同じ市内に住んだ者として、誇らしげに語りたいところだが、どうにもここへ行くと
アンビバレンツというか、複雑な気持ちになって出てくることが多い。
近親憎悪みたいなところがあるんで、口は悪いがファンの方には許してもらいたい。
だいたいがこのルックス。蕎麦が食いたくなる姿だろうか。
なんでこんな建築基準法に合っていないような妙な建物なんだ。
蕎麦粉の工場でもやっているのだろうか。
そう尋ねると、女性店員は工場ではないと答えた。
そりゃそうだろう、一店の蕎麦屋のための製粉ラインがこんなデカイ筈はない。
見るからに不思議な、謎のプラントである。
なんで、こんなことになってしまっているのだ。セメントは蕎麦粉の色と似てるけど。
左右の建物の間、小さな入口がある。
堺宿院にある蕎麦の「ちく満」。大阪きっての老舗として知られる。
創業が一説に元禄8年(1695)。店長らしきおじさんに聞くと、慶長年間と答えたが、
そこには80年ばかりのひらきがある。
まぁ、だあれも見てきた奴はいないし、適当にしてらっしゃるのだろうが。
由来来歴が書かれるでもなく、パンフレットの一つもある訳ぢゃなく。
堺の歴史みたいなものが、パネルで張り出されるが、そんなことよりも、
この店のことを知りたいし、今から口に入る蕎麦粉のことが知りたかろう。
西区新町の新町南公園にある、「ここに砂場ありき」の江戸三大蕎麦、砂場の発祥の碑。
大阪城築城の際に、砂や砂利が置かれた資材置き場のすぐ傍に、津の国屋と和泉屋の
二軒の蕎麦屋が「砂場」とよばれて、流行った。それが天正12年(1584)あたり。
その後、江戸へと移転し根を下ろすのであるが、この砂場より大分後とはいえ、
現存する中では屈指の古さを誇る。
入ってすぐ左に製粉室があるが、お世辞にもきれいとは言えない。
ふつうはガラス張りにするならば、ガラスの掃除ぐらいする。
手打ち蕎麦屋の名店は、一様に打ち場が美しく掃き清められていて、
出てくる蕎麦への期待を膨らませてくれるものだが、ここは拒否しているかのようだ。
座敷に通される。落ち着いたけっこうな佇まいだ。ちょっとした坪庭もあり、
句会でも開けそうである。 客さばきなどは手早く、問題は感じない。
せいろそば一斤(800円)、一斤半(1000円)という注文の仕方をする。
前回来たのは25年以上前にもなるから、ただ懐かしい。
梅田桜橋にも「ちく満」の支店があったが、あれもいつの間にか消えた。
吹田市に「曾呂利」という、ちく満出の店もあったが、元気にしてるかな。
酒ビール(700円)はあるが、それに合うような酒肴はない、というのがすごい。
ふつう、板わさ・海苔など、種ものの蕎麦に使う材料で酒を飲ませたりするが、
ここはその種ものがないんだから、潔いともいえる。
過去に頼んだつきだし(120円)がスゴかった。
だしをひいた後の鰹節に葱を混ぜて、山葵醤油がかかったもの。それオンリー。
つまりは酒飲んで、長っ尻などするなの遠回しな表明である。
店主は酒飲みぢゃないとみたね。
今回は車なので、蕎麦のみとする。 一斤半を二つ。
ほどなく、白木のせいろと薬味が届く。鶏卵の白さが目にしみる。
熱いそばつゆが入った徳利も届く。
碗に卵を割り溶き、そこへ熱いつゆを足す…という説明を拝聴。
つゆは濃く、黒砂糖っぽいコクある甘みを感じた。
せいろの蓋を開けると湯気が上がり、熱々の蕎麦が姿を現す。
蕎麦の香りは豊かとは言えないまでも、自家製粉だけあって、香りは届く。
蒸し蕎麦かと思うほどのもちもちさ、そして甘み。歯がなくても噛み切れる柔らかさ。
蒸し蕎麦かと問うと、そうではなく、茹でて、一度水で締め、さらに茹で汁を通すのだという。
ああ、大阪人ってのは、こういうふにゅふにゅの食感を愛して止まないんだな。
熱いつゆと全卵が混じったところへ蕎麦をつけて、一気に啜る。
鶏卵をデフォルトにするようになったのはいつの頃からか。
本来はなかったはずだ。蕎麦だけでは金がとれないので、いつからか、
ちょっとした贅沢感ある鶏卵を使い始めたのではなかろうか。
製粉室の感じでは自家製粉だが、石臼挽きでもないし、機械打ちである。
たぶん戦後、製粉機の台頭と共に切り替えたのだろうが、この時代、もう少し世の中の
流れを見た方がよかろう。
あえて時代の流れに耳をふさいでいる、どうも、そういう気がしてならない。
しかし、待てよ・・・とも思うのである。
かなり依怙地に時代に迎合することを拒否しているように思えるのだが、
完全に昔のやり方を踏襲しているのではなく、セメントの建物で、機械打ちにしてるんだから、
ある時にパタッと止まったといえる。そいつは中途半端といえないだろうか。
ここは頑固を発揮して、頑なに昔風にこだわり、昔の蕎麦に戻すことを提案したい。
近畿圏内で天日干しの蕎麦をめっけてきて、玄蕎麦からの完全手打ち、石臼挽き。
鶏卵も所望しない限りは出さない。(酒は出してもらいたいが、もう一つ二つ酒肴も)
昔の大阪人、誇り高き堺衆が愛した味ってのを復活させてもらいたいもんだ。
二つの謎のサティアンといい、広い店内といい、宴会も鍋も酒肴もないので単価も稼げない中、
一軒の蕎麦屋の商いにしては無駄が多い気がする。
きちんと後継者がいればいいのだが、いなくて、「ええ、どうせアタシ一代ですから…」というような、
なんだか、そんなちょっと捨てバチな、世をすねたようなところさえ感じてしまう。
だが、蕎麦はなるほど…と思えるものである。
我々はここで大阪に連綿と続いてきた蕎麦の歴史に触れることができる。
だから、尚のこと、どうか時計のネジを逆に巻いてもらい、本当の大阪の蕎麦文化を守って行って頂きたい
と思ってやまないのである。