もう、10月も末になり赤城大沼湖畔の紅葉も完全に終った。今日は赤城の
今秋の打ち止めとして登り残しの「前浅間から荒山」のルート。
すっかり通い慣れた大沼湖畔の道から鳥居峠手前を大胡・赤城線で
軽井沢峠入り口看板前に駐車。近くに「湿原」の道標も在った(10.15)。
関東ふれあいの道とされるこんな板敷き道を軽く登って行くと
200㍍程で前浅間からの稜線に交叉して分岐の道標。牛石峠0.6K . . . 本文を読む
午前中は晴れと言う前夜の予報に反して一面の雲、西の空に僅かな
切れ目が見えるだけ。でも、今日は景観などどうでも良い「方位標」
探索のリベンジだ。方位標と云ってもその存在意義は全く理解して
いない。「測量法解説」で「森林地帯又は広大な平野にある
三角点又は多角点において、他の三角点又は多角点との視通が無い場合に
方位の基準を与える為に設置する標石」を読んで、そうかそうかと
単純に頷いてしまう程度。で . . . 本文を読む
やられた! 何がって上の写真(借用)をご覧下さい。これは爺イが2007年春に
「わらび峠」経由で中之条「大戸谷山」に行った時に付けた標識の現在の姿。
数日前、マイミクのおーちゃんが道なしの南コースからこの山に行って異変発見。
大戸谷山は「300山」でも別名「大戸矢山」と紹介されているので「矢」でも
間違いではないが、既存のプレートを黒で塗りつぶして書き変えるとは
非常識極まりないーーと思う。百歩 . . . 本文を読む
今日は久し振りの赤城山、紅葉見物を兼ねて五輪峠の「方位標」探しと
牛石山経由の銚子の伽藍。銚子の伽藍は前回長七郎山から茶の木峠を
経由して行っているが、背後の崩落跡が気になって落ちついた見物が
出来なかったので西側からの再訪。
土日の喧騒は避けた積もりだったが赤城県道は結構、車列が繋がって
平日でも観光客多数。1200mを過ぎると沿道に見事な紅葉が見られるが
後続車が続いているので横目で眺めるだけ . . . 本文を読む
昨夜、格下の筈だったウズベキスタン戦のドローにイライラ、続いてNHKの
「アイヌ少女の闘い」の奇麗事過ぎる創りに不満が鬱積して今朝の目覚めは
良くない。だが、天気は絶好の快晴、気分を新たに再度の中之条の低山探訪。
今日の狙いは地形図には標高1143mだけの記載で山名は書かれていない「宮の峰」。
先日、鬼村低山会の村長さんが東の小池山から到達しているので同会所属の
爺イは西の林道峠から。ここは中之条 . . . 本文を読む
今日は「300山」や「オッサンさん」・「あおちゅうさん」の記事を参考にして
中之条の「不納山」。但し、稲包神社からはいきなりの急登とあったので
心肺能力が極端に低い爺イはそっちは回避して水晶山経由。
R-353で中之条の市街地を走り抜け、四万大橋手前で右の温泉街への道。
左右の温泉宿の間の細い道を進むと左に目印の「月見橋」、直進して間も無く
右手に水晶山登山口看板(9.52)。林道水昌(晶ではない . . . 本文を読む
今朝早く、「つれづれ」さんの相馬表口ルートの記事で「スゲェー」の一言、
沢沿い林の中の「表口」と彫られた巨大石碑と帰途に「右京の無駄掘り」は見て
貰え無かったようで「うーん 残念」。
こっちは今週の天気も悪いし中盤にはゴルフコンペもあるので山行きは予定無し。
こんな時の爺イの暇潰しは図書館から限度一杯10冊ほど借りてきて
読むこと。今月は北原亜以子と北方謙三だが、余分に借りた萩原進著の
「歴史と風 . . . 本文を読む
先日の高岩行きの時に登り残した大山へ。「忘れられた山」と紹介され
ているので不遇低山専門の爺イには多分うってつけの筈。
もう通い慣れたR-92(松井田・軽井沢線)に入ると直ぐに巨大な馬頭観音
がある。古来、この道は碓氷・入山の峻険に比べて緩やかな峠道として
姫街道との合流の和美峠を目指したものであろう。
入山川沿いを遡って谷急山の西を南進すると「田家橋」、ここから下平集落の
厳しい蛇行が始ま . . . 本文を読む
上の写真は黒岩下から見た相馬山だが、本編とは直接関連はない。
(1)右京の「むだ掘り」再確認
先日、図書館で「みさと散策」なる小冊子を見付けた。これは1977年から
「広報みさと」に足掛け9年で102回連載されたものを1985年の箕郷町制
30周年を機に発行された非売品。著者は町史の編纂にも拘わったらしい
故・斉藤勲氏。その巻末近くの「特種編」に下の写真を発見してびっくり仰天。
何に驚い . . . 本文を読む
(2)榛名若御子神社
黒岩下からR-28を下って松の沢地区に入ると右側に地味な神社。
かってこれは松の沢村の村社だった。記録に依ると榛名神社の祭神を
祭り、元の名は「榛名社」、明治時代に火産霊神を合祀して今の名前。
巨木も残っており鎮守の森の雰囲気がある。神社は小さいのに石像物が
多い。
本殿右手前のこの「手洗い鉢」は何の変哲も無いが、これが最も古く
正徳四年と言うから1714年、大奥の「絵 . . . 本文を読む