かつてSkylineというブルーグラス・バンドがあった。
特に思い入れがあるのは、MAPSが一番最初に招聘したミュージシャンだからだ。
MAPSは、かつて一緒に70年代、ブルーグラスバンドを組んで遊んでいた仲間の一人、佐竹晃が米国に渡り、ニューヨークでトニー・トリシュカの知遇を得て、彼らが日本に来たがっていると聞き、もう一人の仲間、藤井祟志が起こしたプロモート会社だった。
かつて私の弱小劇団、ハウディハウスもMAPSの手で大阪公演させてもらっていた。
逆から読むとSPAM。 安価なポーク缶詰になり、SMAPは我々が育てた歌い手でもなんでもない。
Music Amusement Performance Serviceの略なのだと藤井氏は力説した。
その一発目がトニートリシュカとスカイラインだったのだ。
Tony Trischka (Bj) Dede Wyland (Vo&Gt) Larry Cohen(E・Bs)
Danny Weiss (Gt) Barry Mitterhoff (Md)
初来日は1983年。ガチガチの南部のブルーグラッサーと違い、
東海岸の彼らは柔軟で、やっぱり今思ってもスマートだったな。
トリシュカは箕面の藤井氏のマンションで、部屋閉め切って何時間もバンジョーを弾いていた。
やっぱりグラミーにノミネートされるような人は練習が苦にならないのである。
このあとMAPSは、ボブペイズリー、ジム&ジェシー、カントリーガゼット、セルダムシーン、ニューグラスリバイバル、ラルフスタンレー、ピーターローワン、デルマッカリー、ホットライズ、トラペゾイド などを呼び、
ひとつのムーブメントを作り上げた。
劇団員からコントグループ、放送作家への過渡期にあり、時間が作れたボクも、毎回のように手伝った。
ミュージシャンを成田に迎えに行き、そのまま大阪へ走ったりもした。ほとんど日ごろ運転していないボクがである。お~こわ。
でも、ブルーグラスで客を呼び続けるのは難しい。一度も左団扇で笑いが止まらないことはなかった気がする。好きだからなんとか続けられた主宰の藤井氏も、しだいに懐具合は火の車となり、しまいにゃ満映の甘粕正彦が最期に残した“狂歌”のごとき有様になった。
大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん
その後、リッキースキャッグスがカントリーで成功して、ブルーグラスにUターンしたり、アリソンクラウス、ロンダヴィンセントなどの人気。映画「オー・ブラザー」が当たったのを機に、ラルフスタンレーやデルマッカリーが人気を博し、ブルーグラスが全米で認められるにつけ、ブルーグラッサーたちのギャラもはね上がり、皮肉なことに向こうの暮らし向きがよくなると、こっちは途端に呼べなくなった。 だって支える観客数が全然ちがうんだから。Tom's CabinやBOMやPick Oneなどの踏ん張りは称賛に値する。
Skylineに戻ると、12年続いたという。
その後、90年代になるとトニーはさらにバンジョー音楽に深く入り込んでいく。
ベラフレックとやったり、バンジョーアルバムをプロデュースなどもする。
その後のラリー、バリー、そしてダニー。人懐っこい童顔は変わらず。
今回、盟友秋元慎から声掛けがあり、ホントに久しぶりにバリーと会うことができた。
ビルボードで、ヨーマ・コーコネンのコンサートで来日。 彼を囲んで西宮、阿留酎でpickin'Party。
ヨーマ・コーコネンはジェファーソン・エアプレイン~ホット・ツナのロックギターの大物。
今はアコースティックに持ち替え、自分のルーツであるブルースやフォークをしているご様子。
笑うとなんともいえない笑顔は変わらないが、髪に白いものも目立つようになった。
そりゃそうさ、あれからおよそ30年だもの。
こちらにも等しく時間が経ち、髪に薄いものが目立つように。
いや、髪そのものが目立たぬように…やかましわ。
スカイラインで一番年下だから、MCもさせられていた、とバリー。
ちょいと吃りながら話す感じが少年っぽくて、なんともよかった。
「強いばかりが男ぢゃないと、いつか教えてくれた人…」と、浅草の歌をうたいたくなる。
初めて訊いたら、ぼくより5歳も年上だったんだ。
優しいタッチのマンドリンは30年前とちっとも変っていない。
バリーとやるのだ、と勇躍歌った藤井氏は、まぁ、スッパリと歌詞が抜けまくっていた。
ボクもバリーと一緒にやったショーロのコードが出てこない。
土台、やってないとこんなもんである。 バリー達者でね!
http://mandozine.com/resources/CGOW/mitterhoff.php