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先日の教室(1.30)で、節分に因んだ鬼などのお面のうち、私はひょっとこお面を描かせていただきました。
何といっても“顔の面白さ”を描きたいのですが、私なりのポイントは二つ。
一つは、突き出した口をはじめとする顔のデコボコ感。
左右非対称で、どこが出てどこが引っ込んでいるか、観察しながら、そこを誇張しての作業。
二つは、やはり目。お面だから空いているのかもしれませんが、
それでも普通の人の目と違い、ちょいと“おトボケな目”といたしたく・・・これはこれで、結構むずかしく。
【補記]
[ユダヤの行動原理とこれからの日本]
を続けております
全体の目次:2024.10.28付拙ブログによります
第5章(近代) ショアーなどによるユダヤ民族存亡の危機
[ショア―とホロコースト]
第1節 何故ショアーは起きたのか
・・・以下、今回・・・
第2節 ショア―後の世界はどうなったか
第1款 ユダヤ:イスラエル建国とアメリカ支配
[二つのメシア論]
[イスラエル建国]
[アメリカ支配]
[フランクフルト学派]
[二つのメシア論]
[イスラエル建国]
[アメリカ支配]
[フランクフルト学派]
・・・以下、次回以降・・・
第2款 ドイツ:罪からの解放努力
[政治的な流れ概観]
[映画・イベントなど]
[政治的な流れ概観]
[映画・イベントなど]
本章における主要参考文献など
本論に入ります
第2節 ショア―後の世界はどうなったか
第1款 ユダヤ:イスラエル建国とアメリカ支配
[二つのメシア論]
拙ブログのため、にわか勉強で何冊かの本を読みました。
その中で、驚いたというか、新たな視点を教えられたことは一杯ありますが、今回述べます次の二つも印象に残ったことです。
一つは、ポール・ジョンソン氏の、ショア―は「受難を通じての救済」とする神の摂理についてであり、
他の一つは、市川 裕氏の、世界市民主義と民族主義の流れを汲む「二つのメシア論」(前者の代表が在アメリカのユダヤ人、後者がイスラエル)についてです。
先ずは「受難を通じての救済」についてです。
ポール・ジョンソン氏は次のように述べています。
「・・・ユダヤ人600万人の殺戮がなければ、イスラエルの建国はなかった。
それは受難を通じての救済という古代から途絶えることなくユダヤ人の歴史に繰り返し現れる力強い主題と一致するものである。
何万人という敬虔なユダヤ人たちが、信仰を告白する歌をうたいながら、ガス室へ向かって追い立てられて行った。
ユダヤ人が受ける懲罰は神の御業である。そのこと自体、神がユダヤ人を選んだ証拠だ。
ヒトラーや親衛隊は、そのための手先にしか過ぎない。神は単にユダヤ人に怒りをぶっつけたのではない。
神もまた悲しまれ、ともに涙されたのである。神は彼らと一緒にガス室へ入って行かれた。
彼らはこのように信じ、これがショア―の原因と結果についての宗教的哲学的な記述である」と(ポール・ジョンソンの引用終わり)。
ショア―のような苦難でも、これを神の意とする、その宗教の持つ強さやユダヤ人の凄さを感じずにはおられません。
そして市川 裕氏が述べておられる「二つのメシア論」についてです。
近代の国民国家を建設したユダヤ社会では二つの相対立するメシア論に希望を見出した、と。
一つは普遍主義的メシア論で、ユダヤ人に対等の人間として市民権を付与した流れ、いわゆる「世界市民主義」に理想を見出す思想である。
主にアメリカに住むユダヤ人が対象で、フランス革命における自由平等や人権擁護など人類の普遍的救済を目的とする思想がユダヤ人にもその恩恵が及んだ。
この普遍主義的メシア論からすれば、ユダヤ人が祖国をもたずに世界中に離散している状態は、決して悲観的・否定的に見られるべきではない。
ユダヤ人は、自身の利己的な利害に固執することなく、“世界市民として、人類全体の進歩と繁栄に貢献”するよう使命が与えられているからである。
これこそが聖書の預言者の説く理念であり、ユダヤ人は正義と慈愛で人々を導く模範でなければならない、と。
そしてもう一つは「民族固有の国家」をもつべきとする個別主義的メシア論である。
古代イスラエルからの課題であるが、これが19世紀末から「シオニズム」として思想上も政治運動上も盛り上がる。
シオニズムを掲げた人びとは、自分たちの民族国家を造ることは、どの国家にも与えられた自然権である、とし、
地上の一定の土地に、ヘブライ語という共通言語をもち、防衛力を備え、経済的に自立した民族国家を建設するという理念の実現に向かって邁進した。
自然権だとすれば、個別主義的メシア論も、ユダヤ人のみの個別的な救済でなく、普遍的な救済を目指さねばならない。
そこで「共存」という価値が重要な要素として浮上してくることになった、と市川氏は説かれる。
筆者としては、後者のメシア論は当然だとして、前者までも結びつけたご所論は新鮮に映りました。
[イスラエル建国]
(以下本項、主に茂木 誠氏のyoutubeでの解説によらせていただきます。)
イスラエル国家の成立は、単にシオニズムだけでは成就せず、そこには
①イギリスの中東政策 ②シオニズム運動 ③左二つを繋ぐロスチャイルド家 があったとされます。
なかでもイギリスの中東政策が大きく、産業革命に成功し、世界 №1の工業国になった当時のイギリスは、
自国製品を英領・インドへ運搬するためには、紅海ルートとペルシャ湾ルートの自由を確保する必要があった。
双方とも、そのルート上にいる当時のオスマン帝国が邪魔であった。
紅海ルートは、ロスチャイルドの資金援助を得ながらエジプトから“スエズ運河”を買い取りフランスとの共同管理にする。
一方ペルシャ湾ルートでは、イギリスが企んでいた中東分割に、当時起こっていたシオニズム運動に乗っからせ、
“パレスチナ地域”を傀儡政権にすれば、このルートも確保できると、した。
イギリスはWWⅠ間、オスマン帝国内のアラブの王族たちを利用し独立運動を支援する。
アラブのハーシム家の王子兄弟をそれぞれ王に就かせたヨルダンとイラクに石油が出るようになり、その採掘権をイギリスがもち、
サウード家が半島南部を統一してできたサウジアラビアの石油はアメリカ・ロックフェラー家が携わることとなり、
残った地域・パレスチナにユダヤ人を、という流れになった、と。
そこで「バルフォア宣言」、イギリス外相バルフォアからロスチャイルド卿へ宛てた手紙で、
イギリス政府はユダヤの郷土(ナショナル・ホーム)を建設することに賛同し、この目標達成に最善の努力をする旨を約束。
これにより、シオニズム運動は活発になり、アメリカへ行けなくなった東欧系ユダヤ人や、WWⅠ後のドイツからのユダヤ人もパレスチナへ帰還した。
やがてパレスチナには世界各地の企業家などからの巨額なマネーが入り土地の買い占めなどで諍いが続いた。
WWⅡ後、国連で「パレスチナ分割決議案」が討議され、
アラブ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域(エルサレム周辺)に分割するもので、
双方に不満が残ったが国連総会では最後にアメリカの賛成で2/3以上となり可決された、と。
この国連総会決議から、新生イスラエルとアメリカの付き合いが始まることになる。
[アメリカ支配]
前述のメシア論からみれば、ユダヤ人による“アメリカ支配”と表現は異論もあるでしょうが、この側面があるのもまた事実で、お許しいただきたく。
また、今のアメリカにはユダヤの力が至る所に入っているが、拙論では彼らユダヤの人たちがアメリカに関わり始めた頃に焦点を当てて記したいと思います。
15世紀末、アメリカに渡った「コロンブス」はユダヤ系スペイン人の家族の出であった(ポール・ジョンソン氏)と思われ、アメリカへの出航直前に洗礼を受けた、と。
著名なところでは彼らの時代からユダヤとアメリカの関係は始まったと思われます。
オランダは、17世紀前半、国際金融の中心として栄えていたが、それを支えていたのは「スファラディ」(イベリア半島に居たユダヤ人)だった。
ニューヨーク(NY)はイギリスに占領される前は、そのオランダの植民地で「ニューアムステルダム」と呼ばれていた(1,626年頃)。
毛皮貿易の拠点としてマンハッタン島南部を先住民から買い取り、港と砦を建築し、そこに“スファラディ達”が移住してきていた。
17世紀後半の英蘭戦争のとき、オランダはマンハッタン島を横断する“城壁”を築く。
3次にわたる本戦争に勝利したイギリスは、ニューアムステルダムを英領「ニューヨーク」と改名する。
城壁は撤去され道路となり、名前だけ残って「壁」(ウォール)街となる。
ユダヤ人たちはそのままNYに残り、新しくできたウォール街沿いに銀行や証券会社を立ち上げ、
アメリカにおける「ユダヤ人共同体」が始まった(1654年頃から)、と。
以下、アシュケナージ(西欧・東欧・ロシア経由のユダヤ人)の活躍については主に「アメリカ・ユダヤ人の経済力」(佐藤唯行著)から引用させていただきます。
19世紀半ばに、ドイツ統一の混乱の中、アシュケナージのうち、「ドイツ系ユダヤ人」のアメリカ進出が急増した。
当時のアメリカは、主要産業、すなわち、重工業(鉄鋼、造船)自動車製造、鉄道、化学、エネルギーなどをWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)が支配するなか、
彼らドイツ系ユダヤ人はアメリカで、主に「投資銀行」と「百貨店」、「新聞」の分野で活動し始めた、と。
当時の銀行の内、商業銀行はWASPの支配下だったが、「投資銀行」はドイツ系ユダヤ人が勢力を伸ばし、
クーン・ローブ社を筆頭に、リーマン・ブラザース社、ゴールドマン・サックス社など10数行が綺羅星のように名を連ねていた、と。
彼らは、南北戦争を挟んで金融業に参入し、ヨーロッパ各地のコネクションを武器に、国際的な資本移動の仲介役として活躍した。
鉄道業を中心とした当時のアメリカ国内の企業活動に対する国際的資金調達が活動の場となった。
そのほかこの時期にドイツ系ユダヤ移民たちが、投資銀行に次いで活動したのが「百貨店」業界であったとのこと。
当時のアメリカでの消費を美徳とする大量消費社会の波に乗って多大な成功を収め、
アメリカを代表する一流百貨店の多くが、この時代に起源をもつとのことである。
この時期、ドイツ系ユダヤ人が進出した分野に「新聞」もあると。
アメリカ社会の主流への同化を強く望んだドイツ系ユダヤ人にとり、普遍性を追求するジャーナリズムの世界は恰好の活躍場所であった、と。
古くから、アメリカ国内では「ユダヤ人の新聞支配」が語り継がれているが、それには次の二つの事実がある、と。
一つは全米で最も世論に影響力をもつとされる「ニューヨーク・タイムズ」が、
1,896年にドイツ系ユダヤ人、アドルフ・オックス(1,858年~1,935年)により買収され、その後も同族登用の牙城となったこと。
二つ目は1,980年代において熾烈な読者獲得競争のなか、
イエロー・ジャーナリズム(部数をのばすため事実報道よりも扇情的な記事を売りものに)の手法を駆使して、
今日の大衆紙といわれるその原型を築き上げたジョセフ・ピューリッツアー(1,847年~1,911年)が、
ユダヤ人の両親を持つ出自であったことである、と。
なお彼は、コロンビア大卒で同大ジャーナリズム大学院を設立、没後、ピューリッツアー賞が創設された。
ただ、この19世紀後半時点で新聞の発行部数でみれば、ユダヤ人社主の日刊新聞では非ユダヤ系新聞に及ばなかった、と。
20世紀前半には、ドイツからのユダヤ人にやや遅れて移住してきた「東欧系ユダヤ人」も力を発揮し始める。
ただ、このスタート時点は不利な状態からで、既存の主要産業へは一つも進出することができなかった、と。
このような状況のなか、東欧系が足がかりを築いた未成熟産業の二つの部門、「映画産業」と「ラジオ放送」が主要産業へと急成長を遂げた、と。
「映画」については、アメリカにおける映画産業の草創期、1,890年代中頃においては、労働者層が観客の主対象だったが、
その産業が芽生えた直後から目覚ましい成長を開始した、と。
その訳は、当時アメリカの大都市人口の2/3を占めていた莫大な数の移民たちが、映画を強く支持し始めたからだ、と。
当時の映画の、言葉がわからずとも映像だけで楽しめる、低料金、気取らぬくつろいだ雰囲気などのため、とされる。
彼ら東欧系ユダヤ人らは、映画館主(小売)として出発した小経営者が、これに成功すると、
次に配給業(卸売)へと進出し、さらに映画製作(製造)そのものへと事業展開を遂げ、
最終的に、制作、配給、興行という映画産業の全分野を包括的に支配する存在、すなわち、「メジャー」へと成長していった、と。
主な観客対象だった移民たちにとっては、映画に自然に出てくる様々なシーンそのものが、これからアメリカ人として生きていく上での勉強の場でもあったと。
更には、観客と製作者、同じ移民同士ならではのものもあったであろう、と。
20世紀前半、「ラジオ放送」も東欧系ユダヤ人が創業に関わる。
1,924年に、アメリカ史上最初の全国ネットのラジオ放送系列・NBCが誕生するが、
同社は白ロシアのユダヤ人、デービッド・サーノフが経営を掌握し始めていた。
サーノフは、1,900年に渡米、新聞売り子や電信会社に給仕として就職、そこで独学で無線通信技術を習得した。
1,912年4月のタイタニック号が発した救難信号を最初に傍受し、三日三晩不眠不休で交信を続けたとして世間の注目を浴びた、と。
その後彼は、アメリカを代表する電気メーカーのRCAに入り、同社は1,939年に全米で最初のテレビによる定時放送を開始する。
一方、1,927年には、をウクライナ系ユダヤ移民の2世、ウィリアム・ペイリ-が小さなラジオ局を買収、
この局が、後に同じく三大ラジオ放送系列のひとつCBCとして発展していく。
時間を少々巻き戻して、ユダヤを代表する「ロスチャイルド家」のアメリカ進出のスタート時点はどうだったか、を観てみます。
ロンドン家初代 ネイサン(活動時期1,820~1,836年)のとき既に「アメリカ中央銀行の支配権」確保に食指を動かしている。
動かしたどころか一大拠点となる寸前のところで時の大統領により中断させられていた。
アメリカの通貨ドルは、後述するように1,913年、連邦準備制度としてロスチャイルド家主導での民間銀行が発行などするようになるが、
その前哨戦がネイサンの時代に既に起きていたとのことである。
そしてロンドン家第2代 ライオネル(活動時期1,836年~1,879年)の時代に、「代理人」という別の名前を冠した支点をもってアメリカへの進出を始める。
「代理人ベルモント」は、アメリカのロスチャイルド家の繁栄を語るうえで欠かせない人物で、ロンドン家とパリ家の双方に当時のアメリカ情報を届けるとともに、
十分な現金不足に悩んでいたアメリカ政府にも国債をロスチャイルド家が引き受けるなどした。
ロスチャイルド家からしたら、代理人を通じて合衆国政府の足元を押さえていたことになる、と。
1,913.12、WWⅠ開戦前にアメリカに「連邦準備制度」が創設された。
この民間への通貨発行権を許した時の大統領は、民主党ウィルソン、
主導したのはいずれもロスチャイルド家系列のポール・ウォーバーグ、マンデル・ハウス大佐らとされる。
この創設には、同年創立したばかりのロックフェラー財団も加わった。
アメリカの通貨ドルの発行権などを、アメリカ政府ではなくロスチャイルド家等系列の英米の民間銀行が持つこととなった。
事実上ロスチャイルド家等によるアメリカ支配が始まったことになる。
ほぼ同じころのロシア革命もユダヤ主導でなされており、この時点でロシアとアメリカの二つの大国を支配していたことになる。
1,933年には初の「ユダヤ系アメリカ大統領」が誕生する。
米国32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1882~1945年)のルーツはオランダのユダヤ系である。
先にデイズレーリ(ユダヤ人 キリスト教への改宗者)が、ユダヤ人として初めてイギリス首相になった(1,868年)のに次いでのこととなる。
それまでユダヤ人は、自分たちは表舞台には立たず、王などの補佐役に徹してが、政治の表舞台にも登場したことになる。
それまでユダヤ人は、自分たちは表舞台には立たず、王などの補佐役に徹してが、政治の表舞台にも登場したことになる。
ルーズベルトは、ユダヤ系として初めて大統領に当選したとき、ユダヤ人の同胞たちは「モーゼの再来」として喜んだとされる。
同大統領の任期は、1933~1945年、37期から40期(半ば)の4期連続。
チャーチルやスターリンと組み、日・独などを追い詰め、挑発し、先に手を出さざるを得ない様にしむけ、
自国アメリカの参戦を果たし、戦時大統領として自らは大統領職の歴代最長(12年39日)を記録している。
その後もアメリカの大統領選挙ではユダヤ勢力が大きな影響を与えて続けている。
[フランクフルト学派]
この「フランクフルト学派」、聞いたことや見たことはあるが、何やら分かりにくく、しかも謎めいた響きを感じていました。
今回、ほんのうわべだけでしょうが素人なりに調べてみた、その一端を記したいと思います。
どうやら、旧マルクス主義がねらった「労働者階級の変革」ではなく、人口の多数を占める「中産階級の変革」を目指している思想で、
国などの“文化そのもの”を壊すことを戦いの中心と考えている、と。
そしてこの学派の思想が、学界、ジャーナリズムを軸にして今の現代を世論の上でリードしているようです。
その源流は、1,923年、ドイツ・フランクフルト大学でマルクス主義者ルカーチ(1,885年~1,971年)らが設立したマルクス研究所から始まった、と。
どうやら、マルクスもユダヤ王・ロスチャイルド家の血を引き、フランクフルトはそのロスチャイルド家の出身地、彼らの中心地のようです。
もともとがマルクス主義の牙城にしようとしたもので、それがドイツ社会研究所となり、
ナチの政権下、この学派の社会学者や歴史学者のユダヤ人は、追われてアメリカに亡命する。
アメリカでは、活動拠点となったコロンビア大学の援助を受け「フランクフルト学派」を設立した。
アメリカでは政治的な意味での共産主義は根付かなかったが、
このフランクフルト学派の思想が政府内部や、学界、教育界、ジャーナリズムなどに入り込み活動した。
なかでも、WWⅡ戦時下のアメリカの「OSS」(Office of Strategic Service戦略情報局)と当学派の関係は注目される。
当時の大統領・ルーズベルトは1,942年OSSを設立、対ドイツ(ナチ)戦、対日戦の主に情報戦、心理戦などの諜報活動をさせることとした。
OSSのメンバーは全米の大学や研究機関から集められ、その中に亡命して活動を始めたフランクフルト学派の者達が参画、中核的な役割を果たした。
OSSでは、戦時をどう戦うかということだけでなく、戦後(彼らの勝利を前提)をどう統治するか(例えば、日本の天皇制など)をも決めた、とされる。
集められた同学派のメンバーは、
対ドイツ戦では、マルクーゼ、ノイマン、ホルクハイマーなど、後にフランクフルト学派の学者グループの中核になる錚々たる者たちである。
また対日戦では、ラティモア、エマーソンなどアメリカの日系共産党員や東洋学者を登用した、と。
ライシャワーやドナルド・キーンなどの戦後の日本学者もその中で育てられた。
ユダヤ人としてNY生まれのチャールス・ケーディスも、ハーバード大学学生時代にフランクフルト学派に接していた。
OSSでのフランクフルト学派の考えはGHQにも引き継がれ、ケーディスによる日本国憲法の起草はじめ、戦後の日本の最も基本的なところで大きな影響を与え続けている。
WWⅡ後、研究所の関係者の多くは西ドイツに帰国、
ホルクハイマーとアドルノがフランクフルト大学で社会研究所を再興し、再びドイツが活動の中心となったが、
マルクーゼなど一部の学者はアメリカに残り活動を続けた。
世界的にも有名な、フランス・パリの大学の “五月革命”の指導者はドイツ人学生だったとのこと。
本家本元ドイツ・フランクフルト大学では、これも学派の重鎮アドルノが批判の対象になった。
一方、戦後もアメリカに残ったマルクーゼは、当時の全米各地のアメリカ大学での反戦平和運動など “新左翼の教祖”というポジションで広く受け入れられた、と。
同時期におきた日本での学生運動においても、マルクーゼの著作は広く読まれた、と。
学派が出来てからほぼ100年経った現在も、第3世代、第4世代の学者たちが既存の文化を否定し壊す活動を続けている。
さてさて分かりにくかった、肝心の「思想」はいかなるものか。
この学派の設立当初の40年代、50年代時点で、ホルクハイマー、アドルノ、ややあって60年代ハーバマス、マルクーゼらそれぞれの学者毎に強調した視点があるが、
総じてみれば次のように言えそうである。
それは、旧マルキストは“敵は資本主義”としたが、新生マルキストにとっての“敵は(中産階級が担う)西洋文化”とし、
権力掌握の手段も、新生マルキストたちは、暴力ではなく長期戦になるとした。
内堀である“文化”を支配(西洋人がキリスト教を捨て去る)すれば、外堀である“国家”は労せず崩壊するとし、
そのためには、まずは社会のもろもろを批判することから始める「批判理論」なるものを展開した。
その批判の対象は、狭義には、例えば人種や性差など“差別”に発するものがあるが、
批判の対象は“文化”であることから、留まるところをしらず、
キリスト教、資本主義、権威、家族、家父長制、階級制、道徳、伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、相続、自民族中心主義、因習・・・とにかくすべてである、と。
また批判に際しては “過去との断絶”を説き、あるのは“未来”だけであるが、その未来もどんな姿かは分からず、 “とにかく今あるを壊せ”だけにみえます。
人間も社会も、現在は過去の上にあるのであって、その中には人類にとって崇高なるものが一杯あることも揺るがない事実である、と「批判理論」を批判する者も数多おられるようです。
宗教は人の心を豊かにして苦難を救い幸せにするものと思っている自分にとっては、「受難を通じての救済」の部分はある程度納得しますが、宗教による戦いとか、他民族等の統治になってくると何のための宗教かと疑問を待たざるを得ません。
しかし、現実は後者です。残念で仕方ありませんが、これに立ち向かわざるを得ないでしょう。
同じユダヤ系でも、西欧系からとアジア系からの進出手段の違いを始めて知りました。
更にWWⅡ時の大統領その後の日本に影響を与えたGHQにユダヤの存在があったのもいい勉強になりました。多分WGIPにも関わっていたことでしょう。どれだけ日本の良き伝統が壊されたかと思うと何とも言えない悔しさがあります。
ユダヤの行動原理解説で歴史的事実を学ばせてもらっていますが、今回の解説にある新左翼の教祖マルクーゼの「すべての過去の破壊」から生まれた極端なジェンダーフリー、ポリコレ、人種・性別・家族制度の破壊等々が日本にも押し寄せています。
ポリコレによる言葉狩り、「LGBT」や「選択的夫婦別姓」など日本の誇る歴史や戸籍制度を破壊するかのような潮流に押し流されています。
一部天才的(狂気)なユダヤ人の価値観を押し付けられない日本人の精神を持ち続けたいです。