私のカメラ変遷史1
老骨が写真に興味を覚えたのは、小学校5年生(1943年)の時だった。
工作の時間に「ピンホールカメラ」の制作が有り、カメラに印画紙を入れ、一時間程被写体に向けておくと、白黒反対(ネガ)の写真が写る。
それが面白くすっかり「ピンホールカメラ」にのめり込んでしまった。
戦時中ではあったが、「東郷カメラ」と言う玩具のカメラがあった。
それは簡単な仕掛けのカメラだったが、一応ネガの現像が出来た。
撮ったフイルムを押し入れの中で現像する事が出来た。
そのネガを当時はやりの「日光写真」の要領で印画紙にプリントする事が出来た。
日光写真と言うのは、ネガに当たる紙製のものが有り、偉人の顔とか有名観光地の風景、漫画のキャラクターなどがあった。
そのネガと印画紙を重ね合わせ、ガラス板に挟んで太陽に向けて数分置くと、ポジの写真が出来る仕組みで、子供の間では人気者だった。
東郷カメラによって、益々写真が面白くなり、すっかりはまってしまった。
1945年8月15日太平洋戦争は終戦、旧制中学(5年制)の2年生だった。
1944年4月に愛知県に疎開していた。
1946年3月帰京。
中学一年生の頃には玩具のカメラもなくなっていて、写真からは遠ざかっていた。
高校3年の時、同級生が昔のカメラを見せてくれた。
その頃はまだフィルムも無く、ただカメラを眺めるだけだった。
時たま手に入ったフィルムは印画紙をフイルム状にしてカメラに装着できるようになっているものが有り、仕上がりはピンホールカメラと大差なかった。
1947年頃、父の友人がカメラを貸してくれた。
その頃にはフィルムも幾らか出回るようになっていた。
借りたカメラは蛇腹式のカメラだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/f1/a03f8585f46ec654a4c0c55215060baa.jpg)
平らに格納されているカメラで蛇腹を引き出し、セットする様になっていた。
ファインダーも格納されているものを開いて使うようになっていた。
露出合わせは手動、シャッター、絞り、距離合わせ(目測)は自分でセット。
特に距離合わせは目測で、カメラの距離目盛にセットする。
露出合わせ(シャッター,絞り)はその日の、天候や撮影場所によって自分の感でセットする。
フイルムは6X9センチの大きさで8枚撮りだった。
写したフイルムのコマ送りも勿論手動。
カメラ背面の赤い小さな窓に見える数字を一枚分送る。
写したらすぐに巻き上げる癖をつけないと巻き忘れて二重撮りになってしまう。
かくして8枚写し終えてカメラ店で現像してもらい、出来上がったフィルムを見ると、満足な露出とピントが合っているものは、上手く行って、4枚くらいと言った感じだった。
5割が成功ならば万歳と言った所だった。
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