2004年に芸術の森美術館(札幌市南区芸術の森2)でひらかれた「北の創造者たち展 虚実皮膜」の出品メンバーのうち伊藤隆介、鈴木涼子、藤木正則、上遠野敏の4氏が、昨年8-12月、ドイツの美術館でグループ展をおこないましたが、その帰国展として企画された展覧会です。いずれも、道内を代表する現代美術家として活躍中だけに、興味深い展覧会となりました。
藤木さんは、「Personal Frag」と題したシリーズのカラー写真6点と旗を展示しています。ハンブルクとヴェネチアで撮影されたものです。
説明表示はありませんが、おそらく、両都市の人々に旗を描いてもらい、その旗を持って写真におさまってもらったものだと思います。
これまでも藤木さんは一貫して「行為」をテーマにしてきました。展示されているのは「行為の記録」であって、大事なのは「行為」がなされた時点だというとらえ方もできるでしょう。
たとえば、藤木さんは、名刺交換を「行為」ととらえ、その相手を写真で記録するということを、長い間つづけています。昨年、道立近代美術館でひらかれた「北海道の美術」に出品されていたビデオをごらんになった方もいらっしゃるでしょう。あのビデオが作品というよりは、札幌の4丁目のスクランブル交叉点に白線をひきつづけるという行為自体が作品なのだと思います。
今回の作品から直接思い出されるのは、たしか2002年の作品で、宗谷岬の波打ち際で藤木さんが星条旗をうち振っていた写真です。あのときと同様、藤木さんは、国家というものを、明るくわらいとばしているように、筆者には思えます。もちろん、旗が表象するものは、国旗とはかぎらないでしょうが、国家主義的な動きの強まる日本の現状に対して、国家を止揚する壮大な実験を進行中の欧洲から、このような批評的な行為を発信してくるということには、痛快なものを感じます。
もうひとつつけくわえれば、藤木さんの作品って、ニヤっとわらっちゃうんですよね。非日常的なことを大まじめにやってますから。大笑いじゃないけど、ちょっとおもしろいというのも、藤木作品のすきなところです。
国家の擬制をわらいとばす藤木さんに対し、上遠野さんの「日月四季山水図」は、「日本的なるもの」を称揚しているように見えます。金箔や、青海波のような模様など、日本の伝統的な表象を引用しているからです。
しかし、上遠野さんが単純なナショナリストとしてふるまっているようには、とても思えません。ほんとうに日本美術を礼讃したければ、襖や屏風を出品したほうがいいのでしょうが、今回の出品作はプリンタで出力された、ぺらぺらのものです。この薄っぺらさが、上遠野さんの批評性になっていると思います。
いそいで追記すると、上遠野さんの作品が薄っぺらいと言っているのではありません。「日本的なるもの」をちゃんと追求するのではなく、表層的に再現したり、とりあえず称讃したりするような人たちに疑義を表明しているだけです。「ワビサビは、日本人じゃなければわからないよ」みたいなことを言う人がときどきいますが、筆者はいつも、そういう人って「ワビサビ」がなにかをきちんと説明できるのかなあと思います。ついでに言うと、日本文化はワビサビだけではなく、日光東照宮や安土城もです。日本の文化は、「●●である」と、ひとつの方角から説明できるような、単純なものではありません。
さらに言うと、もともとアイヌ民族が住み、明治以降に西洋文明を取り入れることによって本格的な開拓が進んだ北海道で、日本文化や日本美術を言い立てても、そのことばは上滑りになってしまうのではないでしょうか。
いささか話がそれましたが、上遠野さんは、これまで一般的に日本の美術と分類されたものよりも、民衆の文化の古層にあるような土俗的な美の世界に分け入って表現活動を展開してきています。絵巻物や水墨画が日本美術なら、オシラサマや大漁旗だって日本の美術だ! というのが上遠野さんの視点だと思います。
昨年も、福岡トリエンナーレに出品するなど、幅広く活動している伊藤さんは、映像とインスタレーションをくみあわせたシリーズの最新作「Realisitic Virtuality(Broadcasting)」を出品しています。
このシリーズは、精巧なミニチュアと、それを小型カメラで撮影して投影した映像の、ふたつの部分からなっており、ミニチュアかカメラのいずれかが規則的な運動をくりかえすので、映像も変化するしくみになっています。
これまで、ウルトラマンの飛行シーンや、ファストフードの店内、走るタクシーなどがつくられてきましたが、今回は、放送局のニューススタジオです。スポットライトなどの高い質感はいつもながらです。
ただし、正面でニュースを読み上げるはずのキャスターは不在。スタジオ内に人影はありません。原稿らしき紙が机や床に散乱し、なにかただならぬことが起きたことを予感させます。セットの背景の世界地図が、欧米でふつう見られるタイプのもの(日本が右端にくる)であることも、なにやら意味ありげです。
小型のCCDカメラは、それらの装置に、近づいたり遠のいたりする単純な動きをくりかえし、それにつれて映像も、キャスターの位置に寄ったり引いたりする無意味な所作を反復します。
おもしろいのは、向かって左側にあるモニターテレビには、キャスターが不在なのにはおかまいなく、テレビ映像が映りつづけていることです。どうやら、つけっぱなしの小型液晶テレビからNHK総合テレビがながれているだけの装置のようですが、スタジオ内にだれもいないにもかかわらず番組はとどこおりなくつづいているようすに、一瞬とまどわされたのは、筆者だけではないでしょう。モニターの映像が無根拠で、リアルではないもののように、見えてしまうのです。
伊藤さんはこのシリーズをふくむ多くの作品で一貫して「リアルとバーチャル」というテーマを考察してきましたが、放送やマスメディアという題材ほどこのテーマにふさわしいものはないでしょう。
わたしたちが日々接している膨大な情報。しかし、いうまでもなく、それらの情報は、圧倒的大部分がメディアを介しているものであり、わたしたちが直接見聞きしたものではありません。報道されていることはほんとうなのか。このミニチュアのスタジオのように、だれもいなくてもニュースは発信されているのではないか。疑おうと思えばいくらでも疑うことはできます。
そして、テレビニュースの9割がたが、国家の首都からその国の標準語をもちいて放送されるということに、あらためて思いをいたさずにはいられません。マスメディアの成立は、歴史的に、国民国家の形成と軌を一にしています。キャスターの不在は、あるいは、国民国家の擬制を暗示しているのかもしれません。
鈴木さんも国外や道外での展覧が多い作家です。
今回は「childfood」と題された写真シリーズで、シリコン樹脂でつくられた小さくて透明な子供服の模型を中判カメラでとらえたものです。
昨年春におなじ会場でひらかれた個展でもならんでいたシリーズです。ただし、個展のときは「HOME LIGHT SERIES」のなかのひとつでした。今回は写真だけなので、「家」というテーマは後景にしりぞき、夢や郷愁の残骸とでもいうのか、ちょっと甘酸っぱいなにかが前面に出てきているような気がします。
あるいは、この作品でも、キャスターもだれもいない伊藤さんの作品とおなじように、子どもや、本物の衣服の不在を、読みとるべきなのかもしれません。
写真から想起される、幸福な幼少時代。しかし、それはほんとうに幸福だったのか。わたしたちの記憶は、一般に流布している「幸福な家族」のイメージによって、いつのまにか、ここにある樹脂の服の写真のように、美化され、透明になっているのではあるまいか。そんなことも考えさせられます。
1月7日(土)~1月21日(土)、13:00~19:00(日、祭日休廊)、
CAI現代芸術研究所
(中央区北1西28)
地図D)。
なお、「北の創造者たち・・その後」展と題して、3人の個展もおこなわれます(ドイツ展には不参加だったが「北の創造者たち」の出品者だった坂巻正美さんの個展はすでに終了)。
1月24日(火)~2月12日(日)「その後・ 上遠野敏」、
2月14日(火)~3月5日(日)「その後・ 鈴木涼子」、
3月7日(火)~3月26日(日)「その後・ 伊藤隆介」、
いずれも9:45~17:00 (月曜休館) 、札幌芸術の森美術館講堂。主催:札幌芸術の森美術館。
藤木さんは、「Personal Frag」と題したシリーズのカラー写真6点と旗を展示しています。ハンブルクとヴェネチアで撮影されたものです。
説明表示はありませんが、おそらく、両都市の人々に旗を描いてもらい、その旗を持って写真におさまってもらったものだと思います。
これまでも藤木さんは一貫して「行為」をテーマにしてきました。展示されているのは「行為の記録」であって、大事なのは「行為」がなされた時点だというとらえ方もできるでしょう。
たとえば、藤木さんは、名刺交換を「行為」ととらえ、その相手を写真で記録するということを、長い間つづけています。昨年、道立近代美術館でひらかれた「北海道の美術」に出品されていたビデオをごらんになった方もいらっしゃるでしょう。あのビデオが作品というよりは、札幌の4丁目のスクランブル交叉点に白線をひきつづけるという行為自体が作品なのだと思います。
今回の作品から直接思い出されるのは、たしか2002年の作品で、宗谷岬の波打ち際で藤木さんが星条旗をうち振っていた写真です。あのときと同様、藤木さんは、国家というものを、明るくわらいとばしているように、筆者には思えます。もちろん、旗が表象するものは、国旗とはかぎらないでしょうが、国家主義的な動きの強まる日本の現状に対して、国家を止揚する壮大な実験を進行中の欧洲から、このような批評的な行為を発信してくるということには、痛快なものを感じます。
もうひとつつけくわえれば、藤木さんの作品って、ニヤっとわらっちゃうんですよね。非日常的なことを大まじめにやってますから。大笑いじゃないけど、ちょっとおもしろいというのも、藤木作品のすきなところです。
国家の擬制をわらいとばす藤木さんに対し、上遠野さんの「日月四季山水図」は、「日本的なるもの」を称揚しているように見えます。金箔や、青海波のような模様など、日本の伝統的な表象を引用しているからです。
しかし、上遠野さんが単純なナショナリストとしてふるまっているようには、とても思えません。ほんとうに日本美術を礼讃したければ、襖や屏風を出品したほうがいいのでしょうが、今回の出品作はプリンタで出力された、ぺらぺらのものです。この薄っぺらさが、上遠野さんの批評性になっていると思います。
いそいで追記すると、上遠野さんの作品が薄っぺらいと言っているのではありません。「日本的なるもの」をちゃんと追求するのではなく、表層的に再現したり、とりあえず称讃したりするような人たちに疑義を表明しているだけです。「ワビサビは、日本人じゃなければわからないよ」みたいなことを言う人がときどきいますが、筆者はいつも、そういう人って「ワビサビ」がなにかをきちんと説明できるのかなあと思います。ついでに言うと、日本文化はワビサビだけではなく、日光東照宮や安土城もです。日本の文化は、「●●である」と、ひとつの方角から説明できるような、単純なものではありません。
さらに言うと、もともとアイヌ民族が住み、明治以降に西洋文明を取り入れることによって本格的な開拓が進んだ北海道で、日本文化や日本美術を言い立てても、そのことばは上滑りになってしまうのではないでしょうか。
いささか話がそれましたが、上遠野さんは、これまで一般的に日本の美術と分類されたものよりも、民衆の文化の古層にあるような土俗的な美の世界に分け入って表現活動を展開してきています。絵巻物や水墨画が日本美術なら、オシラサマや大漁旗だって日本の美術だ! というのが上遠野さんの視点だと思います。
昨年も、福岡トリエンナーレに出品するなど、幅広く活動している伊藤さんは、映像とインスタレーションをくみあわせたシリーズの最新作「Realisitic Virtuality(Broadcasting)」を出品しています。
このシリーズは、精巧なミニチュアと、それを小型カメラで撮影して投影した映像の、ふたつの部分からなっており、ミニチュアかカメラのいずれかが規則的な運動をくりかえすので、映像も変化するしくみになっています。
これまで、ウルトラマンの飛行シーンや、ファストフードの店内、走るタクシーなどがつくられてきましたが、今回は、放送局のニューススタジオです。スポットライトなどの高い質感はいつもながらです。
ただし、正面でニュースを読み上げるはずのキャスターは不在。スタジオ内に人影はありません。原稿らしき紙が机や床に散乱し、なにかただならぬことが起きたことを予感させます。セットの背景の世界地図が、欧米でふつう見られるタイプのもの(日本が右端にくる)であることも、なにやら意味ありげです。
小型のCCDカメラは、それらの装置に、近づいたり遠のいたりする単純な動きをくりかえし、それにつれて映像も、キャスターの位置に寄ったり引いたりする無意味な所作を反復します。
おもしろいのは、向かって左側にあるモニターテレビには、キャスターが不在なのにはおかまいなく、テレビ映像が映りつづけていることです。どうやら、つけっぱなしの小型液晶テレビからNHK総合テレビがながれているだけの装置のようですが、スタジオ内にだれもいないにもかかわらず番組はとどこおりなくつづいているようすに、一瞬とまどわされたのは、筆者だけではないでしょう。モニターの映像が無根拠で、リアルではないもののように、見えてしまうのです。
伊藤さんはこのシリーズをふくむ多くの作品で一貫して「リアルとバーチャル」というテーマを考察してきましたが、放送やマスメディアという題材ほどこのテーマにふさわしいものはないでしょう。
わたしたちが日々接している膨大な情報。しかし、いうまでもなく、それらの情報は、圧倒的大部分がメディアを介しているものであり、わたしたちが直接見聞きしたものではありません。報道されていることはほんとうなのか。このミニチュアのスタジオのように、だれもいなくてもニュースは発信されているのではないか。疑おうと思えばいくらでも疑うことはできます。
そして、テレビニュースの9割がたが、国家の首都からその国の標準語をもちいて放送されるということに、あらためて思いをいたさずにはいられません。マスメディアの成立は、歴史的に、国民国家の形成と軌を一にしています。キャスターの不在は、あるいは、国民国家の擬制を暗示しているのかもしれません。
鈴木さんも国外や道外での展覧が多い作家です。
今回は「childfood」と題された写真シリーズで、シリコン樹脂でつくられた小さくて透明な子供服の模型を中判カメラでとらえたものです。
昨年春におなじ会場でひらかれた個展でもならんでいたシリーズです。ただし、個展のときは「HOME LIGHT SERIES」のなかのひとつでした。今回は写真だけなので、「家」というテーマは後景にしりぞき、夢や郷愁の残骸とでもいうのか、ちょっと甘酸っぱいなにかが前面に出てきているような気がします。
あるいは、この作品でも、キャスターもだれもいない伊藤さんの作品とおなじように、子どもや、本物の衣服の不在を、読みとるべきなのかもしれません。
写真から想起される、幸福な幼少時代。しかし、それはほんとうに幸福だったのか。わたしたちの記憶は、一般に流布している「幸福な家族」のイメージによって、いつのまにか、ここにある樹脂の服の写真のように、美化され、透明になっているのではあるまいか。そんなことも考えさせられます。
1月7日(土)~1月21日(土)、13:00~19:00(日、祭日休廊)、
CAI現代芸術研究所
(中央区北1西28)
地図D)。
なお、「北の創造者たち・・その後」展と題して、3人の個展もおこなわれます(ドイツ展には不参加だったが「北の創造者たち」の出品者だった坂巻正美さんの個展はすでに終了)。
1月24日(火)~2月12日(日)「その後・ 上遠野敏」、
2月14日(火)~3月5日(日)「その後・ 鈴木涼子」、
3月7日(火)~3月26日(日)「その後・ 伊藤隆介」、
いずれも9:45~17:00 (月曜休館) 、札幌芸術の森美術館講堂。主催:札幌芸術の森美術館。