きながんこちゃんと、がんぺーちゃんにしました。とっても得意顔で見せてくれた。作者にメールを入れたら、ものすごく誉めてくれました。孫は、わ~いやったぁ!!と上機嫌でした。
 
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豊作を祝って・・・

2010年10月16日 | Weblog
 勤務先で、地域の方が子どもたちと一緒に、神輿を繰り出してやって来た。昔と違って、お神酒もなければ、相撲の土俵もない。アスファルトの上を、軽トラックで回るのだから、何とも物寂しい。それでも、子どもたちが居るだけ賑わいがある。法被を着せてもらったよちよち歩きの稚児が、転びそうになりながら、ニコニコしている。微笑ましいと言うか、高齢者にとっては和む一時であった。

 お祭りは本来、五穀豊穣への感謝の表れであった。1年を通じて百姓は休みがない。雨の日も、風の日も、生活のために、米や麦を、野菜を作って、収穫を神に感謝する。その締めくくりが祭りで、豊作であれば喜びもひとしお。不作でも、神に感謝を捧げて祈ったのではないか。そうした人々の思いが、神さまと共に酒を酌み交わし労う意味で奉納され、神輿を担ぎ、村中を練り歩いた。相撲を披露させたのではないか。

 年に1度の感謝の心が思える。祭りは、ご馳走が食べれるだけでなく、大人も子どもも、生かされていること自体を祈り、華やぎ浮き立つ思いと、気を引締める諌めの役目もあったのでは。時代の移ろいは止められないが、どういった形であれ、地域が活性化するのはいいことである。来年は、屋台が並ぶといいのに。模擬店でなく、本物の屋台のお出ましもいい。朝から、どんどんひゃらら、どんひゃらら・・・笛や太鼓の音色もいいではないか。

 帰りに、Aさん家に寄って、お水を分けて頂く。愛猫の様子も気になる。触っていたら、突然立ち上がって膝に降りて来た。そのまま顎を腕に乗せて、喉を鳴らせている。波動が入っていき、気持ちがよさそうである。触ること5分程度。シャンと立って頭を下げる。利口な猫である。こうしていると、猫も人間もなく、病んだものと治療するものに過ぎない。まあ、飼い主にもよるのであろうが。

 山女の焼酎漬けにしたのが、3日ほどで色が出てきた。琥珀色の透き通った液は、枇杷葉や種と同じです。素材の新鮮さは勿論ですが、焼酎の役目もたいしたものです。単品では成り立たないことも、組み合わせたり、媒体の変化によっては、薬にも毒にもなるのですね。薬草も使い方を間違えると、副作用が出ます。場合によっては、死に至らしめる作用になります。

 夕方からは、冷え込みますね。窓は閉めていますが、暖房は点けていません。衣装も半袖は辛いです。長袖にセーターを羽織っている。銀河が、足元からうごきません。暑さ寒さには、銀河を見ればわかると言うもの。今夏、復活した白枇杷の新芽。
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真っ直ぐに・・・

2010年10月15日 | Weblog
 昨日は、後少しというところで、PCの機嫌が悪くなり、空回りをし始めた。止む無く諦めて、今アップした。散々である。原因は幾つか考えられるが、待っている時間に飽きてしまう。どっと疲れた数時間でした。今日は、日中は暑いくらいのお天気。夕方には雲の多い空模様になった。月も、木星も観えない。夕顔だけが匂っている。今年が数ヶ月で終わるとは、光陰矢のごとしである。

 私は、人間的に弱い者である。この歳まで、何とか生きて来れたのは、どんなに考えても、与えられた使命のように感じてしまうのだ。悲喜交々の時間の中で、流されないように。また、気づかない内に、この身を投じてしまったこともあるだろう。その都度誰かの手が掬い上げてくれたように思う。錯覚だったのか?祖母が生きていた時と、亡くなってからでは、大きな違いがあるように思える。

 いつも自分の殻に閉じ籠っていた。とある人は言うが、人間は大抵はそうである。光と闇とのバランスを保ってこそ、人間であろう。大前提でも、初めから曝け出してやれることの方が怖い。自分の立場も弁えず、嘘ばかりを並べて点数を稼ぐ。でも、実際そういう人間も居るのだ。私には、反対の顔や態度が視えるから、嘆かわしい想いで愕然とする。本当に厭になる。この手の類は、いけしゃあしゃあと出任せを並べる。

 ところが。これが私に限っては、必ず裏目に出て、あっと言う展開になる。勤務先の今回の人事異動に関しても、そういったことが反映されて、還っていった。自業自得である。忠告はするが、聴く耳持たずでは致し方がない。私の心に響いてくるのは、極普通のこと、当たり前のことなのだ。学ぶという事は、自分で見つけ、弛まぬ努力をし続けるように思う。学校では、先生がいて、教科書に添って教えてくれるが、社会に出ればそうはいかない。

 どんな小さなことも、たった一つのことも、極めることは大切だと思う。また、どんなに多くを知っていても、一つのことに繋がっているものだ。人間の周波数が、個々に違うようで、限りない宇宙にしてみれば、塵のように集まっているのかもしれない。意志を持った者であると思いながら、実際にはつかみどころのない風かも。流れの一滴なのかも。我は人間と思っているだけかも。その全てが、全知全能の神の一部なのかも。

 人間とは、果てしのない思考の元で、実はアメーバーかもしれない。ミジンコやゾウリムシの、創り上げた世界かもしれない。この思考は何処から出たものか?意志とは何か?思考の先にある念じる心は、一体何処から入り込んで来たのだ。一つ一つを解明すればするだけ、捻じれていくように螺旋が下る。では、何処へ向かって往くのだ。過去か、未来か。はたまた時空を超えて翔けるのだろうか?阿修羅王に続けて。

 夏の陽射しが和らいだ日。家具調炬燵に潜り込んで、かくれんぼをしている銀河。
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インフルエンザ接種・・・

2010年10月14日 | Weblog
 仕事場に行くと、連絡帳に・・・と、あった。やだなぁ。痛いじゃない?何が好きでやるんだろ。ブツブツ言ってみたが却下!下手くそな看護士さんでありませんように。どうにかクリアしたものの、そこは針を皮下に刺すんだ。痛いに決まっている。あ・違うんですよ。本当に上手な方は、蚊に刺されたくらいにしか、感じさせない。え?という早業ですよ。その方は、現在総婦長さんです。

 病院の何が嫌い。って、注射です!!こんな痛い思いをしてまで、治してもらおうとは想わない。断固抗議します。今朝は、そういった理由での、青天の霹靂でした。業務は滞りなく行なえましたが、ちょっと気を抜くと、だらけてしまう陽気です。寒さの実感がありません。気候の関係で、夏でも秋でもない、どうにもへんてこな季節です。例年、これで意気消沈して、体調に異変を来たしていたんだよ。

 枇杷葉を知ってから、病院に通うことも、もらった薬を飲むこともなくなった。Drは嫌いではなく、患者の言うことをマジ聞いてくれた。私のカルテには、肩の上に何か居るようで重いです。真剣に訴えると、言ったままを書き止めておられた。頭の痛い原因は、本人にしかわからないのだ。感じたまま、視えたままを話したまでです。内科であろうと外科であろうと、精神科の分野が必要だ。と今は思えます。

 介護の仕事は、悔いて悟る仕事かもしれません。私の勤務している場所は、最もターミナルケアを必要とします。もちろん資格は大切です。同時に、どんな小さな変化も見逃さない、チームの協力も大事なのです。各自が違うことをしているようで、統一したケアに繋がっていくのです。昔の嫁の身は、その殆どが介護であって、自由になる時間などなかった。重労働の介護を、耐え忍んでこそ嫁であった。

 介護に付き纏うイメージは暗く、悲惨なものであって、明るい展望も何もなかった。瀕死の床に居る人間は、以前の自分を虐めた者。江戸の敵は長崎で・・の例えの如く仕返しができる。その時の人間の心理は、如何許りであろう。況してや、動けない身であれば尚更のこと。残虐な行為が出来たと思う。これもまた然り。やった者もいれば、そうで無い者も居るであろう。昔は、感情を表に出せなかったから・・・。

 百日紅が咲いている。金魚草も、夕顔もだ。千日紅もしゃんとしている。観葉植物も枯れないでいてくれ、目立たないが花も咲かせている。シクラメンの芽が伸びている。日々の生活の変化はさしてないが、どんな小さなことにも感謝である。自分のためにも血となり肉となるように、励んで学べることが誇らしい。介護の仕事に就いてよかったな。と思えるのです。

 猿梨。ミニキウィとも言うようです。今年は暑くて、不作でした。
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散策・・・

2010年10月13日 | Weblog
 近辺の散策に出かけた。収穫はきらん草が5株ほど。稲刈りをしていた田んぼの持ち主。利用方法が気になるのか尋ねる。年配の方も居て薬草談義。見かけない顔だと思っていたら、息子の方だと言う。そう言えば似てます。山女は、道端の方でなく、山に入らなければ無さそう。危険が危ないので止める。この時期、蝮がいる。咬まれたら難儀です。野の草を薬草に育てて、売っている人も居れば、邪魔にして根こそぎ絶やす人もいるんだ。何だか、人間の価値観を考えてしまった。

 リエさんが編集したと言う『きみは地球だ』が、地元の図書館にあったので借りた。勤務先で見たテレビの内容のは、取り寄せてもらうことにした。生物多様性って、とても大事なことなのに、田舎の人間ほど、無関心な者が多い。都会に居て、リターンするか、全くの素人で取り組むか。人間が生きてこられた歴史は、少なからず自然の恩恵を受けてのことなのに。絶対と言っていいほど、人間だけでは地球の存在はあり得ない。

 庭に布団を干し、枇杷葉を見上げる。おおっ!花芽があちこちから覗いている。まだ苞の状態なので、どのくらいになるかわからないが、今年は、東側にも付いたので、たくさん生ってくれるといい。枇杷の実が、たわわに熟れた様子に、思わず期待が膨らんだ。気候や温度や湿度、どうか上手くいきますように。祈るようでもあるんだね。人間の手には負えない自然には、抗っても無駄である。

 小蝿が大量発生している。気温も湿度も、過ごし易い気候らしい。春ほどではないが居眠りがつく。桜は、依然として花を咲かせている。今では珍しくもなんともない。野菜も花も季節感が薄れて、旬がなくなった。人間は早くから、節目を忘れた。人類の未来には悲観的になってしまう。今日も、機械の棋士が、人間のプロに勝ったと報道されていた。人間は油断するが、機械は回路を組み込まれている限りない。

 これが。機械自身で考えることができれば、人間に勝ってはいけないが、負けてもならない。と、回路に異変をきたすのではないか?アシモフの『我はロボット』を、思い出しながら珈琲を飲む。ナマケモノブレンド、香りの好いやさしい味ですね。サンタさんの珈琲、美味しいですぅ~。送り主はリエさん。お二人ともありがとう♥ サンタさん儲けがあるのだろうか?そこがちょっとばかり心配なのです。

 球根を植えようと、入れ替えをしていると、昨年の植えていたのが芽を出している。水仙です。今年は咲くのか?昨年には、葉ばかりおごって花はなかった。石灰を入れておこう。桑の木に、幾つか実が生っている。へぇ~、熟れるのかな?庭に、山女の種をばら蒔いた。上手くいけば芽が出る。商品化している所もあるから、作れないこともない。特に我が家は、最適な条件。あはは、いいのだろうか?これでいいのだぁ!!

 今年の黄桃。黄金桃です。缶詰でなく生物の方です。大きさは両手にすっぽり入ります。これは規格外の分。リエさんたちに送ったのは、もっと大きい筈です。私が、生きていれば来年も送れます。某作家さんも、殊更に喜んでくださいました。勤務中であったため、直ぐには出れませんでしたが。作ったのは、私ではありませんが、美味しくてよかったです。
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山の幸を戴く

2010年10月12日 | Weblog
 稲刈りが始まった。そろそろ山女が熟れている頃だなぁ。と思っていたら、どうぞ。と、嫁が差し出す。大きな山女である。皮は未だ硬く、閉じたままだ。嫁の話を聞いていれば、我が家の近くから、採って来たと言う。明日には行ってみよう。リエさん、要るかしら?これは乾燥させて、焼酎に漬けておけば咳止めになります。慢性腎炎・浮腫み・膀胱炎・排尿困難・尿路・腎結石に、効果があるとも書かれています。

 今日、朝から体がだるかった。膀胱炎かな?と思いつつ、きらん草を煎じて飲みました。解熱効果があるので、ピタッとだるさが消え、体調維持を保っています。野原や山には、人間が生きて行く上で、知恵や工夫の成果の現れる物が、自然に埋もれて残っています。使うも自由、使わぬも勝手。山の幸をいただける幸せを感謝します。また、あらゆることに、焼酎が活躍します。ありがたいですね。

 Aさん家の近所に居られる方は、私が薦める枇杷湯が効いて、鉈豆茶もスギナ茶も飲まれ、Aさんに分けてもらった、ドクダミ茶も飲まれたらしいのだ。その結果、顔の浮腫みが消えて、体型が締まった。足が痛いとは言われなくなった。枇杷湯で体内の毒素を排出できたようで、とてもよろこんでおられた。枇杷茶を飲みたい。と言われたので、切らない葉のまま持って行く。煎じ方を説明して渡す。今後は、自分で探して、作ると言われた。そこで、近場の採取場所を教えておく。

 採取する時期とやり方を話す。葉だけ採るのなら、今月からでもできます。これは、焼酎に漬けるのです。枇杷葉の硬くて、青くごわごわした、大人の片手くらいの大きさの葉を、30枚~50枚程度。葉先と軸のところを切って、2ℓのガラス瓶に、1.8ℓの焼酎を注ぎこむ。切り落とした葉先と軸は、お茶にして飲みます。枇杷葉をきれいに洗って、水気をタオルなどで充分にふき取ってください。漬け込んで1ヶ月~3ヶ月で、外科用には使えます。腰痛、切り傷、擦り傷、捻挫等に効果あり。

 枇杷葉のエキスは、虫の駆除に効果があるので、別の容器か、スプレータイプに入れ替えて保存しておくこと。風邪の予防にも効きます。嗽をしましょう。また、全身にスプレーしてもいいです。踵や肘の肌荒れにもよく、髭剃り痕にもいいようです。特別な症状でなくとも、驚くべき効果が出ます。1年保存してから使う方が、縁り効果は大きいかと思われます。種は、エキスを摘出するので、2年物が使い易いです。私は、化粧水にしています。

 焼酎に漬けた葉は、腰痛の患部に当て、乾燥するまで貼っておきます。エキスの色が付いたり、貼っていることを忘れて、トイレに流さないよう気をつけます。腰痛は、冷やさないことが大切で、腹巻をして温めます。頭寒足熱を実行します。侮ってはなりません。手術をすれば治るように思えますが、皮膚を傷つける行為は、細胞を殺すことです。死んだ細胞は生き返りません。枇杷葉は、痛みを和らげ、細胞を活発にさせ、薄紙を剥ぐように治していきます。

 枇杷葉の別名が、『大薬王樹』『無憂扇』と呼ばれる所以です。西洋医学では治せない症状も、枇杷葉の持つ効能が効果を出せるのは、体全体を癒す力があるからです。人間の体には、必要でないものは備わっていませんから、切り取ってしまっては治り難くなる。鉄やジェラルミンなどは、体には馴染めない。どんなに医学が進歩しても、細胞を自分で復活させれなければ、体に害することには変わりありません。人間の持つ、自然治癒能力を援けてこそ、生きる力になるのです。

 私は、医者でもなければ、特殊な人間でもありません。神さまが与えてくれた力と、枇杷葉を信じることで可能になる能力を、一人でも多くの方にしてあげたい。その心のみです。叩けよされば開かれん。神さまの御心のままに、枇杷葉での治療をさせてもらっています。あなたの家族を想う心が、愛する人を守る気持ちが、病を癒し治してくれるのだと固く信じて。枇杷葉は、目立たず、驕らず、役に立つことを願って、自然の中で呼吸をしているのです。

 我が家の庭。西側になる場所です。鉢植えでしている淡路田中枇杷。3年目になりますが、太陽の光が少ないためか、育ち方がイマイチです。向こう手には、1年物の苗が育っています。

 
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今は、もう秋・・・

2010年10月11日 | Weblog

 秋の真っ盛り。芋茎が美味しい季節です。赤芋茎ですが、湯がいて、皮を剥いて食べます。味付けは昆布出汁です。明日は休みなので、何から片付けていこう。本も読みたいしなぁ。枇杷葉も、焼酎に漬けなくちゃ。腰痛予防に効きますが、作っておかないことには役に立ちません。転ばぬ先の杖。24時間をフル回転で使わなくっちゃ。と、思うのですが、歳と共に体が云うことを利きません。

 ナメクジは、唐辛子が嫌いらしい。石灰を入れたが、芋虫には効いたかな?枇杷葉やバラの苗木にたっぷり入れた。紫蘇を抜いたり、蔦の散髪もしなくては成らず、何時寝るんだろう?居眠りはつくものの、夜更かしの読書です。最初のページこそ、活字が頭に入って並ぶのですが、如何せん昼間働いているつけがたたって、瞼は自然の法則を辿る。いかん!気がついたら、朝だった。以前は、徹夜が続いても平気だったのに。

 東側に植えてある枇杷葉。昨年は、花芽が付いたものの、実は生らなかった。今年はどうだろう?と、葉を採りながら見ると、あっらまぁ!!どの中心にも膨らみが見えるではないか。上手くいけば実になるが、寒さが直接当たる場所。心配ですわな。加えて木丈が長いので、背が届かない。袋がかけれません。困る。花芽を採ることにするか、実を生らすか悩む。枇杷は、桃のようには大きくならないけど、リエさんに送ってあげたい。下に引っ張ってみようか。

 南側の枇杷葉は、苞が日に々膨らんできて、丸い花芽になっている。気の早い苞は咲きそうです。思わず顔が綻びました。クリスマス・ローズも新芽を出しています。石灰を振っておきました。薔薇に、青虫の蛹がいて、仕方なく取りました。アブラムシもいます。天道虫がいないので、枇杷葉エキスをスプレーしよう。何だか蛙がいなくなったよ。自然破壊、環境のバランスが崩れている。蛙、石灰が苦手かな?

 Aさんの体調が気になって寄ったら、ご馳走になってしまった。遠慮をしていたのですが、つい美味しいので平らげてしまう。あ・また太るわ。しかも、お粥さんにしてください。と言う忠告を聴いていない。意志が弱いというのか、根性がないのか、続けられないようだ。困ります。腰痛や、体調不良の原因には、太り過ぎが大いに関係する。日々の食事の贅沢は、肥満の元。って言っているのに。お粥に飽きるのかな?三食全部ではないのに、知りませんからね!

 先月の月と木星。輝きの素晴らしさに見惚れます。

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