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買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 753 幻の江夏二世

2022年08月17日 | 1977 年 



傷心の痛手からプロの苦しかった2年間を忘れるために九州旅行へこっそりと寂しく旅立った一人の男がいる。巨人・定岡と同期の桜、3年前のドラフトでカネやんロッテから「金田二世」・「江夏二世」として1位指名で華やかな脚光を浴びて入団した左腕・菊村徳用投手である。

傷心を癒す為に九州へ一人旅
菊村は実家の尼崎市七松町にいる父親・栄一さん(45歳)、母親・道子さん(44歳)にさえも具体的な行き先を告げることなくフラリと旅立った。「ただ九州に行ってくるとだけ言い残して出かけました。2年間のプロ生活でいろいろあったので、それを忘れる為の旅行だと本人は言っていました」と栄一さんは言葉少なに言う。僅か2年でプロ野球界から去らなければならない自らの運命に一人で心ゆくまで泣きたかったに違いない。その気持ちは痛いほど分かる。当時二軍監督だった醍醐ヘッドコーチは菊村に対して自分の事のように唇を噛んで悔しさを露わにした。

「本来なら今年がプロ3年目で芽が出始める時期だったんですがね。肩やヒジを痛めて投げられないという訳ではなく内臓を壊して野球を辞めざるを得ないなんて可哀そうですよ(醍醐)」と。入団時の菊村は178cm・73kgと標準的であったが、体重は減る一方で65kgまで痩せてしまった。心配した球団職員の勧めで球団専属医の診察を受けたが結果はショッキングなものだった。膵臓の疾患で「このままプロの厳しい生活を続けたら命にかかわる」と完全なドクターストップだった。「金田監督や江夏さんのような球界を代表する左腕投手になりたい」と大きな夢を抱いていた菊村にとって目の前が真っ暗になる宣告だった。


山口や高校ビッグ4以上の評価もあった
それでも菊村は今年のキャンプに参加し改善の道を探ったが西垣球団代表や高木二軍監督と相談して退団して第2の人生を歩むことを決めた。菊村の名前が知られるようになったのは昭和49年11月9日に行われた第11回ドラフト会議だった。指名くじ9番目を引いたロッテは古賀正明(丸善石油➡太平洋クラブ)、永川英植(横浜高➡ヤクルト)、長谷川勉(日産自動車➡南海)ら評価が高かった投手を差し置いて菊村を指名した。この年の目玉は山口投手(阪急)で菊村はいわゆる高校ビッグ4の永川、工藤(阪神)、土屋(中日)、定岡(巨人)以上の実力の持ち主と言われた逸材だった。

菊村が中央球界で無名だったのは甲子園の檜舞台に一度も登場しなかったせいだが、ロッテの榎原スカウトは「阪神で大成した江夏投手と比べてもヒケはとらない。球速は江夏の方があるでしょうけど球の伸びは菊村が上ですよ」と評価した。事実、ロッテ以外のスカウトの中にも高校ビッグ4より菊村を評価する声は少なくない。高校時代は1試合平均13奪三振で「甲子園に出場していれば貴重な左腕ですし、それこそ大騒ぎになっていたでしょうね」と在京セ・リーグ球団スカウトは言う。将来性という点では誰もが認める投手だった。だが当初はセ・リーグ志望だった菊村はロッテ入りを渋っていた。そんな菊村の許にカネやんが直々に説得に訪れ口説き落とした。

ドラフト1位指名にしては低額の1500万円・年俸180万円が提示された。「エエか菊村、契約金の吊り上げとかしたらアカンで。お金はプロに入って自分の腕で稼ぐもんや。ワシが国鉄に入団した時は支度金がたった50万円やった。『金は自分で稼ぐ。ヤッタルで』と発奮したもんや。最初から契約金は無かったものと思って両親に差し上げなさい」と菊村や両親の前でカネやん節を炸裂させた。これには菊村の両親は感激して「いいか徳用、金田さんみたいに一人前になるまで絶対に家に帰って来るな」とプロの世界に送り出したのだった。菊村はカネやんにとって自分を目標にしている将来性豊かな左腕で秘蔵っ子だった。


内臓弱い若者に過酷だったキャンプ
菊村は希望に胸を膨らませて1月15日に埼玉県鶴瀬の東京證券グラウンドで始まった自主トレに参加した。トレーニングウエアに身を包んだ菊村をみたカネやんは「ほほう、なかなかエエ体つきしとるやないか」と目を細めた。だが菊村にとってロッテの自主トレは想像以上に厳しいものだった。「監督からロッテの練習は厳しいと聞かされていましたが、これほどキツイとは思っていませんでした」と菊村は項垂れた。何しろロッテの練習は『走れ、走れ』と最低40分は走り続ける12球団イチのハードトレーニングで有名で、日頃から鍛えている現役選手でさえ根を上げる程なのだから高校生が付いていけないのも当たり前なのである。

その後の鹿児島キャンプも怪我なく乗り切って、3月1日の大洋とのオープン戦初戦に先発登板を果たす。だが18歳のルーキーには荷が重すぎた。打者8人・2安打・4四球で4失点。1回もたず降板した。「緊張してしまって何が何だか分からないうちに4点も取られてしまいました」と放心状態の菊村だった。「誰だって最初は緊張するもんや。次や次!」とカネやんは菊村の捲土重来を期待して再び同じ大洋相手に先発に起用した。だが今度も打者5人に四球あり、暴投ありの大荒れで長崎選手に3ラン本塁打を浴びて1アウトを取っただけで再びKOされた。さすがのカネやんも今度ばかりは「基礎体力不足。下でイチから鍛え直しや」と二軍落ちを命じた。


ラフィーバーらの特製メニューも空し
昭和50年の後半戦から二軍のコーチに配置替えになったラフィーバーの指導の下、菊村は基礎体力作りに専念した。しかしなかなか結果に現れなかった。寧ろ体力が減退していったのだ。ラフィーバーは「キクムラは内臓が弱いから何を食べてもパワーの源である筋肉が付かない。もっとウェイトを増やさないと大成しない」と嘆いた。実は菊村は偏食の傾向があった。練習後のグラウンドでは水ではなくジュース類をガブ飲みし、ステーキなどの肉類を殆ど口にしなかった。ラフィーバーは自身が経営する故郷のカリフォルニアにある健康食品会社からビタミン剤を取り寄せて菊村に与えたが効果はなかった。

それでも菊村は必死に投げ込みを続けて二軍の試合で投げた。期待された昨年は二軍戦8試合に登板して0勝1敗・防御率3.52 。高卒2年目としては可もなく不可もなくな成績だが、23イニング投げて22四死球と制球力に難があるのは明らかだった。「武山でやったヤクルト戦で7回まで投げたんですよ。確か二度目の先発でしたがリードしていて二軍とはいえプロ初勝利目前だったがリリーフ投手が打たれて勝ち星を逃してしまった。あそこで勝っていれば自信がついて違った野球人生だったかも」と醍醐コーチは悔やむ。

球団からは「身体がしっかり治ったら再契約する」と言われ実家に近い県立尼崎病院に通って膵臓の治療にあたっていたが、なかなか改善しない状況に菊村は「もう野球の世界には戻らない」と近しい友人に話していた。ファンにとってもライバルだった定岡らビッグ4が足踏み状態であるだけに菊村の引退は残念でならない。菊村本人にとっても内臓疾患でプロ野球選手を断念する悔しさは想像に難くない。だがプロ野球選手だけが人生ではない。この貴重な2年間の経験を活かせば第二の人生に大きく役立つことは間違いあるまい。人生の勝利者になれるのは寧ろこれからなのだ。

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