長年の新聞記者生活で筆者は独自のアンテナ網を球界に張り巡らせていた。その網にかかったのが「阪神は江夏を出したがっている」と「野村が巨人入りを望んでいる」のビックな情報だった。もしこれらが本当なら球界地図が塗り替えられるような天変動が起きる・・
昭和50年の12月初旬の事だった。自宅の電話がけたたましく鳴った。昔の新聞記者仲間で大阪の球界事情通として一目置かれているK氏からだった。「阪神が江夏を放出しますよ。巨人で獲りませんか?」 にわかには信じられない情報だった。K氏を疑う訳ではないが一応は自分の情報網を駆使して確認した所、確かに阪神球団のトップレベルで交換トレードを画策していた。私は直ぐに佐伯常務に報告し「獲る価値は有りますよ」と進言したが佐伯常務は「阪神がウチに出すかね」と余り乗り気ではなかった。とにかく今はこちらから動かず状況を見守ろうという事に落ち着いた。
佐伯常務が今一つ乗り気でなかった理由がいわゆる「黒い霧事件」に江夏が関与しているのでは、という当時の世間の声だった。個人的には江夏の潔白を信じたかったが球団上層部を納得させるには確証が必要だった。そこで讀賣新聞を通じて関西地方の組織暴力団について事細かに把握している大阪府警、兵庫県警に情報を求めた。しかし年末で忙しかったのも手伝い回答はなかなか得られなかった。そうこうしていると12月24日付のスポーツ紙が『江夏(阪神) ⇔ 江本(南海)の交換トレード成立』と報じて愕然としたが直ぐに阪神の長田球団代表が「数球団から打診があるのは事実だが江夏は来季の構想に入っている」と否定した事でまだ脈アリと判断し情報収集を続行した。
間もなくK氏から「長田代表の話は嘘。26日に契約更改予定と言っていたが本人には連絡していない」と情報が入った。その時点で未だ警察からの返事は無かったが私の独断で江夏に接触する事を決めて電話をかけた。「一度お会いして話をしたいのですが」「暮れに東京へ行きますからその時に」「では29日に是非」など会いたい理由は告げなかったがお互い阿吽の呼吸だった。29日夜、場所はホテルニューオータニ
「巨人に来る気はないですか?」
「やはりその話でしたか。私も早くスッキリしたいと思っています」
「是非とも来て頂きたい。長嶋監督も賛同しています」
「巨人軍が本気で私を欲しいと思っているなら異存はありません」
「あなたの気持ちは分かりました。上層部と相談して話を進めます」
江夏は阪神球団や吉田監督の事を批判する事なく終始折り目正しい口調で応対し、巷間伝えられているような人間でない事を確信した。年が明け昭和51年の仕事始めとなった日に大阪府警、翌日には兵庫県警から相次いで回答があった。共に「江夏の身辺は全くのシロ」だった。その結果を持って讀賣新聞本社9階のオーナー室で正力オーナー、長谷川球団代表、佐伯常務と私の4人で会議が開かれた。江夏獲得で意見は一致したが肝心の交換要員の目途が立たず阪神球団にトレードの申し込みすら出来ずに時間ばかりが過ぎて行った。やがて1月19日のスポーツ紙に南海と「3対5」の交換トレードが成立と報じられるに至り、残された時間は少ないと判断した上層部がようやくトレード申し込みに動いた。
1月22日、私はオーナー室から阪神球団へ電話をかけ、長田代表が電話に出ると長谷川代表に代わった。「巨人軍の長谷川です。お宅の江夏君をトレードして頂きたいのですが…」私は固唾を飲んで次の言葉を待った。「そうですか。それは残念ですが縁が無かったという事でしょうな。失礼しました」と言うと電話を切った。「きょう決めたそうだ。やはり南海だ。遅かったな」と一息入れて答えた。トレードは確かに難しい。だがタイミングさえ良ければ成立もする。そんな教訓を得た江夏のトレード話だった。幻に終わったトレード話は幾つかある。野村監督の場合もその一つだ。
昭和50年8月の阪神戦で大阪に遠征した際に当時の毎日放送アナウンサーM氏が宿舎を訪れ「その辺で一杯やりながら…」と誘われ近くのバーでグラスを傾けた。他愛もない雑談の後「巨人でノムさんを獲らんかな」とポツリ。「ノムさんて、あの野村監督?」と聞き返すと「そう。色々と球団と揉めていて本人から相談されたんだ」と一連の愛人騒動で南海を出たいと言っているらしかった。当時の巨人は32勝48敗4分で最下位に低迷していたが投手陣の不調に加えて捕手陣のリードにも低迷の原因があると批判されていた。そんな状況下で野村捕手の卓越した頭脳とリードは魅力的だった。ただ懸念は長嶋監督の存在。道程は違っても共に大スターの道を歩んできた者同士、ぶつかり合う可能性もあった。野村監督は「気にしない」と言ったが長嶋監督は「どうかなぁ…」その一言でこの話は消えた。野村監督の南海残留が発表されたのは数日後だった。
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