午前中、例によって家族を病院に送った後、次の予定まで4時間ほどの
間があるので榛東村へ古い神社跡の探索。切っ掛けは「吾妻山」の
登山口にある無銘の神社は吾妻神社ではなく、榛東の吾妻神社は
既に常将神社に合祀されてしまって存在しない」との情報を
「山はこれから」さんから貰ったから。確かな事は村役場に問い合わせて
いるが未だ返事は無い。
取り敢えず現場を見に行かなくては話にならないので、水沢・足門線を北上。
右にワイナリー、左に霞山カントリーの看板のある四つ角付近に
適当に路傍駐車(12.23)。
霞山C.Cにほんの僅か入ったところに鳥居発見。これが一の鳥居。
教育委員会と記した白柱があるが良く見ると指定文化財とは書いてないし、
「鳥居」としてあるから本体の神社は無いんだな。でもはっきりと吾妻神社とは
書いてあるので探しものはこれに間違いなし。
掲額は汚れと痛みで残念にも全く読み取れない。
兎に角、その道に入ったら途端に道形は薄く唯の笹薮なので不安。
僅かな道形を感じ取り藪を掻き分けて登ると突然道は消える。
一寸、左の明るいほうへ進んだら何と水路にぶつかつてしまつた。
皮肉にもその水路の向こう側に道。
水路が暗渠になる所から対岸に渡ると成る程、一直線の道が
現れる。まさしくこれが地形図に破線で描かれた徒歩道で
古い参道の様だ。
やがて二股分岐、左を選択。
理由は直進路の先が荒れ放題なので迂回の積り。
少し、左に進んでからこの椎茸栽培地らしき所を右折して林の中を
登っていく。
やがてゴルフ場に突き当たるので鉄索を掻い潜って中に侵入。
場内を元の参道に戻るべく右へ右へと回りこむ。
再び鉄索を潜って参道らしき所に来たが、前方はこんな姿。又もや
迂回することにしてそのまま東に向かい、適当な位置から山手に
上り上げる。
着いた所が7番ホール看板、100Mも行き過ぎた。
切り替えしてカート道の坂を越えて2番ホールに到着。ここが三角点のある山の
麓に当たるのだ。
山手を調べるのに一寸戻ったら何と目の前に二の鳥居(12.55)。
前方かすかに三の鳥居まで在るではないか?
左の稜線が三角点のある尾根。
第三の鳥居に近づく。周囲は広くはあるが平ら地ではなく軽い
傾斜地。三角点稜線を含めると確かに相当な広さ。ここに明治時代に神社が
あつたと云われても何の不自然さは無い。杉林などの植林は第二次大戦後だろうから。
鳥居三本目で漸く掲額が読めた。「吾妻大権現」だ。
石宮とか石碑が無いか? 周囲を探すが鳥居の先は直ぐに9番ホール。
前面は全てゴルフコースとして開発されていて何の痕跡も見当たらず。
諦めて広い稜線に移って下りながら二等三角点・広馬場を発見。榛東に一等はなく
二等ですらこれが唯一なので、これは榛東三角点の親玉だ。
帰途は迂回をせずに参道をしっかり下るが2番ホールからは
こんな形。
何とか二回目の迂回地点に到着(13.13)。地形図通りの一直線参道を更に
下ると酷い道中となった。
で、車道に到着したら一の鳥居から僅か20Mの上手だつた(13.30)。
全て終了で自宅へ一目散、何しろ次の予定とは毎月の本人の
検診日で病院に予約済みだから。
この地形図で直線の参道と社殿跡とも見える赤丸印の三の鳥居の位置と
吾妻山の近さから吾妻山の山名の由来が見えたような気がする。
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間があるので榛東村へ古い神社跡の探索。切っ掛けは「吾妻山」の
登山口にある無銘の神社は吾妻神社ではなく、榛東の吾妻神社は
既に常将神社に合祀されてしまって存在しない」との情報を
「山はこれから」さんから貰ったから。確かな事は村役場に問い合わせて
いるが未だ返事は無い。
取り敢えず現場を見に行かなくては話にならないので、水沢・足門線を北上。
右にワイナリー、左に霞山カントリーの看板のある四つ角付近に
適当に路傍駐車(12.23)。
霞山C.Cにほんの僅か入ったところに鳥居発見。これが一の鳥居。
教育委員会と記した白柱があるが良く見ると指定文化財とは書いてないし、
「鳥居」としてあるから本体の神社は無いんだな。でもはっきりと吾妻神社とは
書いてあるので探しものはこれに間違いなし。
掲額は汚れと痛みで残念にも全く読み取れない。
兎に角、その道に入ったら途端に道形は薄く唯の笹薮なので不安。
僅かな道形を感じ取り藪を掻き分けて登ると突然道は消える。
一寸、左の明るいほうへ進んだら何と水路にぶつかつてしまつた。
皮肉にもその水路の向こう側に道。
水路が暗渠になる所から対岸に渡ると成る程、一直線の道が
現れる。まさしくこれが地形図に破線で描かれた徒歩道で
古い参道の様だ。
やがて二股分岐、左を選択。
理由は直進路の先が荒れ放題なので迂回の積り。
少し、左に進んでからこの椎茸栽培地らしき所を右折して林の中を
登っていく。
やがてゴルフ場に突き当たるので鉄索を掻い潜って中に侵入。
場内を元の参道に戻るべく右へ右へと回りこむ。
再び鉄索を潜って参道らしき所に来たが、前方はこんな姿。又もや
迂回することにしてそのまま東に向かい、適当な位置から山手に
上り上げる。
着いた所が7番ホール看板、100Mも行き過ぎた。
切り替えしてカート道の坂を越えて2番ホールに到着。ここが三角点のある山の
麓に当たるのだ。
山手を調べるのに一寸戻ったら何と目の前に二の鳥居(12.55)。
前方かすかに三の鳥居まで在るではないか?
左の稜線が三角点のある尾根。
第三の鳥居に近づく。周囲は広くはあるが平ら地ではなく軽い
傾斜地。三角点稜線を含めると確かに相当な広さ。ここに明治時代に神社が
あつたと云われても何の不自然さは無い。杉林などの植林は第二次大戦後だろうから。
鳥居三本目で漸く掲額が読めた。「吾妻大権現」だ。
石宮とか石碑が無いか? 周囲を探すが鳥居の先は直ぐに9番ホール。
前面は全てゴルフコースとして開発されていて何の痕跡も見当たらず。
諦めて広い稜線に移って下りながら二等三角点・広馬場を発見。榛東に一等はなく
二等ですらこれが唯一なので、これは榛東三角点の親玉だ。
帰途は迂回をせずに参道をしっかり下るが2番ホールからは
こんな形。
何とか二回目の迂回地点に到着(13.13)。地形図通りの一直線参道を更に
下ると酷い道中となった。
で、車道に到着したら一の鳥居から僅か20Mの上手だつた(13.30)。
全て終了で自宅へ一目散、何しろ次の予定とは毎月の本人の
検診日で病院に予約済みだから。
この地形図で直線の参道と社殿跡とも見える赤丸印の三の鳥居の位置と
吾妻山の近さから吾妻山の山名の由来が見えたような気がする。
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参道は予想以上に荒廃しているようですね。
社殿跡についての私の記憶では、急階段を登り詰めたさほど広くない頂上に石碑があり、その先は、谷になっていて、さらにその先にもっと高い山(たぶん吾妻山)が見えていた気がします。(その山との間に、もう一つピークがあったかもしれません)
この記憶は、この地域が地元の森林組合の所有地で、植林された杉の苗木の下草刈り作業に組合員として参加した時のことで、40年も前のことなので、曖昧な点があります。(当時は中学生でも、一戸1名の家の代表としてそんな作業に参加しました。)
そのときの苗木が、参道周辺の杉林です。
古い記憶なので、確信を持っては言えないのですが、参道の途切れた所から9番Hのすぐ先あたりに、小高いピークはなかったでしょうか?
わたしなりに2万5千分の1地形図上で、三角点の北西100Mほどにある標高590Mのピークか、さらにその北西の600Mのピークであろうと見当をつけていたのですが・・・。テニスコートとゴルフ場の開発に伴って、神社の跡の石碑も取り除かれてしまったのかもしれませんね。
さらに、二の鳥居はあの頃すでに倒壊していたような気がするのですが、しっかりと立っていたいたようですね。
ワタシも今週末か来週末あたりに、荒れた参道を辿ってみたいと思います。
芝生の小山はバックティーグランドですが左に見える林がピークになっており
地形図で見ると二つの小ピークが吾妻山方面に
繋がっています。
地形図を見て驚いたのですが参道と吾妻山は
一直線上にありますね。
思い切って先のほうも探索すれば何か見つかったかもしれませんが、何しろ参道から外れればゴルフ場なので不法侵入という引け目がある
もので。
確かにそうなりかねませんね。
知人に霞山CCに勤めている人がいるので、機会があったら神社跡について尋ねて見ます。
「吾妻神社」は「ヤマトタケル」を祀った神社なので、合祀の際に「日本武尊云々」という石碑が建てられたといいます。昭和末期編纂の榛東村誌にも、高さ180cmの文字塔の存在が記されています。
その後の開発されたゴルフ場は、大部分を村有林と森林組合の土地を借用していますが、この部分はおそらく常将神社の社地になっていると思うので、借地利用で、参道の一部を埋める程度は可としても、大切な社殿跡まで崩すような開発を、氏子達が承諾したとは思えないのです。
今週末は雪の予報。ワタシは参拝できるかどうか・・・。
引いてみたらコースは参道をよけており
数本のカート道がクロスしているだけ。
で、作戦を立てました。11番・18番ティーグランド又は10番グリーン辺りのピークと見当を付けクラブハウスに断ってそこに直行、第三鳥居
目指して下った来るというもの。
但し、今朝の積雪は5cm位。
外からゴルフ場内をみてみると、14番H?はざっくりと削られていますが、その南東に小丘があり、木々が繁っています。
そこに何かありそうですね。
それから「南十二」について、祠だと思っていたのですが、ワタシの勘違いだったようです。ごく新しい石碑で「十二権現」。その隣に地域のいわれを記したこれも新しい石碑。
残念ながら、古いものは見当たりませんでした。
近くにあった「南十二」が、開発のときに此処に移動したのかもしれません。
でも、確かこの場所を「南十二」と呼んでいると思います。