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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 627 週間リポート・ヤクルトスワローズ

2020年03月18日 | 1976 年 



オレちっとも嬉しくないョ
1000奪三振も負け投手に大ぼやきの松岡
「三振より勝ち星が欲しいよ」と松岡投手は思わず呟いた。小雨模様の4月14日、本拠地・神宮球場での初ナイターとなった大洋戦の2回表に江尻選手を三振に仕留めてプロ入り通算1000奪三振(両リーグ52人目)を達成した。試合はヤクルトが1点を先行したが4回表に大洋が松原選手の適時打で同点に追いついた。雨の影響が出たのは5回表。ぬかるんだマウンドに踏み出した左足を滑らせた松岡が「途中で投げるのを止めると怪我をすると思ってそのまま投げた。ボール球にするつもりが投手の習性でストライクゾーンに投げてしまった」と悔やんだが後の祭り。その失投を見逃さなかったゲーリー選手に左翼席中段まで運ばれてしまいヤクルトは1点のビハインド。

ただ松岡は6回表を終えた時点で毎回の8奪三振と快調だった。ところが7回表になると突然の豪雨に見舞われコールドゲームに。「情けないったらありゃしない。何の為の記録だい。勝ち星に花を添える1000奪三振なら嬉しいが負けたら意味ないよ(松岡)」とブスッとした表情。プロ初奪三振は昭和44年4月13日の巨人戦の2回に王選手から。「緊張で当時の記憶は全く無い。その後に人並みの投手になってから三振を意識するようになった。王さんには5打席5四球もあれば4打席4三振もある。1000奪三振はいつかは達成できるだろう、程度で特に固執することはなかった。投手の評価は三振より勝ち星だと思う。だから負けちゃ意味はない」と悔しさを隠さない。

嬉しさも中くらいどころか陽気な松岡にしては珍しくボヤキ、ボヤキ、またボヤキだった。もしこの試合を勝っていたら通算96勝で史上67人目の通算100勝にまた一歩近づけたところだった。同じ年齢で本格派速球投手として何かと比較される堀内投手(巨人)、平松投手(大洋)はとっくに100勝をクリアしていて松岡は一歩遅れをとっているだけに悔しさ倍増だったのである。「ウチの打線が湿っている?だったらなおさら俺が相手打線を抑えなきゃダメだった。個人の勝負に勝ってチームで負けた。エースとして情けない(松岡)」と自分を責めるが、ヤクルトは初回のロジャー選手のソロ本塁打だけに抑えられたのだから松岡一人の責任ではない。



わしゃあビックリすたワイ
イの一番くじ引いてお国なまりも冴える佐藤球団社長
「わしゃ~ビックリすた」を連発するのはドラフト会議で一番クジを引き当てた佐藤球団社長。お国(岩手)訛りの東北弁を丸出しで会う人ごとに「ビックリすた」を繰り返すのは嬉しさの裏返しでもある。佐藤社長は予備抽選が五番目。つまり本抽選では残り8枚の中から見事に一番クジを引いた。「席を立つ時に五番以内のクジがまだ3枚残っているのは分かっていた。とにかくラッキーセブンじゃと決めていた(佐藤)」と振り返る。8枚の封筒は2列に並んでいた。右利きの佐藤社長は右から七番目の封筒を躊躇なく手にした。実は予備抽選で一番だった日ハムは本抽選で一度その当たりの封筒を手にしたが、思い直して隣の封筒を引いた。結果は十一番目だった。

「やはり斉戒沐浴。朝出てくる時にシャワーを浴びて頭のてっぺんからつま先まで清めてから来たのが良かったのかな(佐藤社長)」。過去9年間で最高は昭和43年の五番目。ヤクルトになってからはクジ引きは佐藤社長と松園オーナーが交互に務めてきたが、クジ運は決して良くはなく「ドラフトはいかん。選手の人権蹂躙も甚だしい(佐藤社長)」と人権派弁護士よろしくドラフト批判をしばしば展開していたが、この日ばかりは「ドラフトもいいねぇ」とは現金なもんだ。御年75歳の佐藤社長の趣味はゴルフで過去にホーインワンを四度経験しているが、一番クジはその時以上の興奮だという。「この当たりクジは封筒と共に球団の神棚に大事に供えたい(佐藤社長)」と。

ドラフト最大の目玉 " サッシー " こと酒井投手(長崎海星)指名が佐藤社長に課された使命だった。何しろ松園オーナーと同郷の長崎が生んだスター選手で松園オーナーから「何が何でも酒井君を頼むよ」と手を合わされていたが「頼むと言われてもクジですから…」と頭を抱えていた。それだけに指名後は「いや~良かった、良かった」と胸を撫で下していた。当初はドラフト会議に出席する予定だった松園オーナーだが所用で叶わなかった。松園オーナーが酒井指名の吉報を受けたのは関西出張帰りで新橋にあるヤクルト本社へ戻る車内無線。「ウチは優勝から見放されているから、そろそろ運が回って来ると信じていた。ドラフト万々歳だ(松園)」と笑顔また笑顔だった。



酒井家の一族に負けた首脳陣
税込み三千万円から手取り三千万円でやっとサッシー獲得
" サッシー " がついにヤクルトに入団した。12月8日、長崎の東急ホテルで松園オーナーも同席して盛大な入団発表を行なった。冒頭で「ついに」と表現したが一時は入団が越年する可能性すらあったのだ。入団発表会場の隅で感慨深げに見守る小山スカウト部長や内田スカウトの安堵した表情が交渉の難しさを物語っていた。契約金は手取り3000万円・年俸240万円。手取り3000万円といえば税込みで3800万円を越す。小山・内田スカウトが長崎の酒井家を訪ねたのは計5回で球団が当初提示したのは税込みで3000万円だった。酒井家は親族会議を開き「3000万は大金だが、イの一番指名なのだから手取りでなければ…」と態度を硬化させていた。

この時すでに12月8日に松園オーナー臨席のもと長崎で入団発表を行なうスケジュールが決まっておりスカウト達は焦っていた。だが酒井家の牙城は固く突破口すら見い出せぬままタイムリミットが刻一刻と迫って来た。発表前々日の6日の交渉も決裂した両スカウトは辞職も覚悟でヤクルト本社に掛け合って手取り3000万円を認めさせた。ところが今度は酒井の父親・義員さんが「心の整理がつかない」として冷却期間を申し入れた。「何だか自分の息子をセリにかけているみたいで…(義員さん)」と難航する交渉を見る世間の目を気にしたのだ。冷却期間の申し出に球団側も慌てたが、静かに待つしかなかった。

翌7日になって結局「お世話になりたい(義員さん)」と返事が出されて滑り込みセーフの入団発表となった。この間の交渉で憔悴しすっかりやつれきった小山・内田両スカウトと、入団発表会場のメインテーブルで郷里長崎が生んだスーパースター投手と握手をして満面の笑顔の松園オーナー。この好対照の表情に気がついた参列者は会場内に果たして何人いたであろうか。酒井の背番号はエースナンバーの『18』。来年の5月には " 酒井デー " を設けて長崎で公式戦を行なうとブチ上げた松園オーナー。担当記者の間では「来年はキャンプから酒井・酒井のオンパレードになりそうだなぁ」という声も起こったとか。何ともケタ外れな新人である。
コメント
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