セ・パ12球団に「コーチ」の肩書を持つ者は数多くいるが背番号のないコーチは竹之内だけだ。シーズン途中に引退しコーチに就任した際の手続上の都合で正式な肩書は「阪神球団管理部付」で、いわば通訳と同じく球団職員扱いの為に背番号は無い。現在の竹之内は公式には存在しない背番号「2」のユニフォームを着て練習の手伝いにグラウンドで忙しく動き回っている。
神奈川県の公郷小学校入学後に野球を始め池上中学校に進む頃には竹之内の名前は県下に知れ渡っていた。高校は鎌倉学園のセレクションに合格して入学。昭和37年のセンバツ大会に五番・二塁手として出場しベスト8まで勝ち進んだ。高校卒業時には法政大学から勧誘されたが社会人野球の西濃運輸浦和に就職した。「高校生の時に親父が亡くなって貧しかったから働く道を選んだ」と。
昭和42年のドラフト会議で西鉄から3位で指名されたが「家で男は自分だけ。母親と妹を残して九州には行けない」と竹之内はなかなか首を縦に振らなかった。西鉄も簡単には諦めず翌年の春季キャンプが目前に迫った頃にようやく口説き落とした。西鉄幹部も家庭の事情を考慮して最初に提示した契約金に「結構な額(本人談)」の上積みを申し出たが「今まで入団を渋っていた理由はお金じゃなく家の事。金に目がくらんでプロ入りしたと思われたくない」として最初の提示額で契約した。
しかし入団した竹之内を待っていたのは厳しい現実だった。いわゆる黒い霧事件や身売りに次ぐ身売りで毎年のように変わるユニフォームを屈辱に耐えて着て、他球団の選手が生き生きとプレーしているのを九州の地から唇を噛み締めて見つめていた。密かに引退を決意した時に真っ先に伝えたのは大洋の基選手だった。年齢は竹之内が1つ上だがプロ入りは基が1年先輩の間柄で辛い九州時代を過ごした良き戦友。「俺なぁ引退するわ。そっちは俺の分まで頑張ってくれや」 基は「そうか…」とだけで多くを尋ねなかった。口に出さなくてもお互い分かり合える、そんな仲なのだ。
「入団当初の西鉄はまだ黄金期の名残もあって雰囲気は良かったけど徐々に転落していった感じだった」「1年目の夏には1軍に上れて初安打(昭和43年8月10日の阪急戦で梶本投手から)も打てたし恵まれたスタートだったよ」黒い霧事件で主力が抜けた為に若手にもチャンスが与えられ1軍に定着したが阪神とのトレード話が決まった頃は常々「他球団に移籍したいと思っていただけに『しめたッ』と思った」そうだ。阪神の狙いは若手の真弓や若菜であり既に峠を過ぎたと見られていた竹之内は人数合わせの付け足し要員だったが当初の予想を裏切る活躍を見せ、特に昭和55年にはサヨナラ本塁打2本、サヨナラ安打2本と4度のサヨナラ劇を演じ「サヨナラ男」の称号を得た。
内角球を恐れず踏み込んで打つスタイルで15年間の現役生活で166個の死球を受けて「死球王」の代名詞とも言われたが結果的にはその死球が引退への引き金となってしまった。昭和56年5月10日のヤクルト戦で右手首に死球を受けて尺骨を骨折。ボルトを埋め込む手術をし8月9日の中日戦から復帰したが復調しないままシーズンを終了した。この年は33試合出場で打率.173、3打点とプロ入り初めて本塁打ゼロとなってしまった。オフになりボルトを外す再手術をしたが、この時に初めて竹之内の頭に「引退」の2文字がよぎったと言う。翌年に再起を賭けるも気持ちに体はついて行けなくなっていた。先発・代打も含め14試合に起用されたが16打数2安打にとどまり遂に引退を決意した。「実を言うと去年も女房に辞めてくれと懇願されたんだ。『落ちぶれた姿を見たくない』ってね」
1371試合出場・4357打数・1085安打・157二塁打・10三塁打・216本塁打・606打点・599三振・476四死球・通算打率 .249…3割を打ったシーズンは一度もなくタイトルにも縁は無かった。それでも竹之内は実績以上に大きく見え、ファンの数が多い選手だった。さっぱりした気性と思いっきりの良いスイングでここ一発の長打がファンの胸を打ったからだ。「不器用な自分がプロの世界でやってこられたのは "なにくそ!やれば出来る "という気持ちを持ち続けてきたから。今度はその気持ちを若い選手達に注入していきたい」と新たなポジションで熱く燃えている。