帰宅すると、もう一つ、出版社に届いた「感想」が こちらに転送されていました。
今、読ませて頂きました。心からありがとうございます。こちらに御紹介させて頂きます。
感想 ぼくらの心はなないろ金魚
しょうがいのある人たちの純粋な心の姿を、夏祭りの情景を通して
素直に描かれている。いきいきとした文体で分かりやすい。
ただ、全体として情景に山がなく平板な印象になっている。
とくにラストがケイコさんとヒロさんの言葉で終わるのが残念。
短い童話としてまとめるのなら、「ぼく」を中心に据えて、最後も「ぼく」
の言葉か行動で終わらせたい。
誰が読むのかを考えたとき、健常者のこどもの視点からしょうがいのある
人たちの夏祭りを描く方が言いたいことが伝えやすい場合もあると思う。
この話はしょうがいがある「ぼく」の視点なので、その視点がぶれないように
言葉を選んで書かれるといいと思う。
率直な御意見、ありがとうございます。
仰られる通り、「山」がないですね。一気に盛り上がる事件も何もない。最初は、ボクも みんなも 「色々な音楽イベントや、出し物」に飛び入り参加したり、「出店を覗きに行ったり」 自分達の仕事を放り出し、「金魚釣り」に誰も居なくなった、でもーという「事件」を用意しましたが、長文になってしまい、ワード上で描いていたので、自分でさくっと"カット"しました。 もっと「奇想天外」な「山」を想定できれば、「カットなし」 でも良かったかもしれませんね。 私の想像力のなさが理由で、こういう平坦な展開となりました。御指摘の点、ありがとうございます。成程、と思いました。
ラストがケイコさんとヒロさんの会話で終わったのには、訳があります。福祉就労グループのアイドル的存在で、何をやっても許されちゃうキャラが、実在する「ヒロ」さんでした。他の利用者さんは、「きっとヒロさんが喜ぶよ」「きっと また泣くよ!」「ほらね! 泣いたー!」こんな会話が日常的です。あの日も、「きっとヒロさんが、、、」 みんなの予想通り、ヒロさんは期待を裏切らず、「いたぞ!」と最後まで言い張りました。ボクも含め、みな、そんなヒロさんと職員のケイコさんをにやにやしながら眺めている。そんな光景を そのままラストに持ってきたかったのでした。 ヒロさん、ケイコさん、二人のやりとりを眺めているのは、主人公、「ボク」の視点も含めた「周囲のみんな」、です。でも、状況説明が足りないですね。或いは、もっと違った形で終わらせると、更に作品が生きた可能性も、勿論あります。御指摘ありがとうございます。
「来年のお楽しみに…ね♪」 という最後の台詞は、夏祭りの楽しみを そして「みんなの」夢や希望を「未来に繋ぐ」というか、「また、会おうね!」 という「皆」と「作者である自分の」願いも込めました。補足ですね。作者という立場は、「一行」に「思い入れ」があり、駄目ですよねぇ。 自分で見直していても、編集者のように、「さくっと」切れない(苦笑) だからこそ、第三者の方に一読して頂き、感想を頂けると大変勉強になりますね。
最後の段落については、以下にまとめてありますので、乱文ですが、お読みくださいませ。
TOEIC受験が行われた1月30日。この日は凄く寒くて震えながら受験会場から徒歩5分の図書館に駆け込みました(苦笑)
試験が終了し、私の次なる懸念は2月1日から始まる「Goodbookプロジェクト」でした。皆さん、ご存じの通り、Goodbook出版社のHPに掲載される自分の原稿です。 読んで下さる方がどのような感想を持つのだろう、一冊でも注文して頂けるだろうかという不安。 図書館でふと思いました。 (これまでに「しょうがいしゃ」を扱った児童文学は、どのくらいあるのだろうか?)と。
図書館で1冊の本を見つけました。出版されたのは2005年。それほど古い本ではありません。しかし、皆さん御存知の通り、Goodbookから出版された童話や絵本の中にも、「しょうがいしゃ」「こうれいしゃ」が登場する作品がいくつかあります。ですから実際には2005年以降、もっと多くの児童書が取り扱っている題材だろうとは思いますが、早速、借りてきて読んでみました。
この本によると、日本で最初に現実の障害者をとらえた「秀作」は1928年(昭和3年)同人誌「児童文学」に発表された短編、千葉省三: 著 「兵隊彦さん」だそうです。戦争に行って頭に大けがをおい「気がへんになった」彦さんという男が登場し、社会からも家族からも疎外されている「疎外状況を子供の目を通して残酷なまでに正確に捉えている」のだか。
その後、両親を早くに亡くし、目が見えない祖父と暮らしていた川端康成が 日本で最初の長編、「美しい旅」を描いています。その前に、「女性開眼」という目の見えない若い女性が手術の結果、目が見えるようになったという物語も書いています。川端康成自身、「網膜に穴があいている』と言われ、「俺の眼には穴があいている」と盛んに言っていたらしく、そのあたりも「目がみえない」ことを題材とした理由だったのかもしれませんね。
そして ついに大作が生まれます! 戦争が生んだ「障害者」を描いた誰もが知っている、壷井栄:著「二十四の瞳」。
1960年~70年代に入ってくると、多彩な障害者像が示されるようになり、作品数も多く現れてきたのだそうです。「児童文学において障害を扱う時、大きくわけて2つの主題がある」といいます。一つは、障害者自身がどのように生きるか、ということ。もうひとつは障害者と非障害者がどのように<関係>するか」ということ。(168ページ)
結論からいうと、<関係>にウエイトを置いた作品の方がはるかに多い、ということです。理由は簡単。著者も言っているように、「一般的に言えば、作家が非障害者である場合、障害者の生き方なり、内面なりに踏み込むことは かなり困難な仕事である、」ということ。 例えば、目が見えない子供が第二主人公の児童文学を描いた作家、長崎源之助は、あとがきで、「ぼくはまだ、本当に目が見えない人たちの悲しみをわかっていません」と述べた、とあります。
ここで、自分の作品に目を向けるとー
本当は、「障害者」と「健常者」(長谷川潮さんの著書においては「非障害者」)という枠組みで話をすること自体、私は好きではなく、そんな枠は「とっぱらう」のが望ましいのですがー
少なくとも私は自分が描いた作品の中に登場する「ボク」のように「知的しょうがいしゃ」ではありません。ですから「ボク」の視点で描くこと自体、「冒険」でした。「しょうがいしゃ」を題材に扱った童話を書くことは、実は今回が初めてではありません。 過去に、(1980年代)しかも自分がまだ中学生という早い段階で「健常者で中学1年生のわたし」の眼を通して見た身体障害者の 「夢乃ちゃん」を描いた「小さな一歩」という短編があります。生まれて初めて出版社に応募した思い出深い作品でもありました。佳作にも引っかかりませんでしたが、「小さな一歩」を描いていることもあって、「中学生の自分と同じことをやっているのでは、つまらない」という気持ちも何処かにありました。 長谷川氏の著書の表紙を飾った童話、「ぼくのお姉さん」 「さっちゃんのまほうのて」「はだかの天使」など、いずれも「しょうがいしゃ」は第二主人公として他の人の視点で描かれています。こうした作品はすでに大作家によって描かれ、世の中にたくさんあるのです。 今回 私が本作品でやってみたかったのは、「知的しょうがいしゃ」の視点で、重々しい話とはかけ離れた「何でもやってみたい、生き生きした心」を描く、ことでした。 たとえ 「これ」といった山場が無かったとしても(苦笑)
「知的しょうがいしゃ」といっても、漢字もある程度、読めて、書ける人、ひらがなであれば、書ける人、全く読み書きできない人など、それぞれです。「就労」を目指すグループの利用者さんと主に多くの時間を過ごしてきたため、「読み手」は「知的しょうがいしゃ」である「彼ら」も含めています。あの夏祭りを成功させた、「かれら」にこそ、一番に捧げたいのです。 彼らとの<関係>を築いた周囲の「小学生」と「その子の母親」 は作者である私が「二番手」として想定した読者様ですね。ただ、このブログやGoodbook出版のHPにアクセスする主な人は、父や母、職員のケイコサンだろうと思いますので、「この作品が誤解を解くカギとなればー」としました。
引き続き、御感想をお待ちしております。万が一、800冊の申し込みがあり出版化が決定した場合は、しっかりと谷本編集長と「編集」させていただきます。出版化は、夢のまた夢ではありますが、「そのとき」の為にも参考になりますので、御意見お待ちしております。では、取り急ぎ、お礼まで。
いわおまゆみ