クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

鷹留城址のあれこれ H-21-1-20

2009-01-20 17:34:29 | 伝説・史跡探訪
上の写真は山崎一氏の著書にあつた鷹留城址のもの、何で今頃かと言うと
三角点探訪の時、此処に在る筈の「三角点・根古屋」を未だみつけられて
居ないから。それに城址記録に興味が湧く。退院後、未だリハビリも
始められないので色々と思いを巡らせている。
先ず、長野氏菩提寺の長年寺に残る「長年寺記」から抜粋。

「明応年間(1500)、長野業尚浜川ヨリ徒リ下室田ニ居リ碓井・群馬両郡ヲ領ス。
文亀三年(1503)業尚卒シ其の子・憲業嗣ク。憲業弐児アリ、長子業氏ヲ室田
鷹留ニ、次子業政ヲ箕輪ニ居ク。蓋シ大永(1525)年間ナリ。憲業其ノ子業政ト
共ニ箕輪城ニ居ル。(註1)
天文十一年(1542)憲業卒ス、業政箕輪ヲ守リ業氏鷹留ヲ守ル、後業氏卒シ
其子業通嗣ク。是ヨリ鷹留ハ箕輪ニ附庸ス。
弘治・永録ノ間、北条氏武田氏来リ攻ムルトモ克タズ。業政卒後(1561)
小幡尾張守武田氏ニ下ル。(註2)
永録六年武田軍夜秋間山ヲ越エ烏川ニ臨ミ陣ス。(註3)
業通弟業固業勝拒守大ニ戦イ業勝遂ニ戦死、(註4)
業固業通防戦シ敵兵大イニ破ル。
時ニ男蟹谷真光ナル者アリ、叛シテ城中ニ水少ナキ事ヲ敵ニ告グ。(註5)
於是、小幡氏其水路ヲ断つ。城兵大イニ苦シムモ未タ真光カ叛ヲ知ラス。
業通業固出テ闘フ、疲レテ丘上ニ休顧テ城ヲ望ムニ煙焔楼櫓ヲ掩フ。
城中ヨリ一騎馳セ来タリ告ケテ云ク、真光叛シ火ヲ城中ニ放ツト。
依ッテ業通業固スミヤカニ帰リ真光ヲ索レドモ得ス。火ヲ防クニ水ナシ、再ビ
出テ尾張守ト戦イ此ヲ破ル。
時ニ従卒僅ニ八人、甲冑錣糸半ハ絶エ刀刃恰モ鋸ノ如シ。敵既ニ散シ
処々ニ多々屍ヲ見ルノミ。各刀ヲ杖キ烏川ニ飲ス。
真光ガ脱去スルヲ見、此レヲ追ヒ斬リテ水中ニ落ス。敵兵又来タリ囲ムモ
奮闘囲ミヲ破リ遂ニ箕輪ニ走ル。(註6) 鷹留城ココニ於テ陥ルト云」




そこで暇つぶしに爺イ流の解釈。勿論研究者ではないのでいい加減だが
本人はこのレベルですっかり納得している。
註1
名君の誉れ高い業政は家督を継いでいるので、てっきり長男かと思つていたが
次男だったのか! さては鷹留城主だつた長男・業氏は妾腹か? 尤も戦国時代には
有りふれた話だ。信長だって三男なのに正室・土田御前の最初の男子だから
後継者だつた。もっと昔の源平時代は酷かった。義朝など東国と京との行き帰りに
所嫌わず子供つくりに精を出したが正室云々の時代ではないので
一番身分の高い女の子供・頼朝が義平・朝長の兄たちを押しのけて
生まれながらの御曹司だったから。
余談ながら業政の後継ぎで悲劇の武将となつた業盛も次男、但しこの場合は
嫡男の吉業は天文14年(1545)の河越攻めで重傷を負い16才で
亡くなっているから。
註2
長野の女婿の筈の小幡信定の離反は長野側から見れば完全な裏切り。
箕輪城の落城を早めた要因として長野氏贔屓の人たちは未だに許せないと
言っている。だが爺イはやや同情的。お菊事件でお馴染みなので尚更。
つまり、佐久地区で活発に侵略活動をしていた信玄に境界を接する小幡は
甲州勢に媚を売らなくては生きられなかった、それも関東を守るべき
関東管領・上杉は北条との小競り合いに終始し終には越後に遁走する
始末だったから。天文22年の信玄側近駒井高白斎の日記に「小幡親子
出仕」と書かれているそうだから1553年の頃から内通していたらしい。
そして業政が信定弟の景定の諫言をいれて草津湯治中の留守を狙って
国峰城から追放し信定が信玄騎下になったのが内通から6年後の永禄3年。
業政没年の一年前のことだった。
一説には景定は業政に言わずに謙信にたれ込み謙信が国峰城を占拠した
とされるがどう見てもやったのは業政だろう。
因みに信定は永禄4年には信玄の後押しであっさりと国峰を奪還している。
註3
昔の資料は箕輪落城をすべて永禄6年としているが近年では永禄9年に
統一されている。
註4
信玄の箕輪攻略は周到を極め、前年に倉賀野城陥落、石倉城も落ちて
厩橋との連絡は絶たれ和田城も信玄の軍門に下り吾妻一帯は策士・幸隆の
諜略で何時の間にか武田軍、箕輪・鷹留はまったくの孤立。
鷹留に向かったのは馬場信房・山縣昌景隊に遊軍の小幡勢。
末弟・業勝は武田軍に猪突、乱戦のうちに討ち死に。指揮官は猪武者で
あってはならない教訓。
註5
放火犯・蟹谷某の記録が見当たらないが、ここまではっきりと裏切りの烙印は
辛い事だ。高崎に数軒ある同姓の家はたまったものではないだろうに。
註6
記録によれば鷹留城主・業通は箕輪に入って業盛と共に自刃したのかと
思っていたら、箕輪に行かずに越後に逃れれて春日山の謙信の許に
たどり着いている。現在、春日山の小字に「長野屋敷」というのがある
のがその名残とか。
弟の業固は信州諏訪に逃れ、その嫡男が南牧に移つた。現在、下仁田に
長野姓が多いのはその末裔たちと言われている。
尚、若くして討ち死した業政嫡男の吉業の子孫は「箕郷生原」の「禅竜寺」
開祖で福田姓と伝えられるし、箕輪を脱出した二歳の業盛嫡男亀寿丸は
箕輪・和田山に逃れ極楽院に匿われ後年、二代目院主鎮良となっている。
総勢二万の武田に対して1500の寡兵の箕輪は僅か一日の戦闘で落城と
伝えられ、信玄は箕輪落城前に脱出した将士200人を召抱えたが
その中に大胡城主で後の剣聖・上泉伊勢守がいる。

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