日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

古代ローマの講和条約

2016-06-05 23:10:45 | 読書

 第二次世界大戦以後に生まれた私達こそ、古代ローマに学びたいと今、心から思う。

 勝者=正義

 敗者=非正義

東京裁判で一方的に裁かれた戦後日本に生まれた私は、小学校6年生の社会科の授業で、「米国に2つの原爆を落とされて戦争が終わり、日本は平和になった」と教えられた。10年前に再会した当時の先生も、「確かに、そのように教えた」と言った。当時はその先生も若干26歳。戦後生まれの一般的な若者は、直接当時のことを知らずとも 「日本は悪いことをした」と戦争の話題になるたびに肩身の狭い想いをしてきた…と思う。お詫びと反省は歴代の首相によって何度も繰り返されてきた。戦後補償も国家同士で日本側は完了したとしても、その後も何度も持ちあがる。今は日本企業が個人に戦後補償をする時代に入った。「日本は平和国家になった。世界は日本の過ちを許してくれて、平和国家日本のことも きっと認めてくれている筈!」と6年生の少女だった自分は思ったものだ。実際には幻想だったけれど… 日本という国が存在する限り謝罪は繰り返すべきなのだろうか。「どんな強国もいつかは滅びる」 カルタゴが700年の歴史を閉じたとき、古代ローマのスキピオ・エミリアヌスは、勝者であるにもかかわらず、敵の運命を想い涙したという。 ここまで カルタゴの兵(ツワモノ)、ハンニバルと長年に渡り、Battle闘争を続けてきた古代ローマ。 ある時はローマが敗れ、ハンニバル率いるカルタゴが勝者となった。 

カルタゴとローマ。 ハンニバルとスキピオ・アフリカヌス(アフリカを制したことで、後にニックネームでアフリカヌスと呼ばれた)

二国は、時に勝者となったが正義とはならず、敗者となっても非正義と定義されたわけではなかった。

勝っても敗者を称える。まるで現代であれば、スポーツで一戦を交えた後、勝利者が敗者と握手を交わし、お互いをねぎらい力を認め合うかのように…。 ハンニバル戦記を読みながら、近代の戦争について書かれた史実を読む時のような重苦しさは全く感じず、何故か痛快だったのは、スキピオが昨日の敵と言葉を交わし、今日には男の友情を確かめあい、共に戦う親友となる者まで現れるからだろう。マシ二ッサがそうだ。 スキピオの父を死に追いやった相手にさえ、父の敵を打つといったような感情で動くことはしない。 著者の塩田七生さんも スキピオほど仇を討つという感情と無縁な男はいないと何処かに書かれていたが、スキピオその人ほど、古代ローマ人の「ひととなり」をそのまま感じさせてくれる人はいなかった。

策の巧妙さに驚いたり呆気に取られたり… 知恵比べ。裏の裏をかく戦法。 時に涙し、勝者に拍手を送り… 戦争ではない、そこには戦闘があった。 近代のように 勝者があとから慌ててこしらえた、国際法(…の内、平和に関する罪)なるものを振りかざして一方的に敗者を裁いたりするのではない。 それゆえカルタゴが遂に滅びても、ローマは敗者に想いを馳せたのだ。

紀元前202年、ザマ… ここが事実上、ハンニバルとスキピオが一線を交える最後の会戦となった。

ローマ人の裏をかいてきたハンニバルの裏をかく形で、ローマ軍はよりハンニバル的な布陣。一方のハンニバル軍はよりローマ的であったという。結果はローマがかつて敗れたカンネでの戦いをザマで再現させたような形でローマ軍が勝利した。 ハンニバルの策をこの時はスキピオが再現する形で…

☆講和条約☆

1.ローマはカルタゴを以後、独立国とみなしカルタゴの自衛権を尊重する…

・・・・

9.賠償金として一万タレントをローマに五0年間分の分割払いで支払う (日本円にして一年間に2億円)

10.…スキピオが選抜するカルタゴ人の子弟14歳から30歳までの若者100人を人質として送る。

 

賠償金は妥当な金額であり、しかも50年間の分割払い!…と七生さんは述べている。カルタゴの自衛権も独立国家とも認めているし、再起不能な額ではない、ということ。 若者100人の人質だが、これも現在でいうところのフルブライト奨学金と同じで、ローマ人の家庭に家族として迎えられ、その家庭の子供と一緒に教育を受けることが古代ローマ人が考える人質だったそうだ。 牢屋に入れられ鎖でつながれるのかと思ったら、そうではないらしい。いわゆる国費留学生のような待遇というわけ。

そしてー ここは七生さんの文をそのまま引用することにする;

「そして、日本人である私にとってとくに興味をひかれるのは、ここには勝者と敗者しかいないという事実である。正義と非正義とに分けられてはいない。ゆえに、戦争は犯罪であるとは言っていない。もしも戦争犯罪者の裁判でも行われていたならば、ハンニバルがまず、戦犯第一号であったろう。」

「しかも、ローマ人が『ハンニバル戦争』と呼んだように、第二次ポエ二戦役は、カルタゴ側がはじめたことは明らかである。ハンニバルが実に巧みにローマの宣戦布告を誘導したにしても、である。ローマ側が払った16年間の苦労、十万人以上の戦死者、十人を超える執政官クラスの武将の死を思えば、敗戦国にはなったにしろ、カルタゴの払った犠牲は驚くほど少ない。これを見ても、ローマ人は、敗者との間の講和を結ぶに際し、復讐に眼がくらむようなことはなかったのである。」(塩野七生:著 『ローマ人の物語 ハンニバル戦記(5)』 1993 P88)

七生さんによれば、スキピオ自身が講和の作成に関わっているそうなので、温和で人々に愛され、時には敵方ですら魅了したスキピオだったからこその講和内容だったのかもしれない。 そてにしても当時のローマ市民が 「市民集会」において、ただ一度で可決した、というのだから、これはもう、古代ローマ人が寛容だったというしかない。

 

 

 

紀元前200年頃までの古代ローマは、なんて寛大なのだろう。 いわゆる戦争WarsではなくBattles戦闘の後の講和条約に目を通し、七生さんの解説を読むと、とても分かりやすい。自分で歴史資料に目を通したとしても、素人の私には、第二次世界大戦当時の戦争の勝者が正義、負ければ単なる敗者ではなく非正義となってしまう歴史認識は間違っていると思ってはいても、上手く説明できない。 いったい、いつから敗者が悪、という風潮にかわったのか… そして当時のローマは意図的に市民を巻き添えにしていない。市民も兵として(税として)集められることもあったにせよ、常時ではなかった。古代ローマ人の価値観を現代にも生かせないだろうかと遂、思ってしまう。1945年当時の米国の価値観で生きてはいないオバマ大統領が広島を訪問した意義は大きい。オバマ大統領に同行する予定だったが、突然の病で広島訪問を取りやめた元米国兵士(だっただろうか)・・・古代ローマについて学んだことがあるかな…。何度も書き替えられたというオバマ大統領の原稿の一部が毎日新聞に掲載されていた。それは、オバマ大統領の手書きだった。米国民の半数にあたる世論に配慮し、本当に言いたいことも言葉にできない一人の”人”としてのオバマさんに触れた気がした。オバマ大統領はきっと歴史に精通し未来永劫…人類の平和を心から願ってやまない人であることだけは確かだ。Thank you, the President Obama, for visiting Hiroshima and wishing a world peace together with us!!!

 

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塩野七生:著 『ローマ人の物語』 ~ハンニバル戦記~ (文庫本通し番号 3・4・5)

2016-06-04 16:04:46 | 読書

 (2)が貸出中のまま、二週間近くが過ぎた。そろそろ返却されたかな…と思って度々図書館に立ち寄ってはみるが、未だ出合えていない。そういうわけで、2巻を飛ばし、3・4.5巻で語られる 「ハンニバル戦記」を先に読み始めたら、これがかなり面白い♪ 私が高校の頃は、普通科であれば、まず1年生では全員 「現代社会」を学び、高校2年では、「倫理・政経」或は「地理」のいずれかの選択。私は「倫理・政治経済」を選んだ。地理を選んだ同級生たちは、試験前になると、「カタカナの地名を覚えるのが大変だ!」とため息をついていたっけ。一方、私はカタカナとは無縁だった。 高校3年になると、「日本史」か「世界史」かの選択。 すでに英語にハマっていた私は、「将来、きっと海外へ行く。その時、聞かれるのは日本のこと。日本人が日本の歴史を知らなければ恥ずかしい」という理由から日本史を選んだ。 最も大河ドラマ等で小学校低学年の頃から日本史には馴染みがあり、面白くもあったからなのだけれど。この時もやはり世界史を選択した同級生は、「カタカナの地名に、カタカナの人物名に…あ・・・あたまが・・・」と嘆いていた。受験科目としては日本史の方が世界史、地理よりも平均点が低く、どっちともいえはしなかった。 ここでも私は 「カタカナを暗記する」ことから逃れられたってことなだけど。そして とあるスーパーで働き始めた時も、「すべてカタカナで書いてあるコカ・コーラの検品を読み上げるのに苦労した」訳よねえ。(苦笑)

 前置きが長くなったが、友達が面白い♪と教えてくれなかったら、100%手に取ることはなかった、「ローマ人の物語」。 これは上記の理由からも間違いない(笑) 1巻では、幼い頃、母に買ってもらって読んだ本、「ギリシャ神話」、留学時代に読んだ「ソフィーの世界」、社会学を学ぶ内、ギリシア哲学とギリシアの歴史を調べだしたあの頃の「好奇心」が復活し、最初の一冊だけで、心は世界の果てまで飛んでいった。時空を超えてギリシアへローマへ、そこへ向かったのは現代の自分というよりは、20代後半の研究者魂に火がついていたころの若かりし自分だったりして。 こんなことができるのは人間のみに与えられた特権。 動物は今しか生きてはいない。 文字と想像力を持つ人間は2000年以上も前の時代を生きた人達のことを書物を通して垣間見ることができる。なんてありがたいのだろう。

 海に囲まれたローマは伝統的に海に強いのだろうと勝手に思いこんでいたが、海に通じていたのはギリシアで、むしろローマ人は陸路に強かったようだ。3巻では、そんなローマ人が一体どのように海軍を大急ぎでこしらえ、海に乗りだし、独自のアイデアで自軍の船から相手の船へと飛び移り、船の上での陸上戦に持ち込んだか? 分かりやすく書かれてある。 当時、アフリカには大国カルタゴがあり、ローマは長年に渡り、この大国と対峙することになる。第一次ポエニ戦役が始まった紀元前264年、(241年に終わる)日本はまだ弥生時代だ。こんな時代にすでに共和政ローマは法律を作り、執政官を貴族、平民から選出し、兵役でもって税も納めさせていたのだから驚きだ。世界史を全く知らない私にはすべてが目から鱗状態!2世、3世政治家ばかりが君臨し政治とカネの話題に尽きることがない現代の日本の政治の世界より、古代ローマの方がよほど風通しが良さそうじゃないか、と思ってみたりもする。

 そのローマはシチリア島で第一次ポエニ戦役を始め、シラクサと同盟を結び(263)、紀元前260年以降、ミラッツォ沖海戦、パレルモ沖海戦、リカータ海戦、ヘルマエウム沖海戦、エガデ亻諸島沖海戦後、シチリアを属領とし、更なる税制、選挙制、軍制改革を行うのだから。 スペイン一帯を領地としていたカルタゴ軍の司令官、ハルミハルの子、ハンニバルがその後、長年に渡ってローマを翻弄するのよね…。 父、ハルミハルから いつかローマを…と教えられ育てられたハンニバル。 父の教えは強大だ。 紀元前218年、若干28? 29歳のハンニバルが当時は戦車の役割をした象まで引き連れてピレネー山脈を超えをした時は、後の時代に生まれた自分でも、あっけにとられた。ピレネー山脈は子供の頃、「走れ!ジョリー」というピレネー犬の物語をNHKで見ていたから馴染みがある。アルプスといえば、言うまでもなく、これまた幼児期から見ていたハイジ。 ゾウは寒さに弱いため、アルプスはどうにか超えても実際には冬のヨーロッパでは自軍内で暴れて役には立たなかったようだが、それでも…ねえ。 当時のローマ人が不可能と信じて疑わなかったアルプス超え。季節は冬の始まり。 「ハンニバル、アルプスを超える」の一報がローマの指揮官に届けられた時、どんな面持ちだっただろうか。想像すると… おまけに冬は「休戦」がそれまで常識だったローマ人にとっては、この常識が全く通用しそういないハンニバルを相手にするのだから… 冬になればローマ市民兵はローマに戻り、市民集会に参列、同盟国の兵士も帰国するというのが常だったようだ。 初めての冬季戦に臨むローマが相手にするのは冬でも戦闘を望んだハンニバル。 ローマの執政官はコルネリウス。 奇襲やだまし討ちも手の内、というハンニバルによって、その後もローマ軍は苦労する。 ハンニバルの奇想天外さは目を引いても、それ以上の気持ちはなく、読みながらローマ頑張れ!となる。 アルプス越えのあと交えた一戦によってしコルネリウスも重症を負う。 しかし、間一髪のところをこの日、初陣だった同じ名前を名乗る息子、17歳に助けられる。スキピオの登場だ。 ただ彼が大活躍するのは これより16年後のお話。 (ここまでが3巻。すでに図書館に返したため、著書は手元にないが…)

 

 私が大学3年生の時、イラクのフセイン大統領がシリアに侵攻したことが一つのきっかけとなり、湾岸戦争が始まった。それまで平和ボケの日本と呼ばれ、戦後生まれの私達学生にとって、戦争はすでに過去のもの、という感覚で生きてきた。 ドイツを東西に隔てていたベルリンの壁も崩壊し、ソ連はロシアに解体し、長年続いた冷戦も終結。今後は米国を中心に世界情勢も落ち着くかと思った矢先の出来事だった。

 湾岸戦争勃発のニュースは、大学で講義を受けていた最中に知った。その日、アメリカ文学を専門に教えていた教授が少し遅れて講義室に入ってきた。私達に向かって発せられた最初の言葉が、 「今、戦争が始まった」だったのだ。 急いで自宅へ戻り、テレビをつける。目にした映像は、テピンポイント攻撃の映像…最初に目にした映像に人の姿は見えず、ロケットのようなものが一瞬ピカッと光って消える。まるでテレビゲームか何かの映像のようで、まるでリアリティがなかったことを覚えている。 あの空爆によって開戦となった湾岸戦争のことが、塩野さんの著書の中でも触れられている。 カンネ 第4回戦のところで、だ。(99ページ)

 「空爆によって始まった湾岸戦争も、地上戦に突入するのはもはや時間の問題、と全世界がかたずをのんで見守っていた頃のことである」と・・・。いつもは多国籍軍や夜間攻撃を受けるイラクが画面に移し出されるが、この日はイタリアからの中継で、麦畑の光景だったらしい。 CNN記者は、次のように述べたという。すべて引用すると、

 「わたしが今立っているのは、南イタリアのカンネ地方の平原です。ここは、今から二千二百年昔の紀元前二一六年に、ハンニバルとローマの間で大会戦が行われた場所です」… ハンニバルがどのような戦術を用いて、数では優秀だったローマ軍を破ったかを説明していた。…略。

 「カンネの会議は、戦史研究では欠くことの許されない戦闘(バトル)であるために、陸軍士官学校ならばどこでも学習します。ということは、シュワルツコフが知っていると同じに、イラク側の将軍たちも知っているということです」 ”日本の防衛大学ではどうか知らないが” と塩野さんが付け加えているとこが笑えるが、この時、ハンニバル31歳。 塩野さん曰く、「ビリヤードでもポーカーでもカモとみた素人に対して熟練のプロがよく使う手を使ったにすぎない。はじめのうちは勝たせておいて、その後でごっそり、というやり方だ」(106ページ)  アルプス越えの後の一戦で ハンニバルが知力を備えているか知っているローマ軍の司令官は、相手の策にハマらぬよう当然、用心深くなる。 そのことを感じつつハンニバルが取った熟練ポーカーのような策だったようである。 現在、真田丸が放映中で、こちらの「策略」も三谷幸喜氏に描かれれば10倍面白くなるが、映像ではない活字だけの著書でも負けずに面白いのだから、たまらない。ハンニバルが考えた包囲作戦… によりローマは完敗した… しかし、私が感銘を受けたのは、完敗の知らせを静かに受け止めたローマだった。捕虜になることを恥とし命を絶った第二次世界大戦中の日本とは違う。(もちろん、皆が皆ではかっただろうが) ローマ人は捕虜となることを恥とは考えなかったらしい。ローマは残った兵士、執政官ヴァッロを 元老院議員をはじめとする全市民が城門まで出迎えて労をねぎらったというから、なんと成熟していたのだろうと改めて思う。 何はともあれ、大きな痛手を負ったローマだったが、このままではない。その後、第二次ポエニ戦役後期で主導権を握ったのはローマの方だったのだ。 いよいよスキピオ登場だ!

 

 スキピオ26歳。彼の父と叔父の敗北で失った、スペインでのローマ勢力をわずか一日の戦闘で奪い返してしまう。詳しくは著書で読んで頂くとして、(興味があれば) 私がスキピオに惹かれる最大の理由は、スペインで暮らしていた人々に対して彼がどうしたか、という点にある。降伏した人々を集めた彼は、女子供のグループ、職人のグループ、男のグループの3つに分けた。女子供は即、帰らせた。男のグループは、年齢、体格とも良好な人を選び出し、ローマ軍船の漕ぎ手として有事のみ働いてもらったらしい。カルタゴ軍が完全に去った後には、彼らも自由に帰宅させると約束をして。 職人のグループはローマの工兵として働いてもらい、もちろん平時は帰宅してもらったという。 誰一人奴隷になることもなく、捕虜としてローマに送られたのは、有力者のみ、だったというから、スペイン現地の人もいたく感激したらしい。 そりゃそうだろう。 カルタゴ軍は力で圧してきたのだから。

 もう一つ、面白いエピソードがある。この街に美しい娘がいて、スキピオの寛大な処置に感動した長老たちが、その娘をスキピオに贈りたいと申し出たという! その時の彼のセリフが たまらない。

 「個人としてならばこれほど嬉しい贈物もないが、戦争続行中の司令官となると、これほど困る贈物もない」 塩野さん曰く、「六十歳が言ったのならともかく、二十代の若者の言葉であったから効果も大きかったのだ」 (218ページ) 全くもって、その通りでして 2000年以上も昔、ローマを生きた若者スキピオに胸キュンな東洋の島にて2016年を生きるおばちゃま~ 古代ローマの旅はしばらく続行予定

 

 

 

 

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7歳の男の子…

2016-06-04 00:13:05 | Weblog

無事に保護されて良かった! 両親に置いていかれ、すでに一週間。明日で捜索は一旦打ち切りというニュースを昨夜、見ていたし、諦めかけていた中、飛び込んできた嬉しいニュース!ここ最近、特に子供に関連するニュースは最悪の事態になってしまうケースが多い中、本当に助かって良かったと心底ほっ男の子の写真がテレビ画面に映し出される度に、どうしても甥っ子が7歳の頃の姿と重なって…小学校2年生の夏休み、福岡へ戻ってきた頃の甥っ子とちょうど同じくらいだったから。大人の私でさえ駅から自宅まで6キロの道を歩けば1時間弱かかるというのに。 大雪の日なんて2時間かかったし…北海道は夜になると、きっと気温も一気に下がるだろうと容易に想像出来る。あの山道を たった一人で… しかも段々日が沈み辺りは暗くなる中、自衛隊の演習場まで辿り着いて… いつもは鍵がかかっている筈の扉が開いたのも幸運、傍に水道の蛇口があったことも幸運かもしれない。でも、電気がなくストーブもオンにしても入れられない中、マットレスを二枚重ねて暖を取るなんてこと! あまり動き回らず体力温存して! 本能でしょうか、あんなに小さな男の子が なんてサバイバル精神! 自衛官に発見された時は戸口付近にいて、しっかり話をしたらしい。「お腹が空いた」と…。おにぎりを手にした写真を見た時、思った… 「あの子、きっと将来、陸上自衛隊員になるわっ!」  偶然とはいえ、男の子を発見し、声をかけ、名前を聞き… おにぎりを手渡した優しい自衛官も、きっと生涯忘れないだろうなぁ.... 

 

父親に置いて行かれた時の恐怖心といったら、きっと子供にしか分からない。このブログのどこかに 「父の背中」というタイトルでショートショートを書いたことがある。随分、昔の記事なのでいったい何処にあるのか不明… 子供の頃の体験談がもとになっている為、他の人が読んでも分からない内容だった気がする。 ただ、この話題は ここまでに…。

 

交流戦が始まった。ホークスの初戦の相手は中日ドラゴンズ。1戦目は甲子園を沸かせた球児、小笠原投手が相手。5回までで降板したが、ベンチへ戻った後の彼は、にっこにこ。なにせホークスは初の対戦相手に弱いため、いやな予感はしていたんだけど、5回、ホークスの打者が とらえ始めたところで谷繁監督はピッチャー交代を告げる…まぁ、相手にとっては当然よね。 結果はホークスの「拾ったような勝ち」で初戦を取る。 2戦目の投手も、これまた初の対戦相手。 でもね…福岡県久留米市出身の凱旋登板。ご両親もドームへ応援にきていたらしい。今季、ホークス初の完封負け ドラゴンズ、相当、気を良くしているだろうなぁ。谷繁監督、「してやったり」だろうなぁ…と。 3戦目は元中日ドラゴンズの中田投手。今季は調子が悪く、相手も元チームメイトの投手とあって、打ち込まれそうだなぁ…と思ったら、1回にホームラン。夜、仕事だったので、試合は全く見ず、3戦目は結果のみ、知ることになる。 勝っていたーっ! 

そして本日、セリーグの首位、広島との対戦。 相手はなんと!黒田投手。こちらは東浜投手。勢いに乗る相手に、どうかなぁ…と思ったら、今宮選手、ギータ(柳田選手)、ウッチ―(内川選手)、マッチ(松田選手)ソロホームランだったらしい。もう一人、城所選手も。 今、ローマ人の物語という長編を読んでいるため、ラジオを聴きつつも、いつの間にか本に夢中になっていて… ハンニバル戦記…目が離せないのよ、それくらい面白いの。 でもホークスも面白いよ、もちろん、気付いたら勝っていた・・・・ホークス。ギータのヒーローインタビューを聞くのと 4冊目を読み終わるのが、ほぼ同時だった

 

ホークスも初戦を取ったことだし、明日のレッスン準備も無事、終わったことだし、安心して湯船に浸かる・・・・なぜか2か月前、体験で来られた利用者さんを思い出した。 利用者さんが私と同世代の娘さん・・・親御さんは私の両親と同じくらい、いやちょっと上かなぁ。これまでご自宅で一緒に暮らしてきた訳だし、出来る限り親御さんも娘と一緒に暮らしたい、と思っていたんだろうな。でも人間だから病に伏せることもある。そうすると娘さんの身の回りの世話も十分でなくなる。そんな時のためのショートステ亻だったり、入所に向けた体験だったり…  これまで何度か体験やショートステ亻経験者だった、その利用者さんとは、日中活動では何度か一緒になったことがある。でも、お互い まだ顔見知り程度で、あの日は たまたま私がグループホームの遅番勤務だった。GHでは入所施設と違い、遅番が夕食の後、入浴支援をすることになっている。 一般家庭でもお風呂は夕食の後、寝る前にゆっくりと…という生活スタイルの人が比較的多いと思うし、その方が自然…よね。 大きな入所施設より、グループホームの方がより家庭的で時間も日没に合わせてゆったりと流れている所がいい。音楽に例えるなら、大型施設は行進曲か剣の舞 グループホームはドボルザークの家路に近い。 その日は土曜日だったので、週末、自宅へ戻る利用者も数名いて、プラス体験者の利用者さん。それでも10名に満たない、7名ほどの利用者さんが順に一人ずつ入浴するため、時間的にも余裕があると判断。 その時の状況からして、体験の利用者さんに時間を割けることにした。 お互い初めての入浴って緊張するものだ。裸の付き合いになるわけだし、いくら女性同士でも…ね。 私は子供の頃、初めて親に連れていかれた美容院で(県外)すごく嫌な思いをしたことがある。それまでは適当に母がハサミでチョキンと切ってくれていたのだが、シャンプーの後のドライヤーが子供の、まだ薄い肌に まともに熱風が当たると、そりゃ~熱くて… 思わず頭をドライヤーから避難させたくて逃げる! しかし美容師は追いかけるように更に近くで熱風を当てに来る、逃げる、の繰り返しだった…最後は頭を片手で押さえつけられた。 何故にあそこまでやられなきゃ~いけなかったのだろう。私も黙ってないで、「熱い!」って叫べばいいものを・・・我慢しなくていいのに。 近くで見ていた親も我が子の異変に気付かなかったのだろうか… 

 

ただ、あの日の美容院初体験が、あとになって随分と自分を助けてくれた気がする。 子供の頃、一旦、高熱が出れば、一週間近く 「完全に治るまで!」風呂禁止。よって頭はまるでヘルメットでもかぶったかのように、ごわごわになったものだった。学校を休んでいたから良かったものの、あのままじゃ外へも出られない。 自分で上手には髪を洗えない利用者さんをヘルプしながら、遠い昔のことを時折、思いだすことがあった。体験利用の時は特に。 体験者本人もだが、何となく家族の方も体調がすぐれない日があったのか・・・ナド。 最後はドライヤー。 夜間スタッフに任せる人もいるけど、もう一人の職員は入浴以外の利用者の見守りと夕食後の後片付けもあるため、私は脱衣場に椅子を置き、ドライヤーもかけていた。 その日は訳あって〈書けず)一人に費やすドライヤー時間の3倍はかけたと思う。 幼児期の自己体験談からドライヤーを当てる距離には人一倍気を遣っているつもりだが(昔から!) この日は何せ初めての相手で、髪の量も多く、恐らくシャンプーは病気か何かが原因で久々だった筈… 必然的にドライヤー時間も長くなる。 一か所に集中させないにせよ、「熱くない?」と顔を覗き込む頻度がいつも以上だった。最初は… 相手の頭と同時にドライヤーを自分の手に当ててはいても、手の皮膚は頭の皮膚より分厚いし… そんな心配も どうやら いらない…みたい…

利用者さんは、静かに目を閉じて、完全に身をゆだねてくれているかのようだった。表情も微笑んでいる。 思わず、「気持ちいい?」と聞く。 目を閉じたまま、「うん」といい、一度、目を開けて私を見た。嬉しそうにほほが緩むと、またすぐ目を閉じる… すっかり緊張がとけて、完全にリラックスし、私を信用してくれている… そう確信した瞬間、自分にとっても至福の時間にかわった。

初めて…は、いつだって緊張する。 相手も、自分も。大人も、子供も。

 

自分にとっての 「他人によるシャンプー初体験」が嬉しく無い思い出であっても…。 あの体験あってこその 与える幸せを得られたのかもしれないなぁ、と思う。 あの7歳の男の子も この先きっと 正しい愛情のかけかたができる大人になっていくと思う。少なくとも自分は、子供に遠ざかっていく自分の背中を見せたことはない…筈。 近くでそっと見守る子育てを実践してきたつもり。 子供って結構、自分がこうなりたいと思う見本のような大人の背中を追って、まねてみて、成長していく術を見に付けている気がするから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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