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北海道美術ネット別館

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竹井昭夫氏の訃報と民主党代表選に思う

2010年09月14日 23時59分59秒 | つれづれ日録
 武井昭夫さんの死亡記事は、当地では、朝日と読売に出ていて、毎日には載っていなかった。道新は夕刊だった。

 筆者は武井氏の業績をよく知らない。
 つい最近までお元気で仕事をしていらしたようだ。
 神奈川新聞のサイトにインタビューが載っていたので、リンクをはっておく。

http://news.kanaloco.jp/serial/article/1006210001/


 自分の目を引いたのが、彼が全学連(全日本学生自治会総連合)の初代委員長だったということだ。
 いまでこそ、コトバとしては「全共闘」のほうが有名になっているけれど、戦後のある時期までは、全学連の社会的な影響力は現在では想像もつかないほど強力だった。

 1970年前後に、新たに英語辞典に加わった日本語は
「ノーキョー」

「ゼンガクレン」
であった。当時は国際的に有名だったのだ。

 最初は、日本共産党支持の全学連ひとつしか存在しなかった。
 柴田翔の小説「されどわれらが日々」あたりを読めば当時の雰囲気がわかると思うが、当時は共産党は絶対に間違えない存在とされており、労働者階級を代表する唯一の存在とみなされていた。学生は何かあればデモにはせ参じるのが当たり前で、政治に興味のない一部学生を「ノンポリ」(non porliticalの略)と呼んだ。

 もっとも、そういう時代はごく短かった。
 占領末期にはレッドパージが起き、共産党は一時分裂するし、六全協のすぐあとに、スターリン批判とハンガリー動乱が起きて、全学連も、共産党系と新左翼系(反代々木系)に分裂してしまうからである。
 武井氏も共産党を批判して除名され、独立した評論家として活動するようになったという。
 それでも、60年安保闘争で、何百万人といわれたデモの先頭に立ったのは全学連の学生たちだったが、新左翼が四分五裂し、60年代末の学生反乱が終熄したあとは、全学連の力は急激に失われていく。

 日本の風景の基調(「風景」という語がふさわしいのかどうかわからないが)は、学生反乱が終わった1970年代初めから、基本的にはあまり変わっていないような気がする。
 浮き沈みは多少あるとはいえ、日本は長い安定期に入ったのだ。



 どの新聞も武井氏の死亡記事がベタだったのは、全学連が、忘却され、居場所が日本社会になくなってしまって久しいことの反映ではないかと思う。



 さて、民主党代表選であるが…。
 だいたい予想通りの結果であった。
 立場上、どっちがどうとか、論評はしないことにする。いろいろ書きたいことはあるけれど。
 まあ、70年代の自民党の党内抗争に比べたら、すこしは政策論争などがあるだけでも、進歩派してるんだろう。

 ただ、この選挙戦を通じて、論点は雇用や税制を含む経済であり、官僚か政治主導か、普天間基地は…といったことであり、ついに文化・芸術振興の話は聞かなかった。

 今回に限ったことではないんだけど。
 文化や芸術に関心のある政治家なんてほとんどいないのだ。

 まあ、カネを出されるついでに口も出されるよりはマシなのかもしれないね。



 小沢氏を熱烈に支持する人の一部には、この人の豪腕なら日本を根本的に改革してくれるのではという願望が潜んでいたにちがいない。
 しかし、その手の
「ある朝目ざめたら理想社会が実現していた」
的な発想はそもそもだめなのだ-ということこそ、全学連の敗北からわたしたちが学んださびしい真実ではなかったか、という気がする。



 う~ん。
 だいぶはしょったんだけど、書き出すと長くなるなあ。


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