(テキストを追加しました)
気づいたら、最終日になっていた。
道内の戦後前衛絵画を代表する菊地又男さん(1916~2001年)の画業を振り返る展覧会。生前の画家をよく知る西澤宏生さん(札幌、新道展会員)がコレクターなどから作品を借り受けて開催にこぎ着けた。
絵もさることながら、西澤さんが持っていたたくさんの資料を、会場のマスターが整理を手伝って展示しているのが圧巻だった。
会場はこんな感じ。
「作品」という題の絵が6点並んでいる。
多くは、菓子の空き箱を解体したものや布きれをコラージュしたもの。
奥の壁に見えるのが「晩秋」と「北限」(冒頭画像の作)。
さらに「夜の貴婦人」(84年)、「作品」、「滞船」(70年)と続く。
店の入り口附近の壁には「風景」。ラフな筆遣いの山の絵で、菊地さんの具象画は初めて見た。売り絵かもしれない。
ほかに「作品」「初冬」。
筆者は晩年の菊地又男さんしか知らないので、ギャラリーのソファに座って大声で冗談話をしていたベテラン画家という印象が強い。
「反骨の画家」と称され、年譜を見ると、道展や全道展で会友になっても退会、「ゼロ展」などさまざまな団体を旗揚げしても脱退ーというところが目につく。最後まで所属したのは、新道展だけである。ただし、札幌市役所の絵画サークルあひる会の指導には長年取り組んでいたし、晩年には、新道展などで助言していた関係だろう、女性画家たちのグループ展にもよく顔を出していた。
ついでにいえば、独立美術も退会、自由美術も会員になってすぐに退会している。自由美術のリーダー的存在だった井上長三郎などからは惜しまれ、もし東京に出てくれば日本を代表する画家になっただろうーといわれたほどだったとの話は耳にしているが、実はその時代の作品はあまり残っておらず、1998年に札幌・芸術の森美術館で開かれた回顧展でも、後年のコラージュ類が大半だったと記憶している。100号クラスの作品は、いったいどこに散逸してしまったのだろう。
ともあれ、新道展系の画家たちを中心に慕われていたのは確かであるが、もう歿後18年がたち、往事を知らない若手も増えてきており、このような機会は意義深いことだと思う。
出だしにも書いたが、ボードに貼られた資料類が、ギャラリー喫茶での個展としては相当に充実していた。
2001年の、大同ギャラリー(札幌。2017年閉鎖)での遺作展の際に出た図録や、それ以前に出た作品集(ただし図版がモノクロのリーフレット)などもあった(パソコンでは左、スマートフォンでは上の画像。筆者はなぜかこの図録を見た記憶がない)。
左上に貼られた写真は、1956年の新道展旗揚げ時の会合のもの。
さらに貴重なのは、昭和15年に道庁の前で撮った一枚。菊地又男さんは兵隊のような、星印が1個着いた帽子をかぶり、左腕に十字マークの徽章をつけており、衛生兵のような仕事をしていたのだろうか。
このほか、あひる会の会報、道新の切り抜きなどがびっしり貼られている。
それにしても、もう一度あらためて冒頭画像の「北限」をじっくり見てみると、先に述べた遺作展の図録に寄せた吉田豪介さんの文章に感服せざるを得ない。反骨であるとか、毒舌だとか、天才少女画家の師匠だとか(この話題は4月以降に書くことになるだろう)、菊地又男をめぐる言説はともすれば画業以外のことに横すべりしていきがちなのだが、豪介さんのテキストは、前衛の仮面の裏にひそむ北方的な抒情性をしっかりと剔抉しているのだ。
スタール夫人を引用しているということは、彼はここに、一見肌合いのまるで異なる小川原脩や野本醇との共通性を感じ取っていたと言ってよいだろうと思う。
むろんそれは、豪介さんが長年菊地又男さんの仕事を見続けてきたから可能であったことだともいえ、晩年のコラージュだけをぼんやり眺めていてもとうていわかり得ないことなのだが、今回「北限」を見て、硬質なリリシズムと厳しい造形の精神に触れられたことは、個人的には少なからぬ収穫であった。
2018年12月10日(月)~2月10日(日)午前11時~午後8時
Cafe & Kitchen タペストリー(札幌市北区北40西5 https://tapestry.jimdofree.com/ )
関連記事へのリンク
■ギャラリー山の手を彩った作家展 II (2009)
あひる会40周年記念展(2004)
菊地又男遺作展(2001、12月22日の項)
第1回北の群展 (2001)
=以上画像なし
・タペストリーへの道順
・地下鉄南北線「麻生駅」5番出入り口から約100メートル、1分半ほど
気づいたら、最終日になっていた。
道内の戦後前衛絵画を代表する菊地又男さん(1916~2001年)の画業を振り返る展覧会。生前の画家をよく知る西澤宏生さん(札幌、新道展会員)がコレクターなどから作品を借り受けて開催にこぎ着けた。
絵もさることながら、西澤さんが持っていたたくさんの資料を、会場のマスターが整理を手伝って展示しているのが圧巻だった。
会場はこんな感じ。
「作品」という題の絵が6点並んでいる。
多くは、菓子の空き箱を解体したものや布きれをコラージュしたもの。
奥の壁に見えるのが「晩秋」と「北限」(冒頭画像の作)。
さらに「夜の貴婦人」(84年)、「作品」、「滞船」(70年)と続く。
店の入り口附近の壁には「風景」。ラフな筆遣いの山の絵で、菊地さんの具象画は初めて見た。売り絵かもしれない。
ほかに「作品」「初冬」。
筆者は晩年の菊地又男さんしか知らないので、ギャラリーのソファに座って大声で冗談話をしていたベテラン画家という印象が強い。
「反骨の画家」と称され、年譜を見ると、道展や全道展で会友になっても退会、「ゼロ展」などさまざまな団体を旗揚げしても脱退ーというところが目につく。最後まで所属したのは、新道展だけである。ただし、札幌市役所の絵画サークルあひる会の指導には長年取り組んでいたし、晩年には、新道展などで助言していた関係だろう、女性画家たちのグループ展にもよく顔を出していた。
ついでにいえば、独立美術も退会、自由美術も会員になってすぐに退会している。自由美術のリーダー的存在だった井上長三郎などからは惜しまれ、もし東京に出てくれば日本を代表する画家になっただろうーといわれたほどだったとの話は耳にしているが、実はその時代の作品はあまり残っておらず、1998年に札幌・芸術の森美術館で開かれた回顧展でも、後年のコラージュ類が大半だったと記憶している。100号クラスの作品は、いったいどこに散逸してしまったのだろう。
ともあれ、新道展系の画家たちを中心に慕われていたのは確かであるが、もう歿後18年がたち、往事を知らない若手も増えてきており、このような機会は意義深いことだと思う。
出だしにも書いたが、ボードに貼られた資料類が、ギャラリー喫茶での個展としては相当に充実していた。
2001年の、大同ギャラリー(札幌。2017年閉鎖)での遺作展の際に出た図録や、それ以前に出た作品集(ただし図版がモノクロのリーフレット)などもあった(パソコンでは左、スマートフォンでは上の画像。筆者はなぜかこの図録を見た記憶がない)。
左上に貼られた写真は、1956年の新道展旗揚げ時の会合のもの。
さらに貴重なのは、昭和15年に道庁の前で撮った一枚。菊地又男さんは兵隊のような、星印が1個着いた帽子をかぶり、左腕に十字マークの徽章をつけており、衛生兵のような仕事をしていたのだろうか。
このほか、あひる会の会報、道新の切り抜きなどがびっしり貼られている。
それにしても、もう一度あらためて冒頭画像の「北限」をじっくり見てみると、先に述べた遺作展の図録に寄せた吉田豪介さんの文章に感服せざるを得ない。反骨であるとか、毒舌だとか、天才少女画家の師匠だとか(この話題は4月以降に書くことになるだろう)、菊地又男をめぐる言説はともすれば画業以外のことに横すべりしていきがちなのだが、豪介さんのテキストは、前衛の仮面の裏にひそむ北方的な抒情性をしっかりと剔抉しているのだ。
スタール夫人を引用しているということは、彼はここに、一見肌合いのまるで異なる小川原脩や野本醇との共通性を感じ取っていたと言ってよいだろうと思う。
むろんそれは、豪介さんが長年菊地又男さんの仕事を見続けてきたから可能であったことだともいえ、晩年のコラージュだけをぼんやり眺めていてもとうていわかり得ないことなのだが、今回「北限」を見て、硬質なリリシズムと厳しい造形の精神に触れられたことは、個人的には少なからぬ収穫であった。
2018年12月10日(月)~2月10日(日)午前11時~午後8時
Cafe & Kitchen タペストリー(札幌市北区北40西5 https://tapestry.jimdofree.com/ )
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■ギャラリー山の手を彩った作家展 II (2009)
あひる会40周年記念展(2004)
菊地又男遺作展(2001、12月22日の項)
第1回北の群展 (2001)
=以上画像なし
・タペストリーへの道順
・地下鉄南北線「麻生駅」5番出入り口から約100メートル、1分半ほど