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先日(1.16)の教室で、子熊の置物を描かせていただきました。私なりのテーマは三つです。
一つは、子熊の可愛らしさ。やはり目の表現には神経を使いました。
二つは子熊やボールの白(白っぽさ)をどう出すか。
これは、周りを暗くする・・・周りから攻める・・・いつものやり方で行いました。
三つ目は、正面やや左上・広域からの光として、モチーフそれぞれの材質に応じた光の当たり方です。
とくに模様入りの白いボール(ゴムか革)の立体感をどう出すか、これが水彩画では結構むずかしく、
最終的には修正可能なやや厚めの水彩紙を使い、これに潤筆、渇筆さらには指先まで使っての運筆など、苦労しながらの作業でした。
恥ずかしながら、下描きも入れて3枚目の作品であります。
【補記]
[ユダヤの行動原理とこれからの日本]
を続けております
第5章(近代) ショアーなどによるユダヤ民族存亡の危機
[ショア―とホロコースト]
第1節 何故ショアーは起きたのか
[悲劇の流れ]
[WWⅠ後のドイツの屈辱的敗戦と過酷な賠償金]
[ドイツにもともとあったゲルマン人優位論]
・・・以下、今回・・・
[ヒトラーという人物の登場]
[大衆洗脳の心理学 フロイト及びタヴィストック研究所]
[余話:近衛文麿の野望]
・・・以下、次回以降・・・
第2節 ショア―後の世界はどうなったか
第1款 ユダヤ:イスラエル建国とアメリカ支配
第2款 ドイツ:罪からの解放努力
本章における主要参考文献など
本論に入ります
[ヒトラーという人物の登場]
ポール・ジョンソン氏(「ユダヤ人の歴史下巻」著者)によれば、
ドイツがユダヤ人に対してとった敵対行動の根底には、ヒトラー個人の執着と信じがたいほどの強い意志力がある、と。
ヒトラーなくしてユダヤ人に対する迫害はなかった、といえる。
ヒトラーは“わが闘争”で、ユダヤ人問題を知ったのは青年期以降としているが、
彼の父親が反ユダヤ主義者であったことは証拠もあり、
彼にとって「ユダヤ人」は彼の脳裏から離れることは無く、人生最大の関心事でありつづけた、と。
彼は、当時ドイツ国内を席巻していた暴力的風潮を政治的に利用し、
ドイツ労働党(弱小社会主義政党)と暴力団まがいの集団を合体させ、
これに反ユダヤの綱領を与え、一人前の大衆政党「国民社会主義労働党」(ナチ)を作り上げた。
つまりヒトラーはWWⅠでの二つの置き土産①敗戦の責任を誰かになすりつける
②何でも暴力に訴える風潮 を一つにまとめ、
そのエネルギーをユダヤ人に向かわせた。
ヒトラーの反セミティズム(反セミ族風 反ユダヤ風)には、
中世ドイツから連綿と続く「ユダヤの雌豚」(キリスト教を信じないユダヤ人は豚に等しいとする)のような伝統的な迷信のほか、
彼ならではの、次のような決定的な二つの特徴があった、と。
一つは、「ユダヤ人は諸悪の根源である」とするもので、ナチにとっての運動の中核をなす。
もう一つは、「汎ドイツ主義」(ドイツを盟主としてゲルマン民族による世界制覇を実現しようとする思想や運動)で、
当時ドイツは、ユダヤに率いられた赤色ロシアに対する恐怖が拡がり、
他のどの国よりも脅威だと感じていたロシアと反セミティズムを結びつけた。
また旧来の迷信的な恐怖よりも、より生物学的・科学的に恐怖を煽った、と。
たとえば東欧系の“肌が黒く劣等なユダヤ人”からドイツ民族の血統が汚されることを怖れ、
当時まだ抗生物質による治療法が確立されていなかった梅毒の蔓延も、
ユダヤ人との性的な接触によって、より深刻な生物学的な脅威にされると、
ヒトラーは信じ、他にも説いた。
彼の信奉者は、旧来の迷信的なものより、より科学的な根拠として受け取り、さらに狂信的な活動家になっていった、と。
[大衆を洗脳する心理学 フロイト及びタヴィストック研究所]
(以下本項は主に、「世界を牛耳る洗脳機関 タヴィストック研究所」、「ビルダーバーグ倶楽部」(共にダニエル・エスチューリン著)による)
(以下本項は主に、「世界を牛耳る洗脳機関 タヴィストック研究所」、「ビルダーバーグ倶楽部」(共にダニエル・エスチューリン著)による)
それにしても何故あそこまでの悲劇が? 議会もメディアも機能しなかったのだろうか、との思いが残り、
文献をあさっていましたら、昨年11月に復刻版が出されたばかりの本に出合いました。
それは「世界を牛耳る洗脳機関 タヴィストック研究所」という本です。
今回初めて目にしましたが、ロンドン郊外に本拠地を置く研究所で、一般市民を巧みに操作するための、世界で最も重要な機関とされる、と。
オープンにされているタヴィストック・クリニック(タヴィストック研究所の前身)の歴史等によれば、
1,920年創設、“シェル・ショック(戦時中のイギリス兵士の心的外傷後ストレス障害 (PTSD) の一種)の理解に重要な貢献するとともに、
イギリス軍の特殊作戦本部としても機能した、と。
この際、(エスチューリン氏著の2,013年版によると)英国王室とロスチャイルド家の資金により設立された、とあるが、
復刻版にはロックフェラー家が資金提供とあり、いずれにせよ両巨大財閥の支配下にあるのは論を俟たないでしょう。
1,930年代にはフランクフルト大学社会研究所と共存関係を持つようになり、
この協力関係により、「新フロイト派」の観点から集団の文化を分析するに至り、集団洗脳と社会工学研究の中心となった、と。
エスチューリン氏は次のように述べる。
そもそも「心理学」を意図的に武器として大衆に用いたのはナチであったとされ、
彼らはそれを特に「優生論」と絡めて用いた、と。
この優生論は、多くの市民に忠実に守られ、あるいは無理やり押し付けられて、「アーリア人種」の幻想を土台に強調された。
ナチの大量虐殺の理由と実行は、ほかならぬ“世界経済の崩壊”から派生したものとはいえ、
その大義名分として優生学を持ち出したのは、ナチお気に入りの理論家や専門家、すなわち精神分析医たちであった、と。
それ以来「心の科学」は、正当な治療的アプローチから、心を破壊する技術に改造され、行動を矯正する疑似科学に代った。
心理学にこの転機をもたらしたのが戦争で、独裁政権にとっては、従来の直接的な「盲従を強いる」機関よりも、
ある種の「民主的」機関の方がはるかに効果的な手段となる。
この民主的機関こそがタヴィストック研究所の活動の大前提である、と。
ナチズムはいわばたまたま彼ら(タヴィストック研究所)が「精神分析を行った患者」のひとりに過ぎない、という地位づけである、とも。
上述のように、タヴィストック研究所において決定的な影響を与えた「新フロイト派」とよばれる学派がある。
その学者のひとりカール・ユング(1,875年~1,961年 )(スイスの精神病学者)はフロイトと20歳違いの弟分(のち離反)で、無意識を重視した「無意識の心理学」を著す。
ヒトラーは、ユング自身が助言したように聖なる狂気を歓迎した、ユングが説く人間のプロトタイプ(お手本)であった、と。
ユングはヒトラーの彗星のような台頭に感銘を受け、この独裁者は「ゲルマン民族の潜在意識に眠るとてつもないエネルギーを見つけたに違いない」と考えた。
エッセイで、扇動されなければ何一つできない大衆との違いを強調し、総統には大衆とは別格の「リーダーの人格がある」と述べたり(1,932年)、
ヒトラーは「文字通りすべてのドイツ人を再起させた」と書いたりもした(1,934年)。
ただ、ユング自身、ナチの正体に気づいたのか、
「ドイツの現象で印象的なのは、明らかにとりつかれたひとりの男が、
国全体を駆り立て、あらゆるものを動かして、完全な破滅へと向かうコースに向けはじめたことだ」(1,936年)としたり、
さらにヒトラーが権力の座について5年後(1,938年)には、「霊験あらたかなまじない師か呪医」であり、
「ヒトラーの権力は政治的なものではなく、魔術だ」とまで断定した、と。
同じく新フロイト派のブルーノ・ベッテルハイム(1,903年~1,990年)は、オーストリア生まれのドイツ系ユダヤ人で、
ナチに強制収容所に入れられるも、解放後アメリカに帰化、心理学で業績をあげた。
その彼が、タヴィストック研究所関係者からの命を受け、「ナチ時代の心理分析」を行い発表した。
彼は、人が極度の疑いと恐怖のもとでは、心理的な崩壊が起き、いかに急激に子供に退化するか、について説明し、
「ドイツ人市民すべてが戦前よりも幼児化し、責任ある大人として行動する能力が落ちた」とした、と。
フロイト(1,856年~1,939年)(オーストリア(ユダヤ系)の精神医学者)自身の影響はどうか。
人間の心理生活を、無意識内に抑圧された性的衝動の働きと抑制の観点から分析する“精神分析”を創始したことで知られるが、
「善良な多数のドイツ人はどうしてヒトラーの恐怖政治に同調したのか?」との問いへの答えに、
「マスメデイアを通じて情報を広めたから」とするものがある、とのことである。
当時はラジオで、安物のラジオを大量生産、ドイツ全土へ普及させ、群衆聴取者として、ヒトラーの声を聴かせた。
この背景にはフロイトが『集団心理学』で論じていた次のような概念がある、と。
すなわち、「群衆の中の“個人”は周囲や群衆のリーダーの影響を受け、道徳観念を失いやすく、群衆の行動に圧倒される」と。
この考えは「団体の攻撃性」とも呼ばれ、「人間は破滅へと駆りたてられていく動物である」ことを意味し、「破滅的な衝動は人間の獣性の一部」である、と。
またフロイトは、「社会の目的は、様々な強制を通じて、無力な獣性の突発をコントロールすること」とする一方、
「感情に訴えれば、群衆を組織化することができる。その訴えで最も強力なのは、『潜在意識』に対する訴えで、それは人間を支配し、理性を捨てさせる」と。
扇動され興奮した群衆についてフロイトは「群衆は決して真実を求めない。彼らは幻想を要求する。それなしではいられなのだ。
たえず現実より架空のの思い込みを優先させ、真実と同じくらい強く、偽りに影響される」と。
『集団心理学』のなかで、フロイトは、個人の道徳的抑制は群衆の一部となることで潰される、としている。
また「ひとりでいるときは文化人かもしれないが、群衆の中では野蛮人となり、本能の赴くままに行動する」。
したがって、群衆を洗脳する鍵は、
「ストレスと緊張を使って道徳観念の判断を砕き、暗示にかかりやすい、組織され管理された環境を作ることだ」と。
ナチ・ドイツの場合には、ラジオから何百万という家々に流れていくひとりの男、ヒトラーの声に反応した。
ドイツのあらゆる人々が同時に彼の声を聞いていたという事実が、ヒトラーにより強い力を与えた。
聞き手は文字通り群衆の一部であり、ヒトラーの演説のすべてを、思考を働かせることなく感情的に取り入れた、と。
ヒトラーの演説は現代史における様々なイベントと同じように注意深く演出された、史上初のマスメディア・イベントのひとつだったと言える、と。
さてさて、タブストック研究所にとっては、ナチは自分たちクリニックの“患者”であり、その患者だったナチの宣伝テクニックをつぶさに研究し、
大戦後にはもろもろの研究課題にそれを応用したとのことです。
WWⅡ後もタヴィストック研究所は、ロックフェラー家からの資金提供を受け、アメリカのスタンフォード、ランドなどの名だたる研究所などと一体となって、
芸術・音楽・芸能・戦争・謀略・広告・人工知能(サイバネティクス)・幻覚(サイケデリック)等々、もろもろの領域において、
いかに大衆を心理的に無力化し、彼ら巨大資本家たちが意図する方向に向かわせるかの研究を重ね、
もって彼らが支配する「世界秩序」の構築に取り組んでいる、と。
[余話:近衛文麿の野望]
ヒトラーとラジオといえば、日本を開戦に導いた張本人・近衛文麿のことを書かずにはおられません。
近衛氏(以下、近衛と)が、首相になる直前の1,936年から亡くなる1,945年までの間、NHKの総裁(会長の上位職)だったことも、
彼がヒトラー心酔者だったことも、そして彼の隠された野心については殆ど知られていないのではないでしょうか。
以下、林 千勝氏の著「近衛文麿」、「日米戦争を策謀したのは誰だ!」(いずれもWAC社)から、そのさわりの部分を引用させていただきます。
林氏のご所論は、膨大な一次史料(日記など歴史上の大もとの情報)を発掘、駆使された力作で、
おそらく今までの歴史学者たちはグーの音も出ないと自分には思われます。
近衛は、1,936(S.11)年 社団法人日本放送協会(以下NHKと)第2代総裁に就任します。
戦時下も続け、1,945年(S.20)に彼が亡くなるまでの10年弱の長期にわたり君臨しました。
その間、全国一元化されていた(2年前)ラジオ放送を、自らのプロパガンダの機関として活用しまくります。
1937(S.12)年3月には、近衛の邸宅で、次女の結婚にともなう一族郎党揃っての祝賀(仮装)パーティーがあり、
そこで近衛はヒトラーに扮したとのことです。
数万の大衆を前に咆哮するヒトラーの演説姿に自分を重ねたようです。
首相就任直前のこともあり、このことは当時のメディアでもとり上げられました。
ちょうどそのころは日本国民全体が訳の分からない「ヒトラー心酔病」に罹っていたとされ、この近衛とラジオの影響も大きかったと思われます。
同年6月、第1次近衛内閣が組閣され、組閣当夜、早速近衛は「全国民に告ぐ」とのラジオ放送をします。タイトルは何やらヒトラーとダブります。
その後も要所要所で自らラジオ演説を行い、自らの肉声で国民に語りかけたようです。
支那事変(日中戦争)へは陸軍の不拡大方針にも拘わらず、
近衛は書記官長・風見章や内閣嘱託として官邸に設けた昭和研究会(蝋山政道、松本重治、尾崎秀実ら太平洋問題調査会や朝日新聞社、共産主義者の者が多い)等とともに、
事実上、事変拡大の世論を煽ります。
メディアでいえば、NHKと朝日を完全に自分の支配下においてのことです。
現在私(筆者)は、テレビ、なかでもNHKはほとんどみませんが、以前は、毎年8月の終戦記念日特集では「軍部が悪かった」ばかりを強調した番組を流していました。
それが戦争を煽っていた張本人は、誰あろう、自分たちNHKの総裁たる近衛であったことをNHKの職員は知っているのでしょうか。
そんな彼の実像に、林 千勝氏は鋭く切り込んでおられます。おそらく昭和史の見方が大きくかわることでしょう。
その骨子は次のような、所謂「敗戦革命」ともいわれるもので、実に驚くべき内容です。
近衛の真意は、実は、昭和天皇を廃して、藤原氏の筆頭として自らの覇権を打ち立てることにあった、と。
そのために共産主義者たちを利用して戦争を泥沼化させて、大日本帝国を存亡の淵に陥れ、アメリカ軍をして皇軍を潰させる。
皇軍を失い丸裸となり、かつ敗戦の結果として戦争責任を負う昭和天皇には退位してもらい、
進駐してくるアメリカ軍を御しながら近衛文麿が国の統治を担う・・・というのである、と。
これを林氏は、各段階に応じ、信頼に足る一次史料を提示し、こと細かに証明されています。イヤハヤであります。
近衛は「藤原文麿」と刻まれた印鑑をこよなく愛した、と。
彼は、大化の改新の藤原釜足を祖にし、不比等、道長と栄華を極めた公卿の名門・藤原家の血を引くという。
その後の700年に及ぶ武家時代も切り抜け、明治維新では華族として甦り、近衛家は藤原氏の代表格の家となります。
歴代天皇の母親の姓をみると125人中31人が藤原姓というから、いかに皇統は藤原で塗りつぶされているかが分かる、と。
彼、近衛は昭和天皇に政務を上奏する時、他の重臣たちが謹厳そのものの立姿であったのに、
彼は椅子の背にもたれて座り、長い足を組んだまま、ときに組み替えてすずしい顔をしていた、と。
藤原文麿にとっては「天皇なにするものぞ」との意識が表れていた、と。
1937(S.12)年、第1次内閣で国家総動員法を公布し、
1,940(S.15)年、第2次内閣では、大政翼賛会(各政党合流する)を組織、大東亜共栄圏構想を発表、北部仏印(仏領インドシナ)進駐を開始するとともに日独伊・三国同盟を締結します。
議会政治が機能しなくなった「体制翼賛会」も、アメリカの鋼鉄などの対日輸出禁輸に繋がった「三国同盟」も、いずれも近衛のときです。
1,941(S.16)年、第3次内閣のときに南部仏印進駐を決め、これにより米英蘭による資産凍結と対日石油全面禁輸を決定づけます。
ここで、どうにもならなくなった・・・近衛にとっては思惑通り、開戦間違いなし・・・ところで近衛は辞職。
結局、東條に丸投げです。
「大東亜戦争への道」のレールの敷設は近衛によって完成させられていたのです。
真珠湾攻撃も近衛は熟知していただろうと。
山本五十六長官の独断を永野修身軍令部長は承認しましたが、
風間の子息が持参していた山本から風間への手紙や、近衛や米内から風間への手紙は、風間本人の指示で焼却したという。
1,941年9月時点で近衛と山本は秘密裏に会っていた、とのこと。
近衛は、首相退任早々から、敗戦後の自分の責任回避や転嫁のための工作に勤しみます。
代表的なものが1,945年2月の「近衛上奏文」です。
これは、アメリカとは講和以外にない(丸腰の和平)としたうえで
「共産主義者と軍部の一掃を」と、敗戦時自分の責任を他に転嫁のための工作として上奏されたものでした。
天皇はこれを採用されませんでしたが、
“両者を悪者に仕立て自らはその安全を図る”とする、ずるさ・無責任さ・非情さ丸出しで、権力欲のみにまみれた公卿政治家の本質がみてとれる、と。
それどころか近衛は、戦時中から一貫して天皇ご退位を画策していたとのことで、
すでに上奏文の前段階で近衛は「天皇御退位」にむけて発信し、行動を起こしていました。
サイパン陥落直後の1,944年7月、近衛は木戸内大臣を訪ねた折、次のように説いた、と。
「東條内閣は総辞職すべし。中間内閣を置き、東久邇宮内閣で戦争終結を。講和はイギリスに」そして
「その際、今上天皇は御退位になり、皇太子に天皇の地位をお譲りになって、高松宮を摂政とする」と、
天皇御退位を持ち出しています。
第2次、第3次の近衛内閣の書記官長であった富田健治の著「敗戦日本の内側-近衛公の思い出」には、近衛が次のように語ったくだりがある、と。
「御上には最悪の場合の御決心もあると思う。
恐れ多いことだが、その際は単に御退位ばかりでなく、仁和寺とか大覚寺にお入り(御出家)になり、戦没将兵の英霊を慰められるのも一方法かと思うし、
又申すのも憚れることだが、連合艦隊の旗鑑に召されて、艦と共に戦死して頂くことも」と。
ここまで言っていたのかと驚きです。
近衛はこのため実際に動きます。
御退位時期を敗戦後と定め、1,945年1月には京都に行き、虎山壮というところで、
近衛の重臣ら2人と、皇室ともゆかりが深い仁和寺の門跡(住職)の4人で天皇御退位後のことについて密議を行った、と。
その後近衛は、マッカーサーを訪ね、持論(軍部赤化論と日本の共産化危機論:言外に、今後の日本には自分が必要)を説明、
彼・マッカーサーからは「自由主義勢力を結集して、憲法改正のリーダーシップをとるように」といわれ、一時は狂喜します。
しかしこの近衛の発言は、皮肉にもというか、当然の報いというか、マッカーサーの幕僚や政治顧問として入り込んでいた共産主義者たちにとっては、許しがたいことだった、と。
数年前までの仲間を売り、自分だけが身の安全を図ろうとし、
更には彼ら共産主義者が仕組んだ戦争への道へという隠された事実を、近衛は臆面もなく自分に都合よく加工してマッカーサーに語ったことになった、と。
結局彼ら共産主義者たちからのマッカーサーへの進言によって、
近衛はGHQから「戦犯容疑者」として逮捕命令が出されることとなります。
近衛は巣鴨への出頭期限日である12月16日未明、荻外壮での青酸カリ服毒自殺をはかったとされました。
林 千勝氏はこの自殺についても疑問をもたれ、近衛氏ご家族その他の証言などをもとに、それはそれは詳細な検討をされています。
自殺ではなく、青酸カリでもない、誰かによる薬物注射、その誰かは・・・「近衛文麿」(WAC)にて。
以上を要するに、近衛自らの野心・・・この戦争を利用して天皇を排除し、自分が日本を治める・・・のためには、
軍部も駒、共産主義者も駒、NHKも朝日も駒、取り巻きすべても駒、そして昭和天皇すらもが駒、であった、と。
仰る通り目に何とも言えない可愛さを感じます。又光加減が立体感を見事に出していると思います。青白関係を主体としつつ少し赤みを加えた色合いと言い、全体の形と言いバランスも良いですね。
精神と言うか目に見えない部分である心の部分(感情・権力欲・金銭欲等)は本当に厄介ですね。
包丁を例に挙げれば調理をする時にこんな便利なものは有りません。しかし使用方法を間違えれば怪我もするし、悪意があれば凶器にもなります。従ってしっかり管理し、使用方法を間違えない様に工夫をしなければなりません。
悪意のあるしかも権力も財力も持っている人をどの様に見分け、制御するかは、今までの歴史を学びながら引き続き考え続けなければならない人類の最大のテーマでしょうね。
世界中の紛争国リーダーに送ってあげたいです。
熊ちゃんもボールも良いですが、右に描かれた輪投げのポールでしょうか、質感・色合い・陰影など素晴らしいと思いました。
私はかねてからユダヤ人大虐殺の謎として独裁者ヒトラーはともかく、国家を運営する多くの人間の良識、民主国家としての国民の良識の欠如を疑問に思っていました。
国民性、家庭・学校による教育、宗教などにより築かれた潜在意識があっての洗脳なのかと思えば納得がいく思いです。
我が国の戦前・戦中の洗脳は自虐史観の中で語られていますが、日本人には人間の虐殺という発想はあり得ないし洗脳される潜在意識も皆無であると確信するものです(南京虐殺などのフェイクに洗脳されない。)
藤原氏の末裔・近衛の話は、林氏の論などで承知していますが事実とすれば真に戦慄を禁じ得ません。
更なる解説を待ちたいと思います。