古稀からの手習い 水彩ブログ

人生の第4コーナー、水彩画で楽しみたいと思います

ワインボトルなどを描きました(教室にて)(ユダヤの行動原理とこれからの日本 ドイツの罪からの解放努力)

2025-02-24 06:59:29 | 静物(彫像・置物・人形など)
先日(2.20)の教室で、ワインボトルなどを描きました。
自分のテーマは何といってもそれぞれの質感。
中でもボトルのテカテカ感とグラスの透明感がポイントのようです。
教室の2時間で、6割がたを描いたと思い、家に持ち帰って手を加え始めました。
やれ光の当て方がおかしい、やれ立体感がおかしいだの、修正すること4 時間以上。
それも、作画の基本的なことばかり・・・年のせい、目のせいをぼやきながらの作業でした。

「補記」に入る前に
ドイツの総選挙は終り、「キリスト教民主・社会同盟」(CDU・CSU)が第1党となり、政権交代は確実なようです。
注目の「ドイツのための選択肢」(AfD)も議席を伸ばし第2党になったようです。
2月14日のバンス・アメリカ副大統領のミュンヘン安全保障会議での演説は圧巻でした。
グローバリストの牙城に、反グローバリストを代表して単身切り込んだ勇姿にみえました。
選挙すら捻じ曲げている今のヨーロッパの政治の異常さを、身近なことを例示しながらつき、しかし格調高いものでした。
言論の自由の大事さを、そして何より国民の声の大事さを訴えていました。
ドイツはもとよりEU全体がこれからどうなるか注目したいです。


【補記】
[ユダヤの行動原理とこれからの日本]
全体の目次:2024.10.28付拙ブログによります
第5章(近代) ショアーなどによるユダヤ民族存亡の危機
第1節 何故ショア―は起きたか
第2節ショア―後の世界はどうなったか
第1款 ユダヤ:イスラエル建国とアメリカの支配

以下今回(目次)
第2款 西ドイツ:罪からの解放努力:政治的な流れ概観
[戦後諸課題への取り組み](アデナウアー首相の時代)
(キリスト教民主同盟(CDU))(1,950年代半ば~60年代半ば)
▲基本法(憲法)の制定
▲驚異的な経済の復興
▲イスラエルへの補償
        ▲西ドイツの主権回復 NATO加盟 連邦軍発足 基本法改正
        ▲西側12か国との補償協定とEC(ヨーロッパ共同体)への加盟
   ▲西ドイツ人によるナチス犯罪の追及と時効の延長
▲「アンネの日記」の大ヒット

[ナチス犯罪についての西ドイツ国民の共同責任論](ドイツ・社会民主党(SPD)政権時代)
(1,960年代末~1,980年代初め)
▲ソ連・東ヨーロッパとの和解(ブラント首相の時代) 
      ▲アメリカ映画「ホロコースト」のショック(シュミット首相の時代) 

[ドイツ再統一後の戦後処理] (コール首相)(CDU)
(1,980年代初め~90年代末)

[EUを主導:グローバリズムの行きつく先](メルケル首相)(CDU)
(2,000年代半ば~2,020年代初)(前回の拙ブログによる)

本章の参考文献など
  
(本論に入ります)

[戦後諸課題への取り組み]
(アデナウアー首相の時代)(キリスト教民主同盟(CDU))(1,950年代半ば~60年代半ば)
WWⅡ後の西ドイツにあってアデナウアー首相抜きには語れない。在任は14年間に及んだ。
彼は、普通の敗戦国が抱える経済復興などのほか、東西への分離状態のもと、
ショア―(ホロコースト)への罪の償いという西ドイツ特有の諸問題を抱えながら難題に向かいあった。
特に罪の償いは、あの罪は自分たちには関係ない、早くあの出来事を忘れたい、という国民の声と、
しかし国としての責任は逃れられないという苦悩の中での諸決断で、
この国民としての苦しみはアデナウアーの後にも長く引き摺り続けた。

▲基本法(憲法)の制定
先ず、なぜ憲法と言わずに「基本法」と呼ぶのか、それは「真の憲法」は統一後を前提にしているからである。
基本法制定に、アデナウアーは首相就任以前から、西ドイツ建国のための「憲法制定会議」の議長としてかかわり、
連合国側(米英仏)との調整を経て1,949年5月に制定される。
アデナウアーは憲法制定後の同年9月、首相に選ばれた。
基本法は、ナチス時代の人権無視への反省に立ち、第1条には
「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ保護することは、すべての国家権力の義務である」と格調高く、人間の尊厳が謳われている。
同じくナチス時代の経験を踏まえて、抵抗権や政治的亡命権を定めるとともに、
かって議会が合法的にヒトラーに全権を委任したことに鑑み、
立法権に対するコントロール機能として連邦憲法裁判所を設立した。
なお基本法は、安保面でみれば、戦後の武装解除により軍備のない状態であり、
制定時の基本法では、侵略戦争準備の禁止、兵役忌避の認容、平和を維持するための連邦の相互的集団安全保障制度への加入促進の規定があったのみである。
西ドイツ軍の保持については触れておらず、軍の再軍備とそれに伴う憲法改正は朝鮮戦争勃発後のことである(後述)。

▲驚異的な経済復興
敗戦後の西ドイツでは、勤勉な国民性のほか、アメリカによるヨーロッパ復興大規模援助マーシャル・プランの効果もあり、伝説的な奇跡の復興を遂げた。
GNP(国民総生産)でみれば、1,936年水準で、1,946年には33%しかなかったが、1,949年には90%までに回復した。
その後1,950年代の経済成長率は年平均8%という記録的な数字であった。
公共施設などの社会資本の一つアウトバーンについても、1,949年時点で既に2,130kmもあり、工業力の水準の高さをうかがわせる。
また、1,954年には戦後初となるサッカーW杯優勝と相まって“自分たちも再び1人前になった”と復古精神にもひたった、と。
このような経済の発展を受けアデナウアーは1,950年代半ばに大規模な年金改革を行った。
これは従来の“積立方式”から、現役世代から徴収し、引継世代の年金を支給する方式で、
これにより、労働者年金、職員年金とも大幅に支給率がアップし、生活が豊かになるとともに、彼の長期政権にもつながった、と。

▲イスラエルへの補償
イスラエルへの補償手続きは、1,951年3月、イスラエルが戦勝国(米英仏ソ)宛て、次のような覚書を送付したことに始まった、と。
その内容は、「ナチス・ドイツ時代のユダヤ人迫害という“不正”によって受けた人命・財産の被害等に対する補償を要求し、
その要求が認められなければドイツの再建を許すべきでない」とするもので、
イスラエルが求める補償額は、西ドイツ10億ドル(当時レートで42億マルク)東ドイツ5億ドルであった、と。(東ドイツは無回答)
その後イスラエルとドイツ両者の間には、世界ユダヤ人会議議長(ゴールドマン氏)が仲介役となり交渉が始まった。
途中、いろいろな経緯があったが、交渉結果、1,952年9月、「ルクセンブルグ補償協定」が締結された。
内容は、西ドイツが35億マルク相当の物質を、12年以内に供給することとされた。
この西ドイツとイスラエルの間の協定を巡っては、当時イスラエルと戦争中だったアラブ諸国が反対し、
西ドイツはアラブ側とも交渉中だったが、こちらは決裂状態のまま、1,953年3月に議会での批准も行われた。
また、補償協定の議定書に求められていた、西ドイツにおける「連邦補償法」も1,956年6月成立した。
ドイツのイスラエルへの補償は1,966年(エアハルト首相時)までに完了した。
▲西ドイツの主権回復 NATO加盟 連邦軍発足 基本法改正
パリ協定(西ドイツの主権回復を中心に締結された一連の協定)により、
1,955年5月、西ドイツは主権を回復、NATO加盟が承認され、同年11月西ドイツ連邦軍(志願制)が発足する。
これらを受け西ドイツは、56年、与野党の協力により「再軍備に関する基本法の改正」がなされた。日本と決定的に違うところである。
この際、軍隊の民主的統制を図るため議会による政府のチェックなどが配慮された。

▲西側12か国との補償協定とEC(ヨーロッパ共同体)への加盟
西ドイツは、イスラエルとの補償協定のほか、1,959年から1,964年の間に、12の西ヨーロッパ諸国との間で、いわゆる「包括的補償協定」を締結した。
こちらもナチスの “不法”に対する補償で、1,956年の連邦補償法に基づき、
ナチスの暴力行為により迫害され、生命、身体、財産などで損害を被った者へ年金等が支給されることとなった。
対象国は、イギリス、フランス、ベルギーなど西ヨーロッパ12か国であった。
これらの措置は、西ドイツとしての、国家としてのナチス・ドイツの過去に対する具体的な結論であり、
この西ドイツの他国への措置が、1,958年のEEC(ヨーロッパ経済共同体)から1,967年のEC(ヨーロッパ共同体)の発展的発足を可能にした。
当面アデナウアーは、西ヨーロッパ内での信頼回復は果たしたことになる。

▲西ドイツ人によるナチス犯罪の追及と時効の延長
自国民によるナチス犯罪の追及の観点からみれば、まずニュルンベルク国際軍事裁判等の検察官の中に西ドイツ人がいたことが挙げられる、と。
この検察官たちは、ナチス体制下で迫害を受けアメリカなどに亡命し、戦後本国に戻り、
検察のサイドから同国人である西ドイツ人を告発した、とのことである。
この西ドイツ人が西ドイツ人を追及した例として、西ドイツ内に設立された「ナチス犯罪追及センター」があると。
本センターは、西ドイツ11州の検察当局が合同で1,958年に設置したもので、
それまで占領国が行っていた追及を西ドイツ人が引き継いだとのことである。
一方アデナウアー政権と社会民主党(SPD)は発足直後から非ナチ化の追放解除の方向に舵をとる。
1,950年に連邦議会で「非ナチ化の終了」を宣言し、重罪者やナチスの積極分子を除いて追放解除した。
これによりナチス協力の廉(かど)で追放されていた公務員も再雇用ができ、
ナチス時代の犯罪を理由として起訴される可能性があった数千人を恩赦し、
公職追放された30万人以上の公務員や軍人に寛大な処置がとられた。またこれにより官僚制度が維持された。
ナチス犯罪者の追及における「時効」の問題は、いかにも当時の西ドイツの迷いを象徴しているようにみえる。
ナチス犯罪者(殺人犯罪 暴力犯罪)の時効は本来“20年”とされてきていたが、3回にわたって延長などの措置がとられた。
1,965年には、時効の起算年を西ドイツ成立の1,949年におき、4年延長、
1,969年には、時効を20年から30年にと、10年も延長し、
1,979年には、「時効廃止」の最終結論を出した、と。後述するシュミット政権(SPD)のときである。

▲「アンネの日記」の大ヒット
1,959年、「アンネの日記」がハリウッドで映画化、全世界へ。(47年オランダ語原本、52年同英語版、54年ブロードウェイ初演)
西ドイツ世論へ大きな影響を与えただけでなく、世界への発信効果は絶大なものがあった。
ただ、アメリカナイズされる過程で、後述するテレビ映画「ホロコースト」と比べ、
ユダヤ人へのドイツのホロコーストという歴史的惨劇の脈略よりも、人類の“善”を信じる“普遍主義化”したものになった、と。

[ナチス犯罪についての西ドイツ国民の共同責任論](ドイツ・社会民主党(SPD)政権時代)(1,960年代末~1,980年代初め)

▲ソ連・東ヨーロッパとの和解(ブラント首相の時代) (1,960年代末)
前述アデナウアーの西ヨーロッパとの和解に続いて、東ヨーロッパとの和解を進めたのはブラント政権(SPD)である。
ヒトラーへの抵抗運動に参加し、ノルウェーに亡命した経験をもつブラント首相はCDU指導者たちとは違った立場からいわゆる「東方政策」を推進した。
1,970年8月にモスクワ訪問、ブレジネフ政権との間にモスクワ条約が、
1,970年12月にはポーランド政府との間にワルシャワ条約が署名された。
ワルシャワ訪問時、ユダヤ人ゲットーでの蜂起の記念碑に花輪を捧げたブラント首相は、
雨上がりで濡れたコンクリート地面に突如として跪(ひざまず)いて黙祷を捧げた。予定外の行動であった、と。
翌1,971年、同首相はノーベル平和賞を受賞するが、野党であるCDUなどの大反対もあり、批准は72年4月まで延びた。

▲アメリカ映画「ホロコースト」のショック(シュミット首相の時代)(1,970年代末)
テレビ映画「ホロコースト」(4回シリーズ)は、アメリカテレビ会社NBCが製作、1,978年4月アメリカで放映、
その後ベルギー、イギリス、イスラエルなどでも放映後、1,979年1月西ドイツで放映された。
話題作とあって、西ドイツでも高視聴率となり、成人の半分以上が視聴した、と。
放映の是非についての議論は政界まで及んだが、当時の政権与党・社会民主党(SPD)シェール政権は放映に前向きな姿勢を示したと。
主役はポーランド出身でベルリンで開業医だったユダヤ人家族。最終的にはアウシュビッツに消える家長夫妻。
一方のドイツ人家族の家長は、上のユダヤ人医師にかかりつけだったが、ナチスのSS(親衛隊)で働き始め、
やがてガス殺の方策を考案する等のユダヤ人絶滅計画の責任者として出世(?)する。(最期は敗戦後アメリカ軍の取り調べ中に自殺)
この物語は、主役のユダヤ人家族を、
日常的なポグロム、安楽死、強制移住、ゲットー生活、大量射殺、強制収容所でのガス殺と焼却に至る
“ユダヤ人絶滅政策の過程”を物語でつなげ、
視聴者に“出来事全体の規模”が空前のものであったことを伝えた。
その中にはほとんど伝えられていなかったユダヤ人の抵抗運動などの能動的な面も伝えられた。
ドイツ人の視聴者たちも、この主役であるユダヤ人に感情移入し、自己同一化し、自分たちが犯した罪を知ることになった、と。
前述の「アンネの日記」も主役への自己同一化はあったが、物語の舞台は強制収容所やゲットーではなく、そこから逃れるための隠れ家であった、と。
結果、このドラマを観たあとの西ドイツ人相手の世論調査では、
①ナチス時代に成人していた全てのドイツ人が当時のことに共同責任を負う ②ナチス犯罪者は時効成立の1,979年以後も追及されるべき 
③ドイツはナチ犯罪被害者に補償を行う道義的義務がある などに賛同する者が格段に増えた、と。
前述1,979年の時効の廃止にも大きな影響を与えた。
この映画以降は、“忘れられた犠牲者”として、シンティとロマ(いわゆるジプシー)の人々やナチス医学の犠牲者などが拡がった、と。
この流れが集約されたのが、ややあって、戦後40年目の1,985年5月のヴァイツゼッカー大統領演説とされる。
この「荒れ野の40年」と題される演説で大統領は、
諸々の犯罪行為はヒトラーはじめ少数者が犯したこととしながらも、
「多くのドイツ人もそれらの犯罪行為を、見聞きできたにも拘わらず、知っても良心を麻痺させ、自分の権限外だと目を背け沈黙した」とし、
「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者はまた、そうした危険に陥りやすい」と述べた、と。

もっとも、この演説直後の1,986年から翌年にかけて、「歴史家論争」とよばれる新たな局面もあった、と。
西ドイツの代表的な歴史家たちの間で起こった論争で、ナチスの虐殺犯罪を、その先行者はボルシェビキである、とするもので、
共産主義の階級虐殺という先例を示し“罪の相対化”を図ろうとしたものであった。当時西ドイツ国民の中にあった“もういい加減にしてもらいたい”という本音部分がみえた、と。
この論争は“相対化側”に不利な結果となり、“絶対的な非人道行為”として認めることが確認され、公式なものとして固定化された。

[ドイツ再統一後の戦後処理] (コール首相)(CDU)(1,980年代初め~90年代末)
冷戦終結やEUの発足などの政治的に大きな動きには、いわゆる国際金融資本の動きがあるが、今回ここでは触れません。
またコール首相についても、このドイツ再統一などの表立ったことは、今回ここでは触れず、拙論の主題である戦後処理に絞って記述します。

コール首相は、統一前の西ドイツ首相時代、戦後40周年の1,985年、先述したヴァイツゼッカー大統領演説の3日前に
「ビットブルグ(地名)事件」という事件を起こし一大センセーションを巻き起こしていた、と。
それは40周年を記念してアメリカ・レーガン大統領が西ドイツを訪問、コール首相と共にビットブルク軍人墓地を訪問したが、
そこには西ドイツ国防軍の兵士のほかに、ナチ党の武装親衛隊の兵士も埋葬されていたことが問題となった。
この首相のこの強行訪問に関し、西ドイツ国外からは激しい批判を浴びたが、国内では、過去を清算したいとする世論の、少なからぬ支持を得ていた。
コール首相はこのような考えの中心人物の1人であったとされ、彼の立ち位置がわかる。
1,990年、コールが再統一ドイツ初代の首相に就任する。
東西分裂というドイツ問題は解消されたが、東西ドイツそれぞれが抱え、残されていた“過去の克服”というテーマは統一ドイツとして取り組むこととなった。
統一後、それまで凍結されていた賠償問題などが一気に浮上してきた、と。
具体的には、ポーランド人に対する迫害や旧ソ連人や他のスラブ系に対する迫害、特に戦争捕虜や強制労働に対する賠償が争点化した。
先述した連邦補償法では、彼らの受けた損害は、一般に戦争行為による損害として“賠償”による解決の対象とされ、“補償”の対象とはならなかったからである。
これに対し統一ドイツは、賠償という形でもなく、国内の補償という形でもなく、従来のイスラエルや西ヨーロッパ諸国との一括包括補償協定のように、
国家間の補償協定という形等で対処していった、と。
国ごと個別に「和解基金」を設け、ドイツ側が強制労働者などに対する補償のための和解金を出すとともに相手方は補償の請求権を放棄する、とするものであった。
あくまで法的な義務でなく人道的な配慮からとされ、強制労働に対する企業の法的責任も一切問われなかった、と。

[EUを主導:グローバリズムの行きつく先](メルケル首相)(CDU)(2,000年代半ば~2,020年代初)
趣意は前回の拙ブログによりますので省略します。

本章における主要な参考文献など

「ユダヤ人の歴史(下巻)」(ポール・ジョンソン著)徳間書店
「ユダヤ人とユダヤ教」(市川 裕著)岩波書店
「戦後日本を狂わせたOSS・日本計画」(田中英道著)展転社
「アメリカ・ユダヤ人の経済力」(佐藤唯行著)PHP新書
「ドイツの失敗に学べ」(川口マーン惠美著)WAC
「左翼リベラルに破壊され続けるアメリカの現実」(やまたつ著)徳間書店
「ホロコーストと戦後ドイツ」(高橋秀寿著)岩波書店
「戦後ドイツ━その知的歴史━」(三島憲一著)岩波書店
「ビルダーバーグ倶楽部(復刻版)」(ダニエル・エスチューリン著)ヒカルランド
「世界を牛耳る洗脳機関 タヴィストック研究所」(ダニエル・エスチューリン著 河添恵子解説)経営科学出版
「2,021年 世界の真実」(馬淵睦夫著)WAC
ネット関連
「無敵の太陽」(黒木頼景氏)(ライブドア―ブログ)様
「戦後ドイツとナチズムの『過去の克服』」(佐藤健生氏)様
「外交史料館所蔵資料に見るドイツ戦後賠償の形成過程」外務省
「戦後ドイツにおける戦争の記憶と現在」(熊野直樹氏)様
上記著者のYoutube関連

ユダヤ関連の【補記】はしばらく(1ヵ月ほど)お休みをいただきます。ブログはそのまま続けます。





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2 コメント

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Unknown (サガミの介)
2025-02-24 08:30:06
 作図のテーマ「質感」と認識します、ボトルのテカテカ感とグラスの透明感、夫々の質感出てますね。
でも、私は美味しそうなリンゴとみかんもいいなと思いました、自由に描き分けて楽しそう!
 補記で解説されたドイツの戦後史、ユダヤ民族虐殺との極めて重いテーマ、我が国の戦後史とは質を異にする苦悩が理解できました。
 歴史には長い間に培われた民族や宗教、利害や国民性の違いなどにより諍い、恨み、誇りなどが存在するのは当然ですが、ホロコーストやスターリンの虐殺など日本人には理解できない事象です。
 戦争責任、犠牲に対する贖罪、諸悪は分析・理解し反省は必須ですが、孫・ひ孫その後の子孫にまでその責任を贖罪させ続けるのは必要ないしやめたほうがいいと思います。
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Unknown (mori)
2025-02-24 07:49:46
 色合い、形、個々の立体感等々見事に描かれていると思います。仰る通りボトルのテカテカ感とグラスの透明感始め、果物・電灯の立体感もバッチリですね。それにバックの微妙な色合いの変化により主役を更に引き立たせているのには感心しました。
 ドイツの戦後ですが、ホロコーストの遺産を負いながら複雑な周辺国(途中まで東西分離)と接していつつ、戦後の国民生活の復活、ホロコーストへの被害者に対する補償、東西分離の解消、憲法の制定、EUへの加盟等々どれも日本の立場で考えて役に立つ事ばかりだと思います。
 日本よりも置かれている立場が厳しいだけにそれを乗り越える力が大きくなったのかな~とも思いますが、やはり日本の事なかれ主義的な部分に残念ながら物足りなさを感じます。これらを参考に今後の日本が極東の凛とした国になることを願って止みません。
 
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