枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

共鳴し、連動する者に

2010年10月10日 | Weblog
 澄んだ鈴の音色がしている。ピシッと張った空気を裂いて、聴こえるのは、援けを求める声無き声。頭に直接聴こえる。そして視える姿。振り払っても、瞼を閉じても消えない影。誰なのか、何を言いたいのか。だが、おおよその見当はつく。きっと援けてほしいのだと思う。私の力に?嫌々違うだろうな。それは枇杷葉のパワーにだと思える。枇杷葉が、私の体を媒体にして、何処かの病める魂に、波動を送っているのではないのか?今日は、殊更に思えた。

 その方の家には、大きな枇杷葉があって、邪魔になるし、役にも立たないから、今年は伐ってしまおうか。と言われるのであった。え?聞いていれば、枇杷の実が生らないそうなのだ。また、焼酎に漬けたこともあるらしい。いや、飲んだことも。効能を知らないのではなく、やってはみたが、効果のほどが分からなくて、伐ることになったらしい話だ。冗談じゃない。伐るのなら、私が頂きに上がります。ああ・もったいない!

 わたしの頭のこめかみの辺りが、チカチカ点滅し始めたら、要注意です。って言うのか、何かを知らせているのです。以前も、Aさんやリエさんにサンタさん、りささんにしても、枇杷葉との拘わりから起きているし、繋がっていっている。私の視る夢は、予知夢です。自分でもびっくりするくらい当たる。詳しく書くと、差し障りがあるので、できないが、実際に起きるのは、正直震えがきてしまう。

 枇杷葉を信じること以外にはない。そのための、私の使命に違いない。病める者の想いが、空気を通じて伝わる。そうして時間と共に廻って、私に出会わせてくれるのだろう。また、私のしていることを非難したり、悪意に満ちた言い方をすると、全て還っていくようだ。何故、そうなるのかは説明できません。とても不思議なのですが、そうするように、頭に直接聴こえてくるのです。

 してみれば、枇杷葉の力は、とても大きな一つの宇宙のような気がします。枇杷葉の引力に引き寄せられて、病める者が集まってくるのでしょうか?そうして、思う存分に癒されて、満足したら自然に離れていくのでしょう。でも、枇杷葉の力は持続したままに。枇杷葉に感謝すればするだけ、体は癒され、波動を受けて、明日に羽ばたけるのではないのでしょうか。信じることは、即ち救われることです。

 我が家の出窓の風景。枇杷葉茶を注ぐようになって、とても青々と葉艶がよくなったようです。

 
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拘ってみれば・・・

2010年10月09日 | Weblog
 ♪てんてんてんまり、てんてまり。てんてんてまりの手が逸れて、垣根を越えて屋根越えて、表の通りへ飛んでった。飛んでった。表の行列なんじゃいな。紀州の殿様お国入り。金紋先矛供揃い。毛槍を振り振り、やっこらさやっこらさ。長い前置きですが、何を隠そう。先日食べた蜜柑が酸っぱかったので、この蜜柑は、お殿様に抱かれて、お国入りをしなかった。という注釈が言いたかったのです。

 現代農業の各号には、其々に特集が組まれていて、ためになることが多い。けれども、¥450だった頃には、毎月買っていたのだが、倍近くになると、これはもう買えません。図書館で借りますね。どうしても必要な号は、コピー代の方が高くなるので買いますが、毎年、よく似た内容になっているのは否めない。で、石灰の効果が面白かったの。昔から言われてきたことだけど、安くて簡単な栽培方法は、自然を利用すること。

 日本中の何処でも可能なのではなくて、住んでいる土地の、風土というか地質と言うべきか、知り尽くして行なうこと。そこにしか適用されない方法で、他の所には負けないやり方が、商品の価値を上げるように思う。我が家の枇杷葉も、糠と鶏糞と塩でやっているが、今年は石灰に変えてみよう。塩も欠かせない。葉が青々として、厚みが増してきた。酷暑や猛暑にも耐え、枯れて落ちた葉が少ないようです。

 また、枇杷苗は、2年以上は移植しないのがいい。その移植も、12月或いは寒中がいい。12月といっても、新暦ではない。全て旧暦のやり方がいいのだ。加えて、新月や満月を目安に行なうのが更にいい。潮の大潮や小潮をよく見て、種を蒔き、収穫しよう。月の満ち欠けが大いに関係するので、注意を怠らないようにしよう。参考文献は『旧暦と暮す』です。中々に難しいので、読みきってはいません。

 今冬には、薔薇の木の剪定と、枇杷苗の移植を考えています。特に、木香バラは大きくなり過ぎて、日当たりが悪くなったのです。思い切って伐って、再度新しい芽吹きを待つことにした。挿し木でも直ぐに付くので増える一方です。椿の実が熟れて落ちました。孫が持って帰りました。さあて、芽が出るでしょうか?夏椿と買った苗木は、今では山茶花に変身している。夏に咲いたのは、一回こっきりで、元の性質に返ったらしいのね。すんごくがっかりした。

 柊の花を知らないらしい。柊も知らない。と言う。って言うか。季節の花を覚えようとしないんだろ?況してや枇杷葉の花を、知らないことは言うまでもない。匂いなどもっての他です。人工的な臭いがいい?いやいや情緒がありません。この時期、野菊が畦に咲いているのですが、さっぱり見かけなくなった。石垣の上に咲いていた可憐な野地菊です。匂いもきつかった。祖母が、竹筒に投げ入れていたのを覚えている。農薬で絶えてしまった。

 桔梗も、萩もきれいに咲いていた。山裾や田の畦に垂れていた。萩の色は、白・桃・薄紫とあって、床の間に活けられていた。今月は十五夜。薄が風に揺れている。狐がコンと啼きゃせぬか?樋口一葉の『十三夜』は来月。お関の心情が、染み渡ってくる気配には、今月は無理がある。緊張感がないんだ。それこそ、柊や枇杷葉の花の香りが、心に入って来て、思い止まる様子に胸を打たれるのだ。それが凍てつく星月夜も、深とした闇もないのは心外なのです。

 今日は、昨夜からの雨で、寒い一日でした。そして蒸し暑い。なんか変だわ。と思っていたら地震があった。昨年からの活動期で活発です。富士山が噴火したのは久しいのだが、今年辺り、どうなんだろう?これは益々、注意が必要かな?どんな小さなことでも、回避できない危険はあるものね。注意1秒怪我一生。と言います。神経質にならなくてもいいですが、普通の感覚でいましょう。

 今夏に発芽した枇杷苗。小指の第一関節くらいの大きさです。ちゃんと育ってくれるでしょうか。
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祭りだ、ワッショイ!!

2010年10月08日 | Weblog
 地域の祭りが近い。住んで居るところは済んだ。先週だったのだが仕事でもあるし、出かけていくほどの賑わいもない。お神酒を振舞うような、神輿も出ない。屋台はむろん、影も形もない様変わり。一昔前のように、豊作や豊年を祝い、神々に感謝して、五穀豊穣という神聖さも廃れた。淋しい限りである。子どもの頃には、学校は半ドンで、家に翔け帰る間も、ざわついた歓声や、店先に並らぶ玩具を眺め、弾む心で浮き立っていた。

 祖母のくれる小遣いは、学年に応じて、百円だったり、三百円だったりした。ビーズを買い、綿菓子を手にすると消えた。裸人形は、それだけで消えた。小さな20cmにも満たない人形だったが、祖母は端切れで着物を裁って縫ってくれた。たまには風呂にも入れてやろう。と一緒に入ったら、黴が生えて黒ずんだ。金髪の髪も抜けた。ひどくがっかりしたことを覚えている。娘や孫には、リカちゃん人形を買ってやったが、さほど喜んではくれなかった。

 第六感が当たる。というのは、ある意味怖いものであろうか?先日も、勤務先で気になっている掃除を近日中にしなければ。と思い話した。今日、お客様が来られる事がわかった。介護をするためにも、毎日の掃除はとても大切なこと。だが、掃除など、と平気で言い、仕事の内容ができない事が多い。埃や、食べ零しなどがあれば、気になってしょうがない。性格といえばそうだが、やはり清潔な部屋に居てもらいたい。

 介護って何だろうか?私にできることは限られているし、何もかも全てができる訳でもない。食器が汚れていたり、触ればヌルッとすれば、きれいに洗うよう努めないか。洗濯を干す時には、ピシッと皺を伸ばして干せないか?皺くちゃのまま乾燥機に入れた洗濯物は、畳む時に手間取る。こういった基本を最初にしていれば、時間をかける必要もない。同時に、気持ちの好い空間と、居心地の佳さが共有できるのではないか?

 我が家が、完璧に綺麗なのではない。でも、外回りは掃いたり、片付けたりはしている。往来である。家の中は、雑巾をかけたりして、こざっぱりとはしているが、掃除機で掃除をするのは、1ヶ月に1回で、殆どローラーを転がすのと、雑巾が多い。狭い家なので、1時間もあればできてしまうのだ。寒くなったので、ヤモリが来なくなったが、台所に居たり、壁にしがみ付いていたりする。ナナフシや揚羽蝶、紋白蝶に紋黄蝶がひらひらと舞っている。

 夜盗虫も、芋虫も居る。団子虫など至れり尽くせり。ナメクジは借家に決め込んでいる。蝸牛は家ごと引っ越して来た。しかもお隣さんも一緒だ。狭い家ではあるが、大人数である。皆が、思い々の所に陣取って、暮しているのが愉快。蟷螂は、枇杷葉の葉の裏に、卵を産み付けていた。ひしめき合い、重ならず、生活できるのがいいね。今夜は雨が降っている。宇宙は星が観えない。布団に入って本を読もう。

 夕顔の花。真夏には咲かないで、先月の終りくらいから、毎夜咲く。天女が衣を翻して、舞っているように視えた。枇杷葉の苞が、形を成していく。心が騒ぐ。たくさんつくといいなぁ・・・。
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認識の誤り・・・

2010年10月06日 | Weblog
 人間の弱さと言うか、自分ではしないであろうことも、もしかしたら?と想定することがあるが、その殆どは、範囲が狭く、意外な展開は起きない。ところが、自分以外の人間であれば、そういった枠を飛び越えて、考え付かない事柄になる。宮部みゆき氏の著作は、決して想定外ではないのだが、その心理描写の巧みさに、思わず感心してうなってしまう。

 『名もなき毒』に登場する犯人は、生まれた時からの嘘つき女であるが、果たしてそうであろうか?一度嘘をついたら、騙せたことで面白くなり、嘘なのか、本当なのかわからなくなり、自分の殻の中に閉じこもってしまったのだ。他人の生活が羨ましい、自分のものにしたい、どんな手を使っても、望みの物を手に入れたい。自分が中心であり相手のことは眼中にない。同時に、相手が、他人が苦しむのが楽しいのだ。

 現在の悩みも、そういった一人の悪意で、仕事に支障が出る。老若男女に拘らず、自分以外のやり方に腹を立て、気分次第で勝手に変更する。それは誰の指示ですか。疑問や注意には返事もしない。声を荒げる。物を壊す。分からないと思って虐待を行なう。むろん、こういった人は挨拶は愚か、ちゃんとした会話が成り立たない。全くと言っていいほど、感謝の言葉もなければ、反省の態度がない。

 私は、その人間性を、小説の中で知ったが、図書館で吸い寄せられるように、手に取ったその本に、惹き込まれて読んだ。きっと神さまが、私の悩みを知って、其処へ導いてくださったのだ。そこに書かれていたことは、真実か事実か、或いはその本の中でしか、存在しないことかもしれない。それでも私にとっては、学ぶことの多い書籍で、考え方を、見方を変えることができた。

 人間は、どれだけの金銭的な余裕があれば、満足するのであろうか?あればあったで煩わしいには違いない。けれども自分の生活を守るために、最低限の収入は必要だ。勤務先でもらうのは、労力に対する対価だが、枇杷葉茶を手配しての収益は、形を変えてやってくる。枇杷の種の粉末が、300g・¥3,160?最近は、ネットでの販売が多いが、自宅まで届くから便利がいい。年収も大きい。

 私は、お人よしなんだろうか?それとも、金額を言ってもらった方が、却って迷惑や余計な気遣いをさせない分、さっぱりしていていいのだろうか?それに相手が、私の必要な品物を見当つけて、くれる訳ではない。時には、どうしたらよかんべぇ?というように、困惑したこともある。それでも、その好意を邪険にも言えない。

 また同時に、要らない物をつけてもらうこともある。しかしこれは、他の人にはわからないし、視えないものだから、説明のしようがないのだ。困る、大いに困ってしまうのです。ほんとうに、なんて言えばわかってくれるのか?もらってうれしいのは、珈琲や紅茶です。枇杷茶で淹れて飲めます。本は、特別うれしい。野菜や果物も、好きな物はほくそ笑む。しかしこれは、自分勝手と呆れる。

 そういった諸々の事情で、これ以上は、無料を止めます。枇杷葉茶を売って、億万長者になるんだ!いつのことだろか?
 我が家の屋根と百日紅。満開になってます。
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狐の嫁入り

2010年10月05日 | Weblog
 勤務先の定期健診があって、外に出たら、雨がはらはらとかかった。狐の嫁入りだ。秋のこの時期は、人間界でも季節柄、一番いい時で、暑くもなければ寒くもなく、お日柄が整っている。狐たちも、ちょいと人間達を真似て、花嫁を仕立てて行列を作る。彼岸花も色を差し、花嫁の頭を飾る。野良に出ていた者は、本物と思って眺める。長閑な田舎道を行く行列には、鳶も大きく輪を描く。そこに突然の雨が降って、あっと思った瞬間には、行列は消えている。残ったのは萎れた彼岸花。なんだ、狐の嫁入りだったのか。

 祖母は、そんな話を、風呂を焚きつけながらしてくれた。明見山を見ながら、私は言う。本物の着物を着ていたん?さあ、どうかな。祖母ちゃん、見たことがあるんか?さあて。祖母は考え込むように、薪をくべて風呂の火力を増やす。彼岸花は、庭の裏にたくさん咲いていた。取っちゃならんぞ。しびらじゃ。牛に食わせたらえらいこっちゃ。なんでじゃ?腹痛起こしておえんようになる。ふ~ん・・・、毒か?薬でもあるけど、きついからな。毒になっとる。祖母は、割り木を組んで入れながら、火の通りをよくして燃やしている。

 秋の夜長に、腹も空こう。と、栗の拾ってきたのに、鎌で切り込みを入れて、焚口に入れる。炭火の上でパチンと弾けて出てくる。祖母は、粗熱を取った栗を割烹着のポケットに忍ばせる。お八つなど買いに行くこともなかった。手作りのお八つもむろんない。蒸かし芋があればいい方で、アケビに柿くらいが関の山。今では山の幸であるが、当時はひもじさしかなく、お腹の足しにはならなかった。自然が満ちていても、お腹は一杯ではなかった。

 先日、アケビを栽培して出荷していることが現農に出ていた。それで知ったのだが、早生や晩生があるのだそう。私は、熟するのが日当たりで違う、と思っていたから驚いてしまった。野の物には、自然の条件があり、山裾と奥深い場所では異なるくらいにしか、思っていなかった。上手いこと商業ペースに乗せたらしい。果物も、品種の方向が、転換期になっているらしく様変わりしてきている。白桃も、清水が消えていて、夢白桃に植え変わっていると言う。

 夢白桃は、味も甘く、傷みも少ないらしい。農薬をかけるのを減らす意味からも、こういった品種に変わっていくのだろう。消費者は美味しければそれでよく拘りはない。数年後には、清水白桃は幻の桃になる。自分で作るのではないから、何とも言い難いが、どうなんだろうか?と何か淋しい。葡萄も、品種改良がされ、種のある黒い葡萄は見かけない。私は、葡萄を剥いて食べるのがめんどくさくて、あまり好まないが、昔の味が懐かしく思える。

 原種の品種改良は、何も葡萄に始まったことではない。あらゆる物がされてきている。その結果は、絶滅の危機に瀕する。というばかばかしさ。自然の中で、起こっている出来事でなく、人間が研究と称して、勝手に組み替えている。自然に任せていても、絶えて終う物もあろうが、その殆どは、人間の愚かさが仕出かせていることだ。今更、どんな手段を講じても、止めることは不可能に近いのではなかろうか?
 
 東の夕天に輝く、ジュピター。小松左京氏の『さよならジュピター』を思い出す。映画になったのだっけ。大都会でも充分な見応えがあります。
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当たり前と思える心で・・・

2010年10月04日 | Weblog
 若い頃の私なら、失敗を他人のせいにしたり、わからないことを話しかけられたりには、恥をかかされた。と思っていた嫌いがある。知らぬは末代の恥、とばかりに、学び続け、記憶することで、今日の私ができたのであろうか?いやいや、何事も謙虚な姿勢を保ち、奢らずで過ぎず、要らぬことを喋らず。私が守って来た事は、出来もしないことは言わない。時間が掛かっても、自分なりの努力をする。ということであった。

 人間は、自分だけの力や、地位がないにも拘らず、そういった人が、身近にいることを強調したがる。自慢するが、決して本人には、何等関係がなく、言ったばかりに、恥をかくことになる。本人には、何の地位もなく、財産もなく、資格もないことが多い。平等ではあるが、同じではない。ところが今日日の人間には、そういった謙虚な姿勢はなく、目立っていれば佳し。自分が中心なら納得する。

 然しながら、若い子なら認識不足と思えばいいが、これが還暦を迎えようかという年齢なら、唖然とするし、開いた口が塞がらない。でも、思いように限っては、哀しい、淋しがり屋なのかもしれない。私は、こういった虚実が混じったような、半分以上は嘘でできているような、いい加減さは苦手だ。私など、自慢ではないが、その殆どがない。つまり嘘ばかりだからだ。或いは、事実だけであろうか。形も、色も、何も無い。はっきりとした物にはなりたくない、というのが正解だが。

 私は、私であって、私以外ではないが、私に非ずだ。至極当たり前の、一体の人間に過ぎない。何事も全て、当たり前であって、生かされていると思える。Aさんの愛猫の調子が悪いので、手当てをする。逃げない。まるで私の手を、待っていたかのように、じっとしている。電気が入るまでには数分かかった。電機が入った途端に、飛び起きた。尻尾が動く。Aさんは、眼を瞠って、今、見えた!と叫ぶ。賺さず、いつもしていることを伝える。

 Aさんには、愛猫の前に、リンパ腺マッサージや、手あてをしていますが、感じてはいても見えない訳ですから、説明するのは難儀です。で、何度繰り返して話しても、数日経つと忘れます。更に、自分に都合のいい解釈になっています。でもこれは、人間は誰しも同じだと思いますが・・・。手あてをするには、枇杷葉茶や、花芽や種で、体の毒素を取り除いていなければ、電気は入っていきませんからね。

 子のソックスは、最近流行の兆しになる模様です。なんと言っても、絵柄が可愛い。隣の席のますだ君も、みほちゃんが履いていると、取り上げてしまいそうです。先生、みほちゃんは、違反の靴下を履いてきています~。って。みほちゃん、そこでわたしは、がんこちゃんすきなんだからいいの。って言わないかな。
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元気を出してね・・・

2010年10月03日 | Weblog
 猛暑と、酷暑に祟られて、体調を崩した数人(職員が冷たい飲み物ばかりを飲ませて)の様子に、どうにかして元気を出してもらいたいと思うのだが、何とも妙案が見つからない。それでも話している内に、お酒を飲めば元気になるわ。と一人が言うので、給料日まで待ってちょうだい。には、皆でお金を出し合って、買ってこよう。ということになる。しかし夕方だし、今日は雲ってもいるから、また今度にしようや。そこで、黒田節を唄うことになった。

 ♪さあ~けぇは、のぉめぇのぉめぇ、のぉむぅ~なぁ~ら~ばぁ、ひぃの~もぉ~とい~ちのぉ、このぉやぁ~りぃを~、のおみぃと~る~ほぉどに、のむな~ら~ばぁ、こお~れぞぉまあこぉ~とのぉ~くぅろお~だぁ~ぶうしぃ~~。昔の乙女も、今の自分を忘れて唄う。お酒は、人間を元気にしてくれる。いつもこつも呑んではいけないが、元気のパワーが出てくるなら、お猪口1ッ杯はいいではないか。たまには呑んでもいいでしょう。

 高齢になってくると、日々の生活に障害が出てくる。致し方のないことです。意地悪婆さんや、爺さんをやっていられるのは愛嬌です。そういった気力さえなくして、ただただ同じところに居るのには、心底疲れ果ててしまうでしょう。人間の扱いをされなかったり、生きていることがわからなくなってしまっては、動こうとはしない。その初めが、食事拒否だ。食べないでいるのはいいが、簡単には死ねない。

 結果は、大騒ぎになり、入院して点滴になる。そこから帰ってこられても、体力や気力が回復するには、本人は元より、家族の誠意が重要になる。加えて、スタッフの連携も大切な要因。皆で力を合わさなければ、回復は見込めない。それでも、信頼してもらうこと。話を聴いてあげられることは、とても大切なことです。傍に居てくれるだけでも、心が和む。

 介護の仕事は、手抜きができないし、相手は人間であって、物ではない。言葉はもちろんだが、態度や心も同じです。上司のいるところで、どんなに上手く取り繕っても、感じる人にはわかってしまう。自然の中では、平等に現れてしまうのです。人間ができていないと言えばそれまでだが、自分の力量を悟って、感謝するということを心がけていかなければ。自分の思い通りになぞ、言語道断つつじです。

 今日の早朝。と、言っても午前8時前ですが、地区の清掃に参加させてもらいました。勤務先からの連絡では、当日は手ぶらで構わないということだったが、軍手と火箸を持参しての、重装備で参加。地域の方は、それなりの格好である。草を刈ったり、抜いたり、集めたりの奉仕は、原則として、長袖に長ズボン。長靴に手袋が必需品。この時期、藪蚊が居ますし、草で切ったり、怪我をしては困るための格好です。

 9月25日の夕方、西の宇宙に輝く金星。東方最大離角で、-4.6等星の燦然とした光です。携帯で撮影し、部分的に絞って、拡大しました。
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牛蒡抜き・・・

2010年10月02日 | Weblog
 今日は、幼稚園最後の運動会。昨日、誕生日を済ませた下の孫は、観覧席を見て、ピースサインを出したり、手を振ったりと、余裕の態度。大きくなったものです。小さい組のお友達の面倒もちゃんと見れて、感心しました。出来ない子には待ってあげ、うろうろしている子の手を引いてあげる。何気ないことですが、そういったことができているのがうれしかった。ゲームや、競技も最後になって、いよいよ年長さんのリレーです。

 孫の仲間は、出そびれて最後を走っています。さあ、孫の出番!孫は、走ってくる子のタイミングに合わせ、バトンを受け取ると、カモシカの足で、見る見る牛蒡抜き。最後から、一気に走り出てトップです。そのまま次の子にバトンを渡し、次の子もアンカーにバトンをつないでいきますが、小競り合いが起きています。保てるか?抜かれるか?そのままタッチの差でゴールイン!!大歓声が起きました。(家族の間で)

 息子が幼稚園も、小学校もアンカーを走って、勝利を手にしていましたが、まさかその子までが。いや、アンカーではなかったけど。息子が、運動会で俄然発揮するのは、勉強が苦手だから。しかも、初めとアンカーを掛け持って走り、テープを切るのです。自分自身も誇らしかった。と、思います。娘は、競争は苦手でしたが、障害物競走は得意でした。慎重に確実にしながらですが、最後は一番になったのです。

 私は、ピストルの音に、後ろに行ってしまうのですが、走るのは得意でした。山や田畑で遊ぶことが、そうならざるを得ない体になっていたのでしょうね。逃げ足は遅かったです。カモシカは山の岩肌を、難なく飛び越えて行きますからね。短距離より長距離がよくて、時久走は最後まで走ったものです。運動ウンチですが、自然の中で遊ぶのは得意です。今は、走ったりはしませんが、クラッシック・バレエは習いたいです。

 お天気が崩れるかと心配していたのが、絶好の好天に恵まれ、布団を干して出かけた。どのみち、お昼までだし、近いので直ぐに帰宅できるためだ。汗ばむ暑さに上着を脱ぎ、サングラスをかけて応援した。嫁の実家の親が来ていたので、参加できる競技には出てもらう。私は、自前の椅子に座ったまま動かず。しかし園児の躾の出来ていない子には、小母さん根性で叱っておいた。

 園児らは、自分達の観覧席があって、保護者の方には来れない。何故なら、途中でお菓子を食べたりするので、止められているらしい。それなのに、お祖母さんの所に走って来る。しかも、礼儀を何一つ弁えていない。保護者の観覧席にはシートが敷いてあり、座布団や敷物が並んでいる。そこを土足で駆け上がって来た。2回までは許そう。仏の顔も三度だ。ここは土足で上がってはいけない。皆、靴を脱いで上がっているの。

 いつも思うのだが、公共の場で、親の子どもを叱らないことか。怖い小母さんが言うからだと?小母さんが怒るから止めなさい。こういった基本的な躾ができていないから、虐待の何のと言い、果ては子どもを殺したりする。その反対も然り。躾とは、家庭できちんと行い他人に迷惑をかけないこと。立ち居振る舞いも含む。言葉使いも同じです。子供に、してあげるはおかしい。子どもは子供であって、偉い人ではない。

 偉い人に成るために、学校で学ばせ、家庭で、地域で温かく育んでいく。大人は、子供に媚びる必要はない。人権を備えた仲間というなら、対等である筈。媚び諂う相手ではない。同時に、何故そういったことで叱るのかを、分かるように説明してやればよい。子どものすることだから・・・、と傍若無人に野放しにしていたのでは、人間にはなれないのです。動物なら、今更軌道修正はできません。人間は、まだ間に合います。それには愛情が必要ですが、親の気持ちが通じれば、分かるのは否めません。

 帰宅して、娘と昼食を食べ、サンタさんから戴いた紅茶を飲んで、ほっとする。布団をしまい、帰る娘を見送って、水遣りをした。枇杷の種が発芽して、僅か5mmほどの芽を出しているのを、疑惑の眼で見ていた。1,2,3・・・4。鉈豆の茎の後ろに隠れていた。今年は、1本も芽が出なかった。とがっかりしていただけに、顔の筋肉が緩む。それで、またしては眺めてしまう。もしかして消えてやしないか?心配なのだ。携帯にも撮った。よかったぁ。

 百日紅。昨年は、どうあってか咲かなかった。今年もだめかな?と半分諦めていた。8月の終わり頃から咲き始め、今日に至っている。百日、咲くそうです。赤と白の混ざりは、終わってしまいました。北東の枇杷葉の場所のは、紫と薄桃色です。

 
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誕生日のプレゼント

2010年10月01日 | Weblog
 今日は、下の孫の誕生日。りささんには、早くから絵本にサインを入れてもらって、送っていただいていた。包装紙に包んでリボンをかけ、手渡してやると、「あ・ねこまるせんせいだ!お祖母ちゃんと一緒だ」と、甚く気に入ってくれた。りささん、ありがとうございます。孫の喜びは、祖母ちゃんのよろこびです。この孫は、やまんば妖怪学校の、駄目犬クンを『迷犬、クン』と呼んで、大きな声を出して読んでいます。

 何処かに、魔法学校への近道があって、自分も行って来るのだと鼻息が荒いです。上手く見つかるといいね。と話していますが、来年は1年生です。父親に、顔も体型もそっくりなので、つい笑ってしまいます。姉の方は、先日ジグソーパズルの絵を、がんこちゃんとがんペーちゃんにして、クラスの皆がしない絵柄だったため、誉められたとかで、得意顔で帰ってきました。つい顔が綻んできて、携帯で撮りました。

 日中は、お天気であれば汗ばむくらいですが、夕方には肌寒い。皆さま、風邪をひかれないようにお気をつけられて。枇杷葉茶を飲んでいると、風邪を引きにくくなり、体調も整ってきます。また、更年期障害には、驚く効果があります。閉経時の鬱屈とした気分が消え、体の重だるさが軽くなり、吐き気や頭痛も治まって、解放された気分になります。

 今まで、暗闇居たのが、さあっと明るい場所に出てきたように、眩しい光が包みます。ちょっとびっくりするかもしれません。でも、食事は美味しいし、不眠はなくなるしで、何かこう、ぱあ~とした気分です。そうですねぇ、サイダーの栓を抜いたような、すっきりさです。それでいて、しっかりと大地に足を踏みしめた気分。トンネルを抜けて来た。って、感じでしょうか。

 枇杷葉の他には存じませんが、体質的に合わない人も居られるでしょう。けれども、極珠にで、殆どそういった事例はありません。それほど枇杷葉には、何人にも効果が現れます。安心して使ってもらえる漢方です。猫や犬に効果が出るのですからね。人間に効かない訳がありません。本当に日々よくなってきて、完治します。特に、医者の見離した症状に、最も効果が見られ易く、個人差もありますが先ずは、飲んでみてください。

 この時期からの青い葉がいいようです。枇杷葉があれば、煎じる度に葉を採ります。1回につき2~3枚です。煎じても色が出なくなるまで使いますが、弱火で煎じることを守ってください。生葉を大まかに鋏で切り、薬缶に入れて煎じます。市販品は、細かく切ってあったり、炒っていたりします。お湯を注げるように、便利で手軽にできています。自家製の物は採った葉の状態でも構いません。でも、そのままでは飲めませんから、煎じてください。

 枇杷葉茶の他には、ドクダミ茶や、スギナ茶などもあって、其々に効能が違いますが、昔から漢方、薬草として使われてきていた物は、副作用も少なく、効果は充分にあったものです。血液をサラサラにして、体内の浄化を図ってくれます。無理をして治すのではなく、自分のペースにあった方法でします。そうしないと結局は、嫌気が指して、止めてしまうのですよ。三日坊主は狸に負けてしまうのです。

 今日、水遣りをしていて、ふと眼がいった。な・なんだぁ!!やだ、芽が出てるじゃないの。今年は、出ないと諦めてしまったのに。と、無性に嬉しかった。
 
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