「パ・リーグを盛り上げる為に西武を勝たせているのでは?」などと球界雀がやっかむほど西武と対戦する5球団は自滅を繰り返している。勿論、そんな八百長試合が行われている筈はないが相手球団の自滅は「当たらずとも遠からず」なのだ。西武フロント幹部は「広岡さんは意図的に相手を挑発して冷静さを欠けさせて空回りさせた」と明かす。
昨年暮れの監督就任後からマスコミを巧みに利用するようになる。田淵の一塁コンバートをブチ揚げ話題を提供する。ある意味で指名打者制度の否定であり、つまりはパ・リーグ野球を否定する事になる。当然のように他球団の監督・コーチらは反発し「やれるもんならやってみろ」と息巻いた。次いで「肉を無闇に喰っていては体を壊し選手寿命を縮める」…これには日ハムの大沢監督が噛みついた。当然である、なにせ親会社は「ハム」を扱うのだから。「菜っ葉ばかり食べているヤギさんチームに負けられるか」と広岡監督の思うツボ。春季キャンプが始まると詰めかけた多くのファンを見渡しながら阪急をチクリ。西武がキャンプを張る春野の近くで阪急もキャンプをしていたが訪れるファンは西武と比べると遥かに少ない。頭に血が昇った上田監督は「西武を倒すには石毛を潰すに限る」とばかり「イシゲくん」なる人形を本人に見立てて強烈なスライディング練習を導入するなど大人げない対応をする始末。
一方で懐柔策も怠らない。「あまり知られていないけどブレイザー監督(南海)は僕の師匠とも言える存在なんですよ。昭和35年だったかな、日米親善野球で来日したブラッシングゲーム選手(ブレイザー監督)のプレーを見て多くを学んだ。当時の僕は守備で悩んでいて一種のノイローゼ状態だったけど彼のプレーをヒントに迷いから覚めたんだ」と語り、この話をマスコミが伝えるとブレイザー監督も悪い気はしない。すかさず「ヒロオカはグッドガイだ。彼の目指すスタイルは私がやろうとしているベースボールと同じ。共に良いマネージメントが出来るといいね」と応えた。前年度Aクラスの日ハムや阪急には挑発して火を付け自滅を狙い、Bクラスに低迷したものの対西武には勝ち越した南海の西武に対する敵愾心を弱めるべく懐柔するなど広岡は巧みだった。
開幕の日ハム戦を1勝2敗と負け越した後も波に乗れず5勝5敗で迎えた南海を3タテ、続く近鉄戦を1勝1敗で乗り切り当面のライバルとなる阪急戦に挑んだ。上田監督とは浅からぬ因縁がある。現西武管理部長の根本氏が広島カープの監督だった時に上田はコーチだったが「この監督のやり方にはついて行けない」と自ら申し出て退団したが、その後釜だったのが広岡。昭和53年の日本シリーズで大杉の左翼ポール際に放った「ホームラン」の判定に猛抗議をし試合後に退団する事態にまで発展したヤクルト戦の相手監督も広岡。阪急退団後の評論家時代に西武・堤オーナー直々に監督就任要請を受けるも固辞し阪急の監督に復帰すると西武の監督の座に収まったのも広岡。上田に広岡を意識するなと言うのは無理だろう。結局、この時は広岡に軍配が上がり、その後も対戦成績は西武の4勝1敗と両軍の対戦は西武が主導権を握る事となった。しかも4勝すべてが1点差勝利であった事も上田の血圧を上昇させた。
その後は下位に低迷するロッテや南海から確実に勝ち星を稼ぎV軌道に乗り5月18日に天王山となる日ハム戦を地元西武球場で迎えた。18日は序盤に日ハムが3点を奪いリードしたが6回裏に石毛・スティーブ・田淵の1イニング3本塁打で追いつき高橋一三投手をKOした。日ハムは何とか江夏に繋げようと高橋里や川原を投入するも8回には無死満塁のピンチを迎え、予定よりも早く江夏登板を余儀なくされた。江夏は山崎を三振に討ち取ったが続く片平が意表を突くスクイズを決め決勝点を奪い西武が勝利した。翌19日の試合も終盤までもつれたが大沢監督が連投となる江夏投入を一瞬躊躇した隙を西武が突きテリーの犠飛であげた1点を守りきり西武が連勝した。
これで1点差勝利は22勝中9勝と西武は接戦をものに出来るチームに変貌した。1点差勝利は相手が苛立てば苛立つほど相手はこちらの術中に嵌ると言える。相手チーム、特に監督が広岡監督の影に怯えるほど接戦を落とす事になるのだ。球団創設時は優勝など夢のまた夢と思われたが今や現実味を帯びてきた。