最近でこそトレードは活躍の場を求めてのチャンスと考えるようになりましたが、以前のトレードは
"放出"であり、チームに不要な選手であるとの烙印を押されたと思うことが多かったのでした。
◆大下弘 (東急→西鉄)
戦後の本塁打ブームを作った「青バット」の大下の移籍は決着するまでに4ヶ月を要しました。当時は統一契約書が
確立されておらず、またリーグ分裂騒動の余波で選手の引き抜きが横行しており混乱していました。昭和26年11月
東急は大下に契約更新を申し入れ交渉しましたが、途中でこじれて大下は退団を決意。東急も移籍先を近鉄・西鉄
大映・毎日に絞り天秤に掛けて最終的に西鉄に決め大下の代理人がサインしました。しかし大下本人が西鉄入りを
拒否、近鉄を希望しサイン。両球団とも一歩も引かず膠着状態が続いている状況を見て今度は毎日が「どちらに決定
しても遺恨が残るだろうからウチが引き受ける」と登場してきてさらに混乱。だが毎日の球団社長は実はパ・リーグの
会長を兼務していたので「公平・公正でない」として毎日入りも暗礁に。最後はコミッショナーが乗り出してきて翌年の
ようやく4月になって西鉄入りが決まりました。
◆田宮謙次郎 (阪神→大毎)
投手として入団しましたが肩を痛めて打者に転向後3年目には打撃ベスト10に入るなど阪神打線の主軸に成長しました。
その後もベスト10 の常連で、特にルーキー長嶋との首位打者争いを制し初の首位打者となり長嶋の新人での三冠王を
阻止しました。しかし球団内での田宮の評価は低く給料はチーム内で10番目以下 人気者の吉田義男の半額以下でした。
首位打者のタイトルを獲得した年はちょうど「A級10年選手」の資格を得たこともあり田宮は強気に交渉しましたが、阪神は
あっさり交渉打ち切り。給料アップも10年目のボーナス支給も拒否する阪神に見切りをつけ大毎に移籍しました。
◆江藤慎一 (中日→ロッテ)
中日で"燃える男"と言えば星野仙一ですが、星野の先代は江藤でした。昭和39-40年と2年連続で首位打者となるなど
押しも押されぬ中日の主軸でしたが、昭和44年 低迷するチームの建て直しに球団OBではなく初めて外部から招聘した
水原監督の構想から江藤は外れました。「オレは中日の江藤なんだ、他のチームなんぞに行ってたまるか」と反発。江藤も
球団も折れることはなく、遂に江藤は任意引退を選びました。時間が経ち冷静になった江藤はユニフォームを脱ぐことへの
寂しさに苦しみ、単身 東京の水原宅を訪ね玄関口で土下座し「すみませんでした。ボクを中日に残して下さい」と懇願します。
しかし水原は「球団の方針で決まった話だからオレには何とも出来ないよ」と冷たく言い放ちました。それまでにも過去何度も
江藤は歴代監督と衝突してきましたが切られるのは、いつも監督の方でした。しかし今回ばかりは相手が大物過ぎました。
春のキャンプが始まっても江藤は自宅に籠もったまま、そんな江藤が気持ちを切り替えてトレードを受け入れたのが6月に
入ってからでした。この移籍によって翌年 江藤は初の両リーグでの首位打者を成し遂げることになります。
"放出"であり、チームに不要な選手であるとの烙印を押されたと思うことが多かったのでした。
◆大下弘 (東急→西鉄)
戦後の本塁打ブームを作った「青バット」の大下の移籍は決着するまでに4ヶ月を要しました。当時は統一契約書が
確立されておらず、またリーグ分裂騒動の余波で選手の引き抜きが横行しており混乱していました。昭和26年11月
東急は大下に契約更新を申し入れ交渉しましたが、途中でこじれて大下は退団を決意。東急も移籍先を近鉄・西鉄
大映・毎日に絞り天秤に掛けて最終的に西鉄に決め大下の代理人がサインしました。しかし大下本人が西鉄入りを
拒否、近鉄を希望しサイン。両球団とも一歩も引かず膠着状態が続いている状況を見て今度は毎日が「どちらに決定
しても遺恨が残るだろうからウチが引き受ける」と登場してきてさらに混乱。だが毎日の球団社長は実はパ・リーグの
会長を兼務していたので「公平・公正でない」として毎日入りも暗礁に。最後はコミッショナーが乗り出してきて翌年の
ようやく4月になって西鉄入りが決まりました。
◆田宮謙次郎 (阪神→大毎)
投手として入団しましたが肩を痛めて打者に転向後3年目には打撃ベスト10に入るなど阪神打線の主軸に成長しました。
その後もベスト10 の常連で、特にルーキー長嶋との首位打者争いを制し初の首位打者となり長嶋の新人での三冠王を
阻止しました。しかし球団内での田宮の評価は低く給料はチーム内で10番目以下 人気者の吉田義男の半額以下でした。
首位打者のタイトルを獲得した年はちょうど「A級10年選手」の資格を得たこともあり田宮は強気に交渉しましたが、阪神は
あっさり交渉打ち切り。給料アップも10年目のボーナス支給も拒否する阪神に見切りをつけ大毎に移籍しました。
◆江藤慎一 (中日→ロッテ)
中日で"燃える男"と言えば星野仙一ですが、星野の先代は江藤でした。昭和39-40年と2年連続で首位打者となるなど
押しも押されぬ中日の主軸でしたが、昭和44年 低迷するチームの建て直しに球団OBではなく初めて外部から招聘した
水原監督の構想から江藤は外れました。「オレは中日の江藤なんだ、他のチームなんぞに行ってたまるか」と反発。江藤も
球団も折れることはなく、遂に江藤は任意引退を選びました。時間が経ち冷静になった江藤はユニフォームを脱ぐことへの
寂しさに苦しみ、単身 東京の水原宅を訪ね玄関口で土下座し「すみませんでした。ボクを中日に残して下さい」と懇願します。
しかし水原は「球団の方針で決まった話だからオレには何とも出来ないよ」と冷たく言い放ちました。それまでにも過去何度も
江藤は歴代監督と衝突してきましたが切られるのは、いつも監督の方でした。しかし今回ばかりは相手が大物過ぎました。
春のキャンプが始まっても江藤は自宅に籠もったまま、そんな江藤が気持ちを切り替えてトレードを受け入れたのが6月に
入ってからでした。この移籍によって翌年 江藤は初の両リーグでの首位打者を成し遂げることになります。
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