逆説の日本史シリーズは、1巻から9巻まで読みましたが、10巻の信長、11巻の秀吉は図書館に立ち寄った際、見つけられませんでした。ずーっとないようなので、やはり取り寄せになるか。今回は、2冊とばすことになるものの、12巻の家康の謎を借りてきました。 他にも先に紹介した『チエちゃんと私』よしもとばななを含む合計5冊を貸し出し。 大体、いつも2週間で5冊借りますねぇ。読めるのは月に10冊程度でしょうか。今はECCの研修期間中でもあり、多忙なので無理はしない✋
実はまだ読了しておらず、半分ちょっと読み終えたところなのですが、ここまでで、どうしても書き記して置きたいことが! ひとことで言えば、
リメンバー 関ケ原
これって誰にとって? 諸事情は違えど、”関ヶ原負け組”となってしまった毛利・島津、二家です✋
幕末の会津藩も気の毒と言えば気の毒ですが… それより先、300年近くに渡って Remember 関ヶ原を胸に、あの恨みと試練と教訓を親から子へ~孫へ~と世襲してきた藩があったのですねぇ。
毛利といえば、長州藩。島津といえば、薩摩藩。
幕末の 打倒!徳川幕府もうなずけます。
関ケ原の合戦云々は、わたくしごときより、皆様方のほうが断然お詳しいでしょうから、ここでは詳細はカットし…
毛利・島津にスポットを当ててみたいと思います。
まずは、毛利藩から~ 井沢さんによれば、(124ページ)
関ケ原の戦いから二百数十年後、長州藩士、吉田松陰は私塾、松下村塾であらゆる学問を教えたことは、あまりに有名でして、最近の大河でも「花燃ゆ」で描かれました。
高杉晋作、伊藤博文(山崎育三郎しゃん…もうすぐ会えるね、8時に)、山県有朋、多くを輩出。
松陰は歴史を教える際、当時の大ベストセラー頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』を使用したが、冒頭からではなく、関ケ原から教えたそうです!
「我々は毛利家の家臣だ。だから関ケ原から始めよう。君ならどうする?」
良い問いです👍
例えば、ここに織田信長の才覚に気付かなかった当時の武将(明智光秀)であったり、信長の教育係は視野が狭く、見る目がなかった、と言っている人がいたとします。では、逆にその人がその時代に存在したとしたら、「あなたなら、どうする?」と問うてみたいものです。 だってさぁ~ 現代ですら自民党支持者で談合も必要悪だ!と日頃から意見している、その人が 信長が最も嫌った事の1つが談合であるのに… 信長の才覚を見抜けちゃったりするのでしょうか?って話です。信長はワンマンに見えるものの、何処の🐴の骨とも分からないよそ者の意見に耳を傾けたからこそ、バンバンよそ者を抜擢し、秀吉や光秀が活躍出来たんだもんね~
まだあります。
古代ローマの元老院。このシステムが機能していた頃は良かったものの、段々と時代と合わなくなってくる。だからカエサルは変えようとした。 自民党の派閥システムも、戦後は上手く機能していたけれど、時代と合わなくなってきた…それが今の状態じゃないのでしょうか。少なくとも自分が小学生の頃は、宮沢喜一さんなど穏健派と強硬派がいて、派閥が政党のような役割をしていたし、意見を戦わせていたわよ~ よくテレビで見ていたもん。激論だったり、取っ組み合いのけんかにでもなろう自体… それが今は…安部&麻生ら御山のトップのボスらと意見が合わねば河野さんのように、冷や水を飲まされる、という事態。おかしくないでしょうか。
話がズレすぎました。話題を元に戻します。
毛利家は、あの時、どうすれば良かったのか? 以下、124ページ以降を自分の意見も加えつつ、勝手にまとめます。
敗因の第一は、井沢さんの言葉でいえば、徳川家康という男を信用し過ぎた!
「あの狸親爺は最初から毛利を騙し、領土を取り上げるつもりだった。その辺は上手く立ち回ったつもりだった吉川(きつかわ)広家も、まんまと騙された。「参戦しないでくれ✋」という狸親爺に 「何もしないで棚から牡丹餅狙い」だった、甘かった! その結果が「百二十万石から三十六万石への脱落」これは痛い、痛すぎる。しかも あっさりと大阪城を狸じいに明け渡すとは…
敗因の第二。上層部の優柔不断。西軍の総師を引きうけたのだから、出陣すべきだった。毛利が出陣すれば、西軍が勝利していたでしょうね。毛利は村上海賊(海軍)を持ち、補給が絶えることもない。大河、「軍師官兵衛」でも描かれたけれど、黒田如水が天下を取った可能性もあり✋
では、時代が流れ、幕末となった折、徳川と長州藩が戦う事態になったら、上記の教訓を生かし、どうすべきか?
「徳川とは妥協しない」
「毛利輝元(世間知らずのお坊ちゃん)に二の舞いはNG~長州藩にとって妥協は敗北への道…」
上層部が優柔不断であれば、部下は暴走してでも目的を果たす…といったところでしょうか。
幕末の長州藩の動きは、リメンバー関ケ原を教訓としたから~と言えなくもない気がしませんこと?
もう一つの負け組、薩摩の島津藩。
島津家にも リメンバー関ヶ原の儀式が今も存在するらしいです。
妙円寺(みょうえんじ)詣り、といい、青少年が甲冑を着て、薩摩各地から集まり、妙円寺に参詣する。しかも、あの関ケ原の日(正確にはその前日で、旧暦で9月14日)
実際の関ケ原の合戦では、千六百人が的中突破して、わずか80人が薩摩に帰国できた、あの戦いの日に…
ソフトバンクホークスの元選手で、鹿児島出身、すなわち薩摩隼人の川崎宗則選手が、ヒーローインタビューで、
「チェスト~!」
と叫んでいたっけ。
あのチェスト!は、「チェスト関ケ原」から来ているんですね。
関ヶ原の戦争に関係ない場合でも、薩摩人はこの掛け声を絶叫して奮躍事にあたる、そうです。(『史談と史論』海音寺潮五郎 著 講談社刊)
薩摩も負け、恨みも残ったが、長州に見られる指揮系統のいい加減さは薩摩にはなく、だからこそ、敵中突破も可能だった(井沢氏曰く)(128ページ)
薩摩藩ははじめ、徳川に味方する気でいたが、伏見城への入城を城将、鳥居元忠によって断られた。ようするに島津の根回し不足が招いたことで、徳川の陰謀というわけではなかった。九州の端っこに位置し、中央の情報収集に疎かったのは分かる。自分も九州だし…。
ここから得た教訓は、情報収集を徹底的にやり、決して不利な状況で参戦することがないよう念には念を入れる! 会津と手を組み長州藩を追い出そうとしたと思ったら、長州藩と手を組み幕府を倒す… 西郷どんも藩を超え、あらゆる人と会い、情報収集に努めておりましたねぇ
何はともあれ、西軍 毛利輝元の大阪城退去によって、一応は家康が政権樹立の基礎を固めはしたものの、関ケ原の後も、豊臣は大名として生き残り、加藤清正ら、豊臣側に忠誠を誓う大名もまだ残っていた。。。(132ページ)
天下泰平への長い道のり∼を読み始めたところですが、私の抜粋はここまで~と致しましょう。