今日は渋川市の白井宿八重桜まつり武者行列の見物。この「白井」は「シライ」ではなく
「シロイ」と読む。
この地には1888年まで「白井村」が存在したが1889年の帝国憲法発布の年に市制・町村制も
施行され、北牧・横堀・吹屋村と合併して「長尾村」となり1960年に子持村、そして
2006年に渋川市白井と云う変遷を辿って来た。
高崎からr-25で渋川四つ角を右折し踏み切りを越えて直ぐの「下郷」でR-17に乗り換えて
鯉沢バイパスを北上して「こもち道の駅」に駐車ーーーと思ったら相当時間は早いのに
既に満車で台地の上の「こもち行政センター」まで誘導されてしまいテクテク歩いて
行列スタート地点の道の駅へ。
周辺は観光客で混み合い状態だが満開の八重桜や派手な看板が出迎える。
行列開始まで未だ一時間以上もあるので一足先に八重桜見物。メイン通路の始まりは
この常夜灯だが通路の真ん中に細い堀が流れその両脇が桜並木、更に外側に幅広の
通路があり約1Kの直線が今日の舞台。
取り敢えず豪華絢爛と言いたくなる重厚な八重桜
通路や堀とのコラボで。
途中から道の両側に屋台がびっしり、人波も急に多くなる。
白井上町・中町・下町の山車も出番待ちで待機中。
堀の一部には桟敷が作られていて特等席。「いつでも自由にお使い下さい」の
札が下がっているが今日も同じ扱いなら席の確保は大変だろうな。
豪華な八重桜をアップで。
一回りしたところでスタート地点に戻ると定刻10.30にセレモニー開始、
この方の勝鬨発声で武者行列がスタート。
白井宿八重桜祭り武者行列
スナップ写真
すっかりお馴染みになった群馬甲冑愛好会の方々
箕輪城攻防戦で主役をつとめて今やイベントに引っ張りだこの「本格格闘甲冑集団」
遠路から参加の山梨学院国際部の外国人留学生が手製の甲冑で。
撮影に気軽に応じてくれた参加者の方々と行列の様子。
何種類かの幟を観たので調べてみた。
長尾景仲(1388-1463)ー太田道真とともに「関東不双の知恵者と称された逸材。
景仲の代に享徳の乱などの戦乱のため、白井城が築城されたと推定されるが異論もある。
関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした生涯を送った。
白井長尾家ー14世紀の南北朝時代に長尾景忠が白井の地に入り白井・総社長尾家を
開いて以来、この地は白井長尾家の支配下にあり戦国末期の秀吉の小田原攻めで
その支配に幕を下すまで続いた。
本多広孝(1528年-1598年)ー元は徳川家譜代家臣で1590年まで田原城主。徳川家康の関東入部にともない、
子の本多康重が上野国白井城主2万石に封ぜられたので広孝も白井城に移っているが
1623年に孫の紀貞に嗣子無く白井藩は廃藩、白井城は廃城となり破却された。
山梨大学iCLA国際リベラルアーツ学部ー特定のキャリアに焦点を合わせない自由度の高い
選択肢を持った人材を育て国際社会を視野に、授業のほとんどは英語。
1学年の定員は80名で1クラスの標準学生数は20名以下で。学生参加型な授業が特徴。
約二時間で行列も終わり武者たちは待機所に引き上げたのでこっちは一寸
白井城址の見物。途中で山車の引き回しを眺めながら。
白井宿八重桜祭り山車巡行
ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
デジブック 『白井宿八重桜祭り』
蛇足・白井城の徒然
白井八重桜祭りの後に白井城址を訪れた。総論としては白井城は、山内上杉氏の有力な
配下で家老職を勤めた長尾一族のうち、白井を本拠とした白井長尾氏の居城、
北条滅亡後は本多が治めたと云える。
その長尾氏が上野国に入ったのは1337年に上杉憲顕が上野・越後両国の守護となり、
長尾景忠が守護代を務めたことに始まっている。未だ南北朝が始まったばかりの
時である。但し、上野での景忠の居所は前橋・惣社で、当時の白井には
白井氏を名乗る武士団が存在していたらしい。
その後に上野と越後の守護が分岐し、長尾氏も景忠の3人の子どもが分立して、
景廉が越後長尾氏、景直が鎌倉長尾氏、清景が白井長尾氏の祖となったとは
「雙林寺本平姓長尾系図」に記されていると云う。
さて、困った事にこの城は築城年代、築城者とも記録に無いんだそうだ。祭りでは
長尾景仲が築城したとされ武者行列の大将を努めていたが。
長尾景仲が築城という根拠はどうも虎口東側に張り出し部を有する本丸の構造が、
享徳の大乱(1454~1482)時に上杉軍が本陣とした武蔵五十子城の主郭構造と
相似していることから、両城ともこの乱の渦中にあった長尾景仲が、長尾氏本拠の
白井に城郭の必要性を感じ、築城したと考えられるーーーというものが
定説でもあり伝承されているのだ。
ところが、またまた困ったことに近年の研究では、景仲の孫の白井長尾氏3代目の
景春まで在城した証拠が無く、当時の白井城は越後上杉氏の上杉房定が在城していた
との説が出ている。まあ、研究者でもない我々は余り詮索せず現在の伝承を大事にした方が
良い様に思われる。
白井長尾氏の治めるこの地も戦国時代の荒波に揉まれる。1565年の武田信玄の願文に
西上州攻略の標的として箕輪城と白井城が記されているがその通り箕輪城は1566年に
白井城は1567年に武田軍に蹂躙されて1579年まで真田昌幸が城代として白井を支配した。
この間、白井長尾氏は群馬県渋川市北橘町分郷八崎の八崎城に退避していたが
1578年に武田勝頼に臣従した。この時、既に信玄没して5年、長篠での武田惨敗から
3年後のことであり越後では謙信没後の御舘の乱が起きたいた。
そして1582年、武田氏が信長・家康連合軍に抹殺されると長尾氏は厩橋城の
北条高広とともに後北条氏に属して1583年に白井城主に返り咲いた。
だが不幸にして1590年には頼りの後北条氏が秀吉・家康軍に敗れて没落すると共に
白井城も開城。
豊臣・徳川方に開城した白井城は又もや主が変わり徳川家康家臣の本多広孝に与えられ、
その子康重は2万石で城主となった。まあ、広孝は中興の祖と言うことか?
この本多広孝の幟も祭りでは白井城主と書かれて行進していたから知らない人は
あれっと思ったかもしれない。
戦国時代はもう末期が近づいてはいたが何しろ未だ関が原の戦い以前であるから
家康領国下では沼田城の真田昌幸を押さえる前線基地の役目を果たしたことになる。
その後、康重が故郷の岡崎へ移封になったので康重の第2子紀貞が城主になったが、
1624年に死去し、生憎の事に嗣子がなかったため白井藩本多氏は改易され、
同時に白井藩も廃藩となり、白井城は破却され廃城、この城も終焉を迎えて農地化して
現在に至っている。
白
「シロイ」と読む。
この地には1888年まで「白井村」が存在したが1889年の帝国憲法発布の年に市制・町村制も
施行され、北牧・横堀・吹屋村と合併して「長尾村」となり1960年に子持村、そして
2006年に渋川市白井と云う変遷を辿って来た。
高崎からr-25で渋川四つ角を右折し踏み切りを越えて直ぐの「下郷」でR-17に乗り換えて
鯉沢バイパスを北上して「こもち道の駅」に駐車ーーーと思ったら相当時間は早いのに
既に満車で台地の上の「こもち行政センター」まで誘導されてしまいテクテク歩いて
行列スタート地点の道の駅へ。
周辺は観光客で混み合い状態だが満開の八重桜や派手な看板が出迎える。
行列開始まで未だ一時間以上もあるので一足先に八重桜見物。メイン通路の始まりは
この常夜灯だが通路の真ん中に細い堀が流れその両脇が桜並木、更に外側に幅広の
通路があり約1Kの直線が今日の舞台。
取り敢えず豪華絢爛と言いたくなる重厚な八重桜
通路や堀とのコラボで。
途中から道の両側に屋台がびっしり、人波も急に多くなる。
白井上町・中町・下町の山車も出番待ちで待機中。
堀の一部には桟敷が作られていて特等席。「いつでも自由にお使い下さい」の
札が下がっているが今日も同じ扱いなら席の確保は大変だろうな。
豪華な八重桜をアップで。
一回りしたところでスタート地点に戻ると定刻10.30にセレモニー開始、
この方の勝鬨発声で武者行列がスタート。
白井宿八重桜祭り武者行列
スナップ写真
すっかりお馴染みになった群馬甲冑愛好会の方々
箕輪城攻防戦で主役をつとめて今やイベントに引っ張りだこの「本格格闘甲冑集団」
遠路から参加の山梨学院国際部の外国人留学生が手製の甲冑で。
撮影に気軽に応じてくれた参加者の方々と行列の様子。
何種類かの幟を観たので調べてみた。
長尾景仲(1388-1463)ー太田道真とともに「関東不双の知恵者と称された逸材。
景仲の代に享徳の乱などの戦乱のため、白井城が築城されたと推定されるが異論もある。
関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした生涯を送った。
白井長尾家ー14世紀の南北朝時代に長尾景忠が白井の地に入り白井・総社長尾家を
開いて以来、この地は白井長尾家の支配下にあり戦国末期の秀吉の小田原攻めで
その支配に幕を下すまで続いた。
本多広孝(1528年-1598年)ー元は徳川家譜代家臣で1590年まで田原城主。徳川家康の関東入部にともない、
子の本多康重が上野国白井城主2万石に封ぜられたので広孝も白井城に移っているが
1623年に孫の紀貞に嗣子無く白井藩は廃藩、白井城は廃城となり破却された。
山梨大学iCLA国際リベラルアーツ学部ー特定のキャリアに焦点を合わせない自由度の高い
選択肢を持った人材を育て国際社会を視野に、授業のほとんどは英語。
1学年の定員は80名で1クラスの標準学生数は20名以下で。学生参加型な授業が特徴。
約二時間で行列も終わり武者たちは待機所に引き上げたのでこっちは一寸
白井城址の見物。途中で山車の引き回しを眺めながら。
白井宿八重桜祭り山車巡行
ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
デジブック 『白井宿八重桜祭り』
蛇足・白井城の徒然
白井八重桜祭りの後に白井城址を訪れた。総論としては白井城は、山内上杉氏の有力な
配下で家老職を勤めた長尾一族のうち、白井を本拠とした白井長尾氏の居城、
北条滅亡後は本多が治めたと云える。
その長尾氏が上野国に入ったのは1337年に上杉憲顕が上野・越後両国の守護となり、
長尾景忠が守護代を務めたことに始まっている。未だ南北朝が始まったばかりの
時である。但し、上野での景忠の居所は前橋・惣社で、当時の白井には
白井氏を名乗る武士団が存在していたらしい。
その後に上野と越後の守護が分岐し、長尾氏も景忠の3人の子どもが分立して、
景廉が越後長尾氏、景直が鎌倉長尾氏、清景が白井長尾氏の祖となったとは
「雙林寺本平姓長尾系図」に記されていると云う。
さて、困った事にこの城は築城年代、築城者とも記録に無いんだそうだ。祭りでは
長尾景仲が築城したとされ武者行列の大将を努めていたが。
長尾景仲が築城という根拠はどうも虎口東側に張り出し部を有する本丸の構造が、
享徳の大乱(1454~1482)時に上杉軍が本陣とした武蔵五十子城の主郭構造と
相似していることから、両城ともこの乱の渦中にあった長尾景仲が、長尾氏本拠の
白井に城郭の必要性を感じ、築城したと考えられるーーーというものが
定説でもあり伝承されているのだ。
ところが、またまた困ったことに近年の研究では、景仲の孫の白井長尾氏3代目の
景春まで在城した証拠が無く、当時の白井城は越後上杉氏の上杉房定が在城していた
との説が出ている。まあ、研究者でもない我々は余り詮索せず現在の伝承を大事にした方が
良い様に思われる。
白井長尾氏の治めるこの地も戦国時代の荒波に揉まれる。1565年の武田信玄の願文に
西上州攻略の標的として箕輪城と白井城が記されているがその通り箕輪城は1566年に
白井城は1567年に武田軍に蹂躙されて1579年まで真田昌幸が城代として白井を支配した。
この間、白井長尾氏は群馬県渋川市北橘町分郷八崎の八崎城に退避していたが
1578年に武田勝頼に臣従した。この時、既に信玄没して5年、長篠での武田惨敗から
3年後のことであり越後では謙信没後の御舘の乱が起きたいた。
そして1582年、武田氏が信長・家康連合軍に抹殺されると長尾氏は厩橋城の
北条高広とともに後北条氏に属して1583年に白井城主に返り咲いた。
だが不幸にして1590年には頼りの後北条氏が秀吉・家康軍に敗れて没落すると共に
白井城も開城。
豊臣・徳川方に開城した白井城は又もや主が変わり徳川家康家臣の本多広孝に与えられ、
その子康重は2万石で城主となった。まあ、広孝は中興の祖と言うことか?
この本多広孝の幟も祭りでは白井城主と書かれて行進していたから知らない人は
あれっと思ったかもしれない。
戦国時代はもう末期が近づいてはいたが何しろ未だ関が原の戦い以前であるから
家康領国下では沼田城の真田昌幸を押さえる前線基地の役目を果たしたことになる。
その後、康重が故郷の岡崎へ移封になったので康重の第2子紀貞が城主になったが、
1624年に死去し、生憎の事に嗣子がなかったため白井藩本多氏は改易され、
同時に白井藩も廃藩となり、白井城は破却され廃城、この城も終焉を迎えて農地化して
現在に至っている。
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