一番歌 天智天皇
秋の田農か利本の庵の苫越あ羅三 王可衣手者露耳ぬれ徒ゝ
(秋の田のかりほの庵の苫をあらみ 我が衣手は露に濡れつつ)
九十三番歌 鎌倉右大臣
世の中盤常尓もかもな渚こく 海人の小舟農つ奈て可なし母
(世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人(あま)の小舟の綱手かなしも)
百番歌 順徳院
百敷や婦るきの支者能し農不尓母 な保余り阿る昔なり介里
(百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)の忍(しのぶ)にも なを余りある昔なりけり)
約5年前のことです。
書道の関連で、ある百人一首の本を読んだら目から鱗が落ちるような思いをしました。
その本は「ねずさんの日本の心で読み解く『百人一首』」(小名木善行著)です。
そこでは、百人一首は、百首全体で一首ともいえる、壮大な抒情詩をなしているとするものです。
撰歌(どういう歌を選ぶか)や配列(どういう順番で並べるか)には、
編者である藤原定家の意図があるはずで、そこを読み解いていこうとされたものでした。
たとえば、最初の方は、一番歌:天智天皇、二番歌:持統天皇の御製が並び、
独立国としての国造りを始められた時の歌です。
また最後の方は、九十九番歌:後鳥羽院、百番歌:順徳院の御製で、
承久の乱により、ともに配流にあわれ、平安時代即ち公家社会の終わりを象徴するお方です。
女流文学など女性が輝いた時代として、ほぼ中ほどに紫式部や清少納言などの歌を撰ぶなど、
諸歌の撰歌も配列もそれぞれに意味があることを説かれています。
そういう大きな構図の中での一番歌と百番歌、
とりあえずこの2歌をを対にしながら書にするのも一興かと思い、
まずは、両方の歌を練習していました。
一番歌は天智天皇です。
大化の改新の立役者で、中華文明と決別し我が国最初の元号「大化」が制定(645年)
されました。
また、歌意から上に立つものは常に率先して働き、
常に国民(民こそ国の宝)とともにある
・・・今の日本の原型を見るようです。
百番歌は順徳院です。
父の後鳥羽院とともに承久の乱で敗れ佐渡へ流罪にあわれますが、
この歌はその乱の5年前に読まれたとのことです。
その当時から宮中(百敷)は荒れ果て、昔(著者の解説では国づくりをされた天智天皇のころ)を
いくら忍んでも忍びきれない、と。
また、「百敷」の歌を百番目にもってきた意味も著者は説かれています。
昨秋、佐渡旅行の折、佐渡歴史伝説館を見学した際、日蓮、世阿弥らとともに
順徳院も紹介されており、天皇が流罪にあわれる時代もあったのだ、
とあらためて思い知らされたことでした。
お二人の歌の書を練習をしながら、更に百人一首を読み返していると、
鎌倉右大臣の歌があることに気がつきました。
鎌倉右大臣は源実朝で鎌倉幕府の三代将軍です。
天皇と貴族が統治した500年を終わらせた鎌倉幕府です。
公家社会からは目の敵にされていたであろう鎌倉幕府の将軍の歌が
百人一首に入っているのはなぜだろう?とちょっぴり興味を持ちました。
新しい時代への転換点の代表者として源実朝ということでしょうが、
どうやら源実朝も自らの和歌集を出すほどに和歌を嗜んだようで、
藤原定家からもその弟子として、和歌の指導を受けていたようです。
その定家は“世の中は永遠に変らないでほしい・・・”とする本歌を
実朝の歌として撰びました。
その歌人名は「鎌倉右大臣」。
武士として初めて右大臣(天皇を補佐する官職)の位に上ったことに敬意を表するとともに、
朝廷と幕府との良好な関係を築ける立派な人物とみたから、
と同著では解説されていました。
因みに、実朝は右大臣になって(1218年)すぐに暗殺され(1219年 28歳)、
その後、後鳥羽上皇や順徳院らが討幕の兵を上げた(承久の乱)のが1221年、
百人一首の順番もそうなっています。
最後に、本ブログの書道としての工夫を。
“○○番歌 作者名”は普通に書にするときは、歌の一部に入れないのでしょうが、
本作私なりに、これを記すことに意味あることと思い、あえて作品のように書きました。
各作品は半紙大(左はカット)で、半切用の布製マット上に展開、
写真にフィルター効果(パソコンに入っている編集ツール)をかけました。
色だけですが、何やら古書風になってくれました。
それにしても百人一首をそのように編集したと言うのは凄いですね。
一首一首に持つ意味・背景、それを選び整理して歴史書顔負けの時代の流れを表しているとは感服しました。
日本文学の奥深さ、凄さのさわりを知った感じです。
それにしても相変わらず、色々な分野に関心を持たれ、深められているのに敬意を表します。
この百首編纂に込められた編者定家の思いなど全く知らずにいましたが知識の一片を教えていただき感謝です、孫に教えてやろうと思います。
それにしても惚れ惚れする書です、優しくリズミカルで奥深い想いが入っているよう感じました。