
まあ、世の中の絵の99%以上が四角形なのは、たんなる制度ですから(美術と建築が不可分だった時代に由来する)、絵の形が変わっていること自体に目くじらを立てることはないと思います。むしろ、かたちそのものが持つ力のようなものが、ストレートに表出され、独特の空間を形成しています。
もちろん、それぞれの作品では、筆者の目にはいくらか差異が感じられたのであって、たとえば、会場に入ってすぐの「思考断片I」は、奥行きの乏しい平べったい世界をつくっているように見え、その反対側にある「思考断片II」のほうは、支持体のベニヤ板の木目や、やや丸みをおびてひかれているストロークのためでしょうか、作品それ自体が丸みを帯びて、こちら側にせり出しているかのような感覚を受けました。
昨年の「絵画の場合」展とことなるのは、会場の壁の色を意識してモノトーンで統一したことと、作品の「部品」と「部品」の間をすこしはなしたことだそうです。そのため、ドーナツ型といっても、亀裂の入ったドーナツになっています。
「思考断片VI」は、二階へとつづく階段の壁に設置され、常設されている亀山良雄さんの絵と張り合っているみたいで

1月16日(月)-2月5日(日)9:00-18:00(土、日-16:00、会期中無休)、STV北2条ビル(中央区北2西2、地図A)。
昨年の「絵画の場合」展のアーティストトークも参考にしてください。
それを見た率直な感想ですが、このような抽象表現のかたちをあたかも無限軌道のように延々と創作していくことの無意味さ(私にとってです)を感じました。
身も蓋もない表現ですが、このような方法意識でこのような抽象的表現を幾ら積み上げてもその先には「表現のニヒリズム」しか見つからないと感じます。
ある一定の方法意識に支えられて、「思考断片」という関心に向かって、このような抽象的かたちを延々と造形していくことは、現在の人間の表現の可能性を開くのではなく、その反対に、閉じていくのではという危惧を抱きます。
主題が「思考断片」であることからもうかがえるように、関心の中心はあくまでも作家の内的思考過程であって、しかもその思考過程はきわめてパターン化した「思考断片」の抽象的形を増殖させるということであって、現在の作家自身の思考過程の豊饒さすら表わし得ていない程度の「抽象性」の水準であって、それは真のインパクトを失って、かすかに頽廃の匂いすら漂わせていると感じさせます。
このような抽象表現はすでに袋小路の内部空間に自閉している表現形式でしかないと思われます。それが向かう方向はただひとつ「ニヒリズム」であるだろう。「表現のニヒリズム」であって、「ニヒリズムの表現」ではない。(ニイーチェを狂気の冥界に墜落させてしまった近代文明のニヒリズムそのものの表現ですらないということです。)
表現の主題が「思考断片」であってもいいではないのかという反論もあろうかと思われますが、それは「思考」を一度たりとも真剣に経験していない人の話です。すなわち、デカルトの「コギト エルゴ スム」とは全くの無縁の人のことです。
「思考断片」というタイトルには真剣味が不足しています。あるいは、表現する事そのものの真剣さが不足しています。
私はこれは単なるマスターベーションではないのかとさえ、思います。それは端的に自身にとっては快感(あるいは、苦痛)でありますが、きわめて私的な感覚の世界に過ぎません。
谷口さんが、「思考断片」ではなく、「思考」そのものに向かってほしいと思います。
それぞれの展覧会について、このように真剣な批評の積み重ねがなされていけば、このブログ、ひいては、札幌の美術の活性化につながると思います。
さて、筆者が反論するのも、谷口さんにたのまれたわけでもないのでなんなんですけど、ちょっとだけ。
というか、nakamuraさんには、リンク先の、「絵画の場合」における谷口さんの発言にも目を通していただけるとうれしかったです。
谷口さんはけっして真剣に考えていないわけではないと思います。また、その試みが「私的な感覚の世界」というのも、ちょっと違います。
ただ、近代絵画は「芸術のための芸術」ですから、その議論は、絵画の中だけで自足しがちなのも事実です。絵画空間をどう立ち上げるかという話(フランク・ステラ的な問題設定)は、美術業界の人には重要な問題なのかもしれませんが、一般の人の「生」にはほとんど関係がないように思います。
nakamuraさんが「ニヒリズム」と呼んだのも、こうした事態だと思われます。
いろんな人の意見も聞きたいです。