![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/9e/14ebaada3be48acf71398041c035ea2e.jpg)
天気は良し、気温も高め。恐々ながらリハビリに少し歩き始めた。
ただの散歩では面白くないので史跡探訪の積もりで安中へ。
狙いは安中氏の興亡の筈だったが蛇足の伝説の方が面白くなった。
「八重の淵」がらみである。この八重の淵はかって小幡の
「お菊事件」を追い回していた頃、類似伝承としてここを訪れているが
今回、ここにある碑が医療関係者による建立と聞いて好奇心が
再燃したのだ。
事の成り行き上、三年前の爺イの記事からお菊事件を再録する。
手っ取り早く「菊女蛇責」の事を記した「小幡伝説」の要旨を
引用する。
「上総介信貞殿、菊という女を召し使ひ給ひけるが、或る時、この女
信貞殿への御膳を据ゑけるに何とかしたるけん、御食椀の内へ針を
取り落としけるを知らずして御膳を据ゑければ菊が運命の尽くる時か。
信貞殿(おのれ我に針を呑ませ殺害せんとしたる曲者なり。言語道断
の奴、身を寸々に切り裂きても飽きたらぬ)と下部共に申付けられ
蛇を数多く取り集め大なる桶に菊を裸にして押しこめ、蓋の穴から
蛇を入れ塞ぐ。
蛇共中にて上になり下になり哎合ひ潜合ひ夫より菊が身の内に喰い入る。
其の桶を宝積寺山の奥なる池に沈めける。懸かる所へ小柏源六という
侍、猪狩りに立出て其処を通りけるが、女の泣き叫ぶ声聞えければ池の邊に
立ち寄りて見てあれば桶一つ浮かび女の首計り出してあり。源六不便に
思い弓の弭にて掻き寄せ桶の蓋を打ち破れば蛇共夥しく出でにけり。
女喜びて誰様にておわしますと問いければ小柏源六なりと答う。
女申すよう、このご恩には今より後、御家の中へ蛇参りても怨を致させ
申すまじ、御心安かれと云う声と共に死にけり。さるによって小柏の家にて
は仮令毒蛇を踏みてもさす事無し。其の子孫今に至りて繁盛す」
と、まあ こんな話だ。
爺イはこの痕跡と伝えられる場所には何回も足を運んでいるので
その写真を少々お目に掛けよう。
甘楽・宝積寺にあるお菊親子の供養塔
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/1b/86d149a82e954e53e6cce31d1436e398.jpg)
山中にある「菊ヶ池」とそこにある観音像と「菊女の慰霊碑」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/ea/3c3fafbd59832a7940a41208520b89d8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/2c/1eb400b5f58b5d9d98c1b138560280ca.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/d6/d3e79cc6370c8b0b32c2be5009c3c161.jpg)
菊ヶ池から100mほどはなれた位置の「お菊の祠」と
殊勝にもその前に手を合わせる爺イ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/83/19db27d32ef860c2187a749c8a2174e3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/5d/534bda31b2f93e872cc932bb532109f2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/92/ace150f20f61cf5dea5cc2f3668b0782.jpg)
「萩原進著・群馬の墓巡り」に紹介されている妙義町・中里に
ある「お菊の墓」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/24/a3218cfa92d5bf895c180af07c42867d.jpg)
閑話休題で話を戻すと、この八重の淵の伝説にも種になった事件が
存在した。安中忠正に始まる安中氏の戦国期盛衰も波乱万丈だったが
天下も収まった後、家康の関東仕置きから話は始まる。
天正三年、武田勝頼は長篠で織田・徳川軍と激突して惨敗、武田に
従軍していた当時の安中宗家の武士団は当主・忠成を始め全員が
設楽ヶ原の夏草を血に染めて玉砕、一兵も安中に帰ることは
できなかった。「安中滅び落城の跡、安中討ち死にの末葉の士、
民となり武家・百姓の田畑作りの場と化す」と「上野志」に
書かれた。
そしてその38年後の慶長19年、彦根に転封になっていた
井伊直政の嫡子・直勝が病弱を理由に本国を弟に譲り安中3万石を
拝領し廃墟は安中藩として復活する。
今、安中城址の「二の丸跡」(安中小正門)の表示のところに
城址の碑がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4a/d350aa6109b70e6cd441a989068e40d0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/a8/64fea9bbc4c4c140a5a2e4ba24b02387.jpg)
その裏に歴代の安中城主名がずらりと彫られているが、問題は
井伊の後を継いだ水野家二代目の「元知」さん。寛文七年に
お家騒動・家事不取締で領地没収となる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/81/6b44a49545718ebf6664f51699f61f86.jpg)
事件を記すものの幾つかを列挙する。
「寛政重修諸家譜」-寛文七年元知狂気し白刃を振るって
妻を傷つけーー」と狂人扱い。
「徳川実記」-発狂し妻に深手を負わせその身も自害せんとするも
果たせずーー
だが、発狂とは表沙汰の処理で、その実態は白石の「藩翰譜」で
明らか。
「実は乱心ではなく病床の身を保養しようと歌舞伎を呼んで
宴覧した。ところが内室が嫉妬の思いを起こして白刃を抜いて
斬り付けた。元知は傷を負いながらも防いだが内室の額を
傷つける。内室の父・水野監物が激怒して将軍の知るところとなり
処分された」が真相。こんなことで嫉妬して刀を抜かれては
元知もたまったものではない。
さて、これからが迷惑千万な話に展開する。江戸後期、安中藩に
関島硯龍という祐筆がいた。かれは「安中城下八重ヶ淵の考」なる
一文を書く。「ある書物によるとー」の前置きながら
「水野元知の内室は嫉妬深く元知には別心が無いのに元知を疑うこと
度々であつた。或る時、何者かが元知が美女を集めて寵愛していると
内室に密かに告げる。嫉妬深い内室は守り刀を抜いて「覚えがあろう」
と斬り付ける。この騒動が内外に伝わり将軍には元知乱心と
報告したので領地召し上げになったーー」と。此処までは良かったが
その末尾に「この内室は安中に居る側女を川に投げ込ませたと聞く、
毒虫と共に箱に入れて淵に静めたとも。老人がそう言い伝えている」
と書き足してしまった。
さあ、この話が後年まで生き残る。昭和の始めの頃、「安中の伝説」
というれっきとした刊行物に尾ひれがついて収録された。
「美しい八重を妬んで城の女たちが御殿医某の策略で殿様の御膳に
縫い針を入れた。その下手人が八重であるとされ深淵の畦に
生き埋めにされたーー」と。
さて御殿医が陰謀に荷担していたと言うことから、その後に
八重の怨霊は安中の医師に祟る事になり、安中の「医師は
一代限り」と言われるようになった。そこで昭和10年に安中の
医療関係者が主催し慰霊の法会を催して八重の怨霊を慰める
という笑えない事態となる。
戦後になって同じく医師の計画によって郷土史研究会が賛同して
「八重の碑」が建立された。現在の場所は文化センターの
東端の九十九川を望む崖の上だが、18号バイパスの建設によって
櫓台のあつた所から移転してきたものだそうだ。
まあ、女性・針・蛇・池・淵のモジュールは「古事記・三輪山
神話」が原型というがお菊伝説の伝播なのか? こうまで
そっくりな話に吃驚する。
下の写真はその八重の淵の碑、丁度「坂口門跡」の看板もある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/66/bec312608d284683a2ec00ec287bdee1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/4f/f86394dab7ff1fd76ebc6f7136d01725.jpg)
本命の安中城の盛衰は別途になってしまつた。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
ただの散歩では面白くないので史跡探訪の積もりで安中へ。
狙いは安中氏の興亡の筈だったが蛇足の伝説の方が面白くなった。
「八重の淵」がらみである。この八重の淵はかって小幡の
「お菊事件」を追い回していた頃、類似伝承としてここを訪れているが
今回、ここにある碑が医療関係者による建立と聞いて好奇心が
再燃したのだ。
事の成り行き上、三年前の爺イの記事からお菊事件を再録する。
手っ取り早く「菊女蛇責」の事を記した「小幡伝説」の要旨を
引用する。
「上総介信貞殿、菊という女を召し使ひ給ひけるが、或る時、この女
信貞殿への御膳を据ゑけるに何とかしたるけん、御食椀の内へ針を
取り落としけるを知らずして御膳を据ゑければ菊が運命の尽くる時か。
信貞殿(おのれ我に針を呑ませ殺害せんとしたる曲者なり。言語道断
の奴、身を寸々に切り裂きても飽きたらぬ)と下部共に申付けられ
蛇を数多く取り集め大なる桶に菊を裸にして押しこめ、蓋の穴から
蛇を入れ塞ぐ。
蛇共中にて上になり下になり哎合ひ潜合ひ夫より菊が身の内に喰い入る。
其の桶を宝積寺山の奥なる池に沈めける。懸かる所へ小柏源六という
侍、猪狩りに立出て其処を通りけるが、女の泣き叫ぶ声聞えければ池の邊に
立ち寄りて見てあれば桶一つ浮かび女の首計り出してあり。源六不便に
思い弓の弭にて掻き寄せ桶の蓋を打ち破れば蛇共夥しく出でにけり。
女喜びて誰様にておわしますと問いければ小柏源六なりと答う。
女申すよう、このご恩には今より後、御家の中へ蛇参りても怨を致させ
申すまじ、御心安かれと云う声と共に死にけり。さるによって小柏の家にて
は仮令毒蛇を踏みてもさす事無し。其の子孫今に至りて繁盛す」
と、まあ こんな話だ。
爺イはこの痕跡と伝えられる場所には何回も足を運んでいるので
その写真を少々お目に掛けよう。
甘楽・宝積寺にあるお菊親子の供養塔
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/1b/86d149a82e954e53e6cce31d1436e398.jpg)
山中にある「菊ヶ池」とそこにある観音像と「菊女の慰霊碑」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/ea/3c3fafbd59832a7940a41208520b89d8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/2c/1eb400b5f58b5d9d98c1b138560280ca.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/d6/d3e79cc6370c8b0b32c2be5009c3c161.jpg)
菊ヶ池から100mほどはなれた位置の「お菊の祠」と
殊勝にもその前に手を合わせる爺イ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/83/19db27d32ef860c2187a749c8a2174e3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/5d/534bda31b2f93e872cc932bb532109f2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/92/ace150f20f61cf5dea5cc2f3668b0782.jpg)
「萩原進著・群馬の墓巡り」に紹介されている妙義町・中里に
ある「お菊の墓」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/24/a3218cfa92d5bf895c180af07c42867d.jpg)
閑話休題で話を戻すと、この八重の淵の伝説にも種になった事件が
存在した。安中忠正に始まる安中氏の戦国期盛衰も波乱万丈だったが
天下も収まった後、家康の関東仕置きから話は始まる。
天正三年、武田勝頼は長篠で織田・徳川軍と激突して惨敗、武田に
従軍していた当時の安中宗家の武士団は当主・忠成を始め全員が
設楽ヶ原の夏草を血に染めて玉砕、一兵も安中に帰ることは
できなかった。「安中滅び落城の跡、安中討ち死にの末葉の士、
民となり武家・百姓の田畑作りの場と化す」と「上野志」に
書かれた。
そしてその38年後の慶長19年、彦根に転封になっていた
井伊直政の嫡子・直勝が病弱を理由に本国を弟に譲り安中3万石を
拝領し廃墟は安中藩として復活する。
今、安中城址の「二の丸跡」(安中小正門)の表示のところに
城址の碑がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4a/d350aa6109b70e6cd441a989068e40d0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/a8/64fea9bbc4c4c140a5a2e4ba24b02387.jpg)
その裏に歴代の安中城主名がずらりと彫られているが、問題は
井伊の後を継いだ水野家二代目の「元知」さん。寛文七年に
お家騒動・家事不取締で領地没収となる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/81/6b44a49545718ebf6664f51699f61f86.jpg)
事件を記すものの幾つかを列挙する。
「寛政重修諸家譜」-寛文七年元知狂気し白刃を振るって
妻を傷つけーー」と狂人扱い。
「徳川実記」-発狂し妻に深手を負わせその身も自害せんとするも
果たせずーー
だが、発狂とは表沙汰の処理で、その実態は白石の「藩翰譜」で
明らか。
「実は乱心ではなく病床の身を保養しようと歌舞伎を呼んで
宴覧した。ところが内室が嫉妬の思いを起こして白刃を抜いて
斬り付けた。元知は傷を負いながらも防いだが内室の額を
傷つける。内室の父・水野監物が激怒して将軍の知るところとなり
処分された」が真相。こんなことで嫉妬して刀を抜かれては
元知もたまったものではない。
さて、これからが迷惑千万な話に展開する。江戸後期、安中藩に
関島硯龍という祐筆がいた。かれは「安中城下八重ヶ淵の考」なる
一文を書く。「ある書物によるとー」の前置きながら
「水野元知の内室は嫉妬深く元知には別心が無いのに元知を疑うこと
度々であつた。或る時、何者かが元知が美女を集めて寵愛していると
内室に密かに告げる。嫉妬深い内室は守り刀を抜いて「覚えがあろう」
と斬り付ける。この騒動が内外に伝わり将軍には元知乱心と
報告したので領地召し上げになったーー」と。此処までは良かったが
その末尾に「この内室は安中に居る側女を川に投げ込ませたと聞く、
毒虫と共に箱に入れて淵に静めたとも。老人がそう言い伝えている」
と書き足してしまった。
さあ、この話が後年まで生き残る。昭和の始めの頃、「安中の伝説」
というれっきとした刊行物に尾ひれがついて収録された。
「美しい八重を妬んで城の女たちが御殿医某の策略で殿様の御膳に
縫い針を入れた。その下手人が八重であるとされ深淵の畦に
生き埋めにされたーー」と。
さて御殿医が陰謀に荷担していたと言うことから、その後に
八重の怨霊は安中の医師に祟る事になり、安中の「医師は
一代限り」と言われるようになった。そこで昭和10年に安中の
医療関係者が主催し慰霊の法会を催して八重の怨霊を慰める
という笑えない事態となる。
戦後になって同じく医師の計画によって郷土史研究会が賛同して
「八重の碑」が建立された。現在の場所は文化センターの
東端の九十九川を望む崖の上だが、18号バイパスの建設によって
櫓台のあつた所から移転してきたものだそうだ。
まあ、女性・針・蛇・池・淵のモジュールは「古事記・三輪山
神話」が原型というがお菊伝説の伝播なのか? こうまで
そっくりな話に吃驚する。
下の写真はその八重の淵の碑、丁度「坂口門跡」の看板もある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/66/bec312608d284683a2ec00ec287bdee1.jpg)
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本命の安中城の盛衰は別途になってしまつた。
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おかげさまで すっきりしました
幾ばくかのお役に立てたなら幸いです。
当方、傘寿を迎えた老体ですがゴルフに
見切りをつけて低山を徘徊しております。
その序に史跡・伝承探訪も兼ねており
このブログにも123件を載せてありますので
お暇のときに右サイドバーのカテゴリーから
ご覧下さい。