
相変らず手首の腱鞘炎は完治しない。仕方なく今日も「続々」の道しるべ。
三国街道沿いを歩く積もりで飯塚の「追分」から高渋線から離れて細道を行く。
(1)三国街道・下小鳥のみちしるべ

第一病院の西側を通過して環状線を越えると直ぐに小さな二又。
ここが三国街道・草津道・箕輪道の分岐で大きな角柱道しるべがある。

古来、越後への道は何本もあり1609年以降、高崎・金子経由が本道とされると
古くからの本庄から発して玉村・小相木・古市・石倉・惣社・大久保(駒寄)・渋川の
道は「佐渡街道」とか「佐渡金山道」と別称される様になった。先日見た駒寄の
道標がその一つだった。
正面に大きく「右越後」とあり、その下に平仮名で「ぬまた さはたり いかほ
しま くさつ かわらゆ」とあつてその下に大きく「道」、

左側面には「左はるな道」

(2)井野川の渡し

この道を北進し東西の道を一本突っ切って電設会社の西を通って井野川の
淵まで来ると右に「大八衢神」と彫られた大きな石碑と道祖神を含む
小さな石像数体、ここは三国街道井野川の渡しで江戸時代を通じて
近隣農民が酷使された所―――とは、何処の本にも書いてはいないが、
地元の人から聞いた話し。大八衢神に付いても資料無し。
この小さな道祖神は旧中川村・大八木の西の道祖神と言われて
いるらしい。

(3)大八木の常夜燈

元に戻って「大八木町南」信号で高渋線を突っ切って東進すると直ぐ左に
巨大な常夜燈。角石の畳上げ土台だけでも身の丈を越す。

手の届かない上部に新町の学者・田口秋因作の旅の安全を祈る
和歌が彫られている。
「灯の光に さすか行かへの ひとよ夜な 夜は迷わずもがな」

元は新町の神流川の水量の少ない徒歩渡りの場所に対であったものを
M-14年に譲り受けたものと伝わる。文化十二年(1815年)の作で
丁度来合わせた小林一茶も寄附を強要されたとその句にも残しているし
広重・栄泉合作の「中山道六十九次」の新町にこの燈篭が描かれて
いるそうである。
(4)大八木「東の道祖神」
地形図は(3)と共用
常夜燈前を更に100mほど東進すると四つ角に大きな道祖神。

その彫られた字の壮大さに圧倒される。それもその筈、書は天皇家の
書道指南役だったと言われる渋川の名筆家「無限道人光旒」、
石工は「白鳥常七」、道祖神に石工の名があるのは珍しいのだそうだ。
その台石の正面には「右玉村 いせさき道」とある筈だが「いせ」まできり
地表に出ていない。左の「左まえばし道」も見えなかった。

その脇に自然石の道しるべが横倒しになっているがこれは本に記載無し。
上に「向」の字が大きくその下に「右浜尻ヲ経テ貝沢ニ通ス」「左中川村
役場ヲ経テ前橋ニ通ス」。文字の使い方からして明治以降、大正年間?

(5)大八木妙音寺
地形図は(3)と共用
浜川に向かって元の道を辿ると途中に妙音寺、

道しるべには関係無いが
「熊の墓」で有名。かつて下仁田戦争生き残りの勇士が井野川縁で
熊と格闘、見事に仕留めた。熊の胆は当然勇士に多大の金品を齎し
獣肉は近隣住民の胃袋に納まったが頭蓋を葬ったと称するのがこの墓
とされる。まあ真偽の程は定かではないが。

(6)浜川・長学寺の馬頭観世音

浜川町南信号の手前の右側に無人の荒れ寺・長学寺。ここは「首抜き閻魔像」で
有名。

ここの馬頭観音像に道しるべが在ると言うので境内を隈なく探し回る。
漸く、北口の脇に多数の石仏がコンクリート土台に固定されていたが
その中の隅に目標発見。

だが、余りにも余裕無く並べられていて肝心の刻字を見るのに大苦労。
安永四年(,1775年)の銘で「右みずさわ道 左しわいわ道」
多分、表の街道にあつたものを道路拡張で移設したのだろう。

(7)行力の道しるべ三つ(本には記載無し)
(7-1)大正の道しるべ その一

浜川十字路を左折して長野小前の細い道を右折、100m程先の三叉路に
数体の石像物が纏められている。その中の一つ。

彫りは浅いが大正十年のものなので全く傷みはなし。
「向」の字の下に「右浜川高崎 後南新波役場 左楽間」

(7-2)大正の道しるべ そのニ
行力四つ角に向かって更に北上すると楽間方面への細道の角に道しるべ。
民家の門柱脇。 (地形図はその一と共用)

これも同じく大正十年・北新波青年会による建立。
「後役場 高崎」「左楽間 車郷村」

(7-3)行力四辻の道しるべ

やがて田圃の中の四辻に石仏群、右は県道、直進は箕郷、左は楽間。

大きいのは安永三年(1774年)銘の道祖神、右手前に道しるべ、
小さな馬頭尊も。
「右北新波 高崎」「向青木 箕輪」「左高浜 室田」「後 野路」
野路と書かれた道も現在は舗装路で楽間に通ずる。

余りの暑さに閉口して道しるべシリーズはこれを以って終了。
(8)今までのハイキングや歴史探訪で偶然発見したもの。
亀穴峠藤岡側 H-18-1-11 「右新屋 天引道」「左小幡 富岡道」

榛名・氷室山登山口 H-19-10-24 「右いか不 左あかつま 善光寺」

上室田・雨堤 H-19-7-18 「大戸通 信州善光寺」「左めうぎ」

箕郷・石上寺 H-20-1-8 「右相馬山 ガラノ湯」「左ハルナ山 マツノ沢道」

吉井 H-19-12-7 「右上塩天引道」「左 八束大沢日向道」
「右上塩東谷道」「左神保吉井道」

藤岡・峰城址入り口 H-19-1-22 「右梅ノ木平」「左矢ノ口入山」

須賀尾の里 H-16-9-8 「右くさず道」「左志ん州道」
三国街道沿いを歩く積もりで飯塚の「追分」から高渋線から離れて細道を行く。
(1)三国街道・下小鳥のみちしるべ

第一病院の西側を通過して環状線を越えると直ぐに小さな二又。
ここが三国街道・草津道・箕輪道の分岐で大きな角柱道しるべがある。

古来、越後への道は何本もあり1609年以降、高崎・金子経由が本道とされると
古くからの本庄から発して玉村・小相木・古市・石倉・惣社・大久保(駒寄)・渋川の
道は「佐渡街道」とか「佐渡金山道」と別称される様になった。先日見た駒寄の
道標がその一つだった。
正面に大きく「右越後」とあり、その下に平仮名で「ぬまた さはたり いかほ
しま くさつ かわらゆ」とあつてその下に大きく「道」、

左側面には「左はるな道」

(2)井野川の渡し

この道を北進し東西の道を一本突っ切って電設会社の西を通って井野川の
淵まで来ると右に「大八衢神」と彫られた大きな石碑と道祖神を含む
小さな石像数体、ここは三国街道井野川の渡しで江戸時代を通じて
近隣農民が酷使された所―――とは、何処の本にも書いてはいないが、
地元の人から聞いた話し。大八衢神に付いても資料無し。
この小さな道祖神は旧中川村・大八木の西の道祖神と言われて
いるらしい。

(3)大八木の常夜燈

元に戻って「大八木町南」信号で高渋線を突っ切って東進すると直ぐ左に
巨大な常夜燈。角石の畳上げ土台だけでも身の丈を越す。

手の届かない上部に新町の学者・田口秋因作の旅の安全を祈る
和歌が彫られている。
「灯の光に さすか行かへの ひとよ夜な 夜は迷わずもがな」

元は新町の神流川の水量の少ない徒歩渡りの場所に対であったものを
M-14年に譲り受けたものと伝わる。文化十二年(1815年)の作で
丁度来合わせた小林一茶も寄附を強要されたとその句にも残しているし
広重・栄泉合作の「中山道六十九次」の新町にこの燈篭が描かれて
いるそうである。
(4)大八木「東の道祖神」
地形図は(3)と共用
常夜燈前を更に100mほど東進すると四つ角に大きな道祖神。

その彫られた字の壮大さに圧倒される。それもその筈、書は天皇家の
書道指南役だったと言われる渋川の名筆家「無限道人光旒」、
石工は「白鳥常七」、道祖神に石工の名があるのは珍しいのだそうだ。
その台石の正面には「右玉村 いせさき道」とある筈だが「いせ」まできり
地表に出ていない。左の「左まえばし道」も見えなかった。

その脇に自然石の道しるべが横倒しになっているがこれは本に記載無し。
上に「向」の字が大きくその下に「右浜尻ヲ経テ貝沢ニ通ス」「左中川村
役場ヲ経テ前橋ニ通ス」。文字の使い方からして明治以降、大正年間?

(5)大八木妙音寺
地形図は(3)と共用
浜川に向かって元の道を辿ると途中に妙音寺、

道しるべには関係無いが
「熊の墓」で有名。かつて下仁田戦争生き残りの勇士が井野川縁で
熊と格闘、見事に仕留めた。熊の胆は当然勇士に多大の金品を齎し
獣肉は近隣住民の胃袋に納まったが頭蓋を葬ったと称するのがこの墓
とされる。まあ真偽の程は定かではないが。

(6)浜川・長学寺の馬頭観世音

浜川町南信号の手前の右側に無人の荒れ寺・長学寺。ここは「首抜き閻魔像」で
有名。

ここの馬頭観音像に道しるべが在ると言うので境内を隈なく探し回る。
漸く、北口の脇に多数の石仏がコンクリート土台に固定されていたが
その中の隅に目標発見。

だが、余りにも余裕無く並べられていて肝心の刻字を見るのに大苦労。
安永四年(,1775年)の銘で「右みずさわ道 左しわいわ道」
多分、表の街道にあつたものを道路拡張で移設したのだろう。

(7)行力の道しるべ三つ(本には記載無し)
(7-1)大正の道しるべ その一

浜川十字路を左折して長野小前の細い道を右折、100m程先の三叉路に
数体の石像物が纏められている。その中の一つ。

彫りは浅いが大正十年のものなので全く傷みはなし。
「向」の字の下に「右浜川高崎 後南新波役場 左楽間」

(7-2)大正の道しるべ そのニ
行力四つ角に向かって更に北上すると楽間方面への細道の角に道しるべ。
民家の門柱脇。 (地形図はその一と共用)

これも同じく大正十年・北新波青年会による建立。
「後役場 高崎」「左楽間 車郷村」

(7-3)行力四辻の道しるべ

やがて田圃の中の四辻に石仏群、右は県道、直進は箕郷、左は楽間。

大きいのは安永三年(1774年)銘の道祖神、右手前に道しるべ、
小さな馬頭尊も。
「右北新波 高崎」「向青木 箕輪」「左高浜 室田」「後 野路」
野路と書かれた道も現在は舗装路で楽間に通ずる。

余りの暑さに閉口して道しるべシリーズはこれを以って終了。
(8)今までのハイキングや歴史探訪で偶然発見したもの。
亀穴峠藤岡側 H-18-1-11 「右新屋 天引道」「左小幡 富岡道」

榛名・氷室山登山口 H-19-10-24 「右いか不 左あかつま 善光寺」

上室田・雨堤 H-19-7-18 「大戸通 信州善光寺」「左めうぎ」

箕郷・石上寺 H-20-1-8 「右相馬山 ガラノ湯」「左ハルナ山 マツノ沢道」

吉井 H-19-12-7 「右上塩天引道」「左 八束大沢日向道」
「右上塩東谷道」「左神保吉井道」

藤岡・峰城址入り口 H-19-1-22 「右梅ノ木平」「左矢ノ口入山」

須賀尾の里 H-16-9-8 「右くさず道」「左志ん州道」

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