1950年代後半の浅草浅草寺付近
終戦後10年の1955年頃、1950年6月に始まった朝鮮戦争により、軍需物資等の需要により国内の産業が活発になり、戦後の復興目指して突き進み始めた頃だったと思う。
庶民の生活もだんだん良くなりつつあった。
しかし、民間会社では休日は日曜日のみ、月4回ならば良い方で、月1~2回と言う所が多かった。
とにかくがむしゃらに働いた時期の始まりだった。
町中を駐留軍の兵士たちが歩いているのはごく自然な風景だった。
そんな頃の浅草浅草寺境内。
本堂の前には色々な商いをする露店が並んでいた。
売り手の女性は和服姿に下駄ばきだ。
参拝に来た若い女性。
誰かを待っているのだろうか。
当時ミニスカートがはやっていた。
髪型も現代の形と全く違う。
浅草寺の裏手にはトタン張りのバラックが立ち並び、そこに住む人、商売をする人達がいた。
浅草酉の市の一コマ。
売り手と買い手の掛け合いが面白い。
女性たちも和服姿だ。
現代では全く見られないが、当時の女性の普段着とか、正装は殆ど和服だった。
まだまだ女性が仕事に出るとか、共稼ぎなどと云ったことが殆ど無い時代だったからだろうと思う。
売り手と買い手の値段の交渉の一コマ。
「どうこんな所で・・」「う~んも少し勉強できないかな~」
現在はどうか分からないが、当時は売り手と買い手が値段の事で駆け引きを半分楽しみながら交渉し、折り合ったところで手打ちになったものだ。
この写真のような夜景を撮る事は当時としては大変な事だった。
フイルムのISO(当時はASA)感度が50~100しか無く、カメラのレンズも開放絞がf3.5~4.5位だった。
酉の市のようにあまり明るくない場所では絞り解放にしてもシャッタースピード1/5~1/10秒位でしか写せなかった。
相手が動くものは撮影は不可、止まっているものでも、手振れ、カメラぶれが起きて写真にならない事が多かった。
この写真はあらかじめ4倍の増感現像をする事を前提として、シャッタースピードを1/25秒位にして撮影している。
増感現像をする事により粒子が荒い写真になる事は承知の上だった。