
5月に亡くなった、室蘭在住の画家の追悼展。
北浦さんは、生まれは栃木だが、すぐに北海道に渡り、少年時代を美唄で過ごしている。また、道学芸大(現道教育大)を卒業後、美唄の高校で教壇に立っていたので、美唄が事実上の出身地といってもよいくらいだ。
多くの作品を美唄市に寄贈もしており、これまでに何度か美唄市民会館で、市教委主催の回顧展が開催されてきた。今回も市民会館が会場だが、通例の3階大会議室ではなく、1階のふたつの部屋に展示されている。3階に比べると半分ほどの広さでやや寂しい感じもあるが、初期から2006年までの油彩・版画からまんべんなく選ばれており、画業の歩みを通覧するには良い構成であると思う。
会場を一周すると、版画と油彩、人物メーンの構成画と油彩画…というように、なかなか活動の主軸が定まらないことにあらためて気づき
「もう少し腰を落ち着けておれば、北浦さんといえば●●、みたいな代名詞的なシリーズもでき、代表作も生まれ、いまより評価も高かったんじゃないか」
と、よけいなことを考えるのだが、しかし、もしそうであったとしたら、こんなにバラエティーに富んだ追悼展は実現できなかったわけで、やはりこれで良かったのだろうと思う。
もう詮無いことではあるが、もっといろいろなことをお聞きしておきたかった。知りたいことはいくらでもあるが、ひとつは、なぜあれほど版画に熱心だったのかということと、絵画空間についてである。
同時代性について興味のない守旧派の皆さんは別にして、20世紀の画家はまず「抽象/具象」という問いに何らかの答えを出さなくてはならなかったし、後者を選択したとしても、従来の透視図法的な空間を無自覚にキャンバスに再現するわけにはゆかず、自分なりの空間を模索しなくてはいけなかった(のだと思う)。
北浦さんの場合も、たとえば「水辺の鏡」には、風景の部分を入れ子構造にして絵の中におさめ、人物と組み合わせて、さらに背景に、細い曲線の稠密を描くという、非常な苦闘の跡がみられる。
この細い曲線は、現実空間の再現の否定であると同時に、いったん<虚>になってしまった空間を、キャンバス上に物理的に存在している空間をどうよみがえらせるかという苦心の表れではないか。非再現的な線や模様を躍らせることもできようが、それではメーンのモティーフが生きないだろう。さりとて、マティエールに工夫を凝らして画面を<もたせ>ることも、味に逃げ込むようなものであり、北浦さんとしては潔しとしなかったのではないか。
90年代後期の、日勝峠を題材にした連作も、単なる透視図法的空間の再現ではないことは自明だ。といって、琳派的なデザイン感覚ともちょっと異なる。一般的な風景画へ回帰(という語が適切かどうかわからないが)して良いのかどうか、北浦さんはまだ踏ん切りがついていなかったのだろう。
以上は筆者の想像であって、ほんとうのところ画家がどう考えていたのか、もう確かめるすべがないのを、ほんとうに残念に思う。
なお、今回の「日勝峠」は、画面中央上の、空隙がいやでも目に付く。
しかし、これは心理学的に解釈するのではなく、この破調の部分がないと、画面が絵画というよりも壁紙かカーテンになってしまいかねないという構図上の要請であろう。
ちょっとふしぎなのは、この絵のサインが
Kitaura koh
になっていること。
これ以外の絵は、単に
Kitaura
か、あるいは
Kitaura akira
である。「晃」を音読みにしたかった時期があるのかもしれない。
いずれにしても、こういった苦心があったからこそ、後年の風景画が単なる写実ではなく、理知的な画風になったのだろう―と書いては、いささかまとめすぎだろうか。
北浦さんの風景画を見ていると、明るくくせのない色調もさることながら、山の稜線などに直線がけっこう多く曳かれているのが目に入ってきて、ついセザンヌの「自然界に直線はありますか!」という怒りを想起してしまい、ちょっぴり苦笑する。
自然を再構成する絵画を、セザンヌをもって嚆矢とするなら、なぜこの老巨匠の網膜に直線が浮かび上がってこなかったのだろう。それは、単に、サンヴィクトワールと斜里岳の違いなんだろうか?
もうひとつ余談めいたことを記せば、版画の後半のあたりに展示されていたのは「楽園に死す」という、寺山修司を描いたものであった。有名人や特定の人物の肖像というのは、北浦さんには非常に珍しい。
寺山の没したときの作と思うが、彼の映画の題は「田園に死す」だったはずで、「楽園」というのは、どういう意味があったんだろうか。
小さいほうの会議室には、絵はがき集「スケッチ美唄」の原画をはじめ、これまでの個展・グループ展の案内はがきやお礼状、北浦さんの絵が採用されたカレンダーなど各種資料が展示されている。
カレンダーは、室蘭信金(2000年)が「陣屋町の春」、北洋銀行の2007年が「大雪山連峰」、09年が「イタンキ浜海岸」、10年が「中富良野に夏兆す」。このうち「中富良野に…」は、ラベンダーが咲きほこるゆるやかな丘陵地帯を描いた作品で、当時の個展では「中富良野・A」という題で展示されたP10号の油彩である。
案内状などに添えられたきちょうめんな文字が、故人の穏やかな人柄をしのばせる。
2013年7月12日(金)~15日(月)午前9時~午後5時
美唄市民会館(西4南1)
※ 8月23日(金)~27日(火)にも開催。
【告知】追悼 北浦晃作品展 ~画歴60年の足あとを偲んで~ (2013年7月12~15日、美唄)
北浦晃小品展「わたしの逸品」の「わたし」とは、北浦さんではもちろんない。
コレクターが自宅にある絵を持ち寄り、その来歴や、北浦さんの思い出を記した紙を附して、展示している。
コレクターといっても、いかにも絵画を収集してますよ、という人たちではなく、みな北浦さんの知り合いや、中学校での教え子などで、新築祝いに絵をもらったとか、そういうエピソードがほとんどである。
なんだか、いいなあと思う。
展示作は次のとおり。
夕暮れの漁港
黄色いハートの見える風景(以上、木版画)
水の教会 冬
摩周湖
ピンネシリ
秋桜
ナナカマド
冬の林檎(日勝峠)
宮島沼
防風林
東明公園
2013年7月12日(金)~15日(月)午前10時~午後6時
喫茶あぶみ (大通西1北1)
美唄市民会館での展示作品は次のとおり。特に記さないものは油彩。
冬木立(1955)
風(1958、木版画)
黒い魚(1958、木版画)
美唄市立病院(1963、木版画)
冬のポプラ(1967、木版画)
田園風景(美唄) (1967、木版画)
二羽で遊ぶ(1961、木版画)
番号人間(1968、木版画)
黒い山(1968、木版画)
トッカリショ(1975、木版画)
プロフィール・I(1976、木版画)
有珠山とサビタ(1978、木版画)
楽園に死す(1983、シルクスクリーン)
水辺の鏡(1984)
踊子(1988)
北方の島(1989、シルクスクリーン)
少女のピエロ(1989、シルクスクリーン)
祝花(1991)
美唄・颯ケ丘(1992)
美唄・颯ケ丘S(1993)
日高(1992)
日勝峠(1996)
美唄浅春(1998)
十勝岳(1998)
雌阿寒岳遠望(2000)
雄阿寒岳遠望(2000)
美唄浅春B(2001)
斜里岳晩秋(2003)
夕張岳(2004)
冬木立2006(2006)
美唄春陽(2008、シルクスクリーン)
早春のピンネシリ(2007、シルクスクリーン)
ピンネシリ(2004)
美唄浅春2006(2006)
絵はがき集「スケッチ美唄」原画(すべて21.0 × 29.7)
桜咲く東明公園
郷土史料館と沼貝開拓記念碑
国道12号線
宮島沼
アルテピアッツァ美唄
炭鉱メモリアル森林公園
早春の美唄川上流
秋の二号溜池
中央通りの朝
大通り商店街
旧光井美唄住宅街
峰延駅前
春の専修大学キャンパス
アルペンゴルフクラブ
西美唄田園風景
菱沼の岸辺
北浦さんは、生まれは栃木だが、すぐに北海道に渡り、少年時代を美唄で過ごしている。また、道学芸大(現道教育大)を卒業後、美唄の高校で教壇に立っていたので、美唄が事実上の出身地といってもよいくらいだ。
多くの作品を美唄市に寄贈もしており、これまでに何度か美唄市民会館で、市教委主催の回顧展が開催されてきた。今回も市民会館が会場だが、通例の3階大会議室ではなく、1階のふたつの部屋に展示されている。3階に比べると半分ほどの広さでやや寂しい感じもあるが、初期から2006年までの油彩・版画からまんべんなく選ばれており、画業の歩みを通覧するには良い構成であると思う。
会場を一周すると、版画と油彩、人物メーンの構成画と油彩画…というように、なかなか活動の主軸が定まらないことにあらためて気づき
「もう少し腰を落ち着けておれば、北浦さんといえば●●、みたいな代名詞的なシリーズもでき、代表作も生まれ、いまより評価も高かったんじゃないか」
と、よけいなことを考えるのだが、しかし、もしそうであったとしたら、こんなにバラエティーに富んだ追悼展は実現できなかったわけで、やはりこれで良かったのだろうと思う。
もう詮無いことではあるが、もっといろいろなことをお聞きしておきたかった。知りたいことはいくらでもあるが、ひとつは、なぜあれほど版画に熱心だったのかということと、絵画空間についてである。
同時代性について興味のない守旧派の皆さんは別にして、20世紀の画家はまず「抽象/具象」という問いに何らかの答えを出さなくてはならなかったし、後者を選択したとしても、従来の透視図法的な空間を無自覚にキャンバスに再現するわけにはゆかず、自分なりの空間を模索しなくてはいけなかった(のだと思う)。
北浦さんの場合も、たとえば「水辺の鏡」には、風景の部分を入れ子構造にして絵の中におさめ、人物と組み合わせて、さらに背景に、細い曲線の稠密を描くという、非常な苦闘の跡がみられる。
この細い曲線は、現実空間の再現の否定であると同時に、いったん<虚>になってしまった空間を、キャンバス上に物理的に存在している空間をどうよみがえらせるかという苦心の表れではないか。非再現的な線や模様を躍らせることもできようが、それではメーンのモティーフが生きないだろう。さりとて、マティエールに工夫を凝らして画面を<もたせ>ることも、味に逃げ込むようなものであり、北浦さんとしては潔しとしなかったのではないか。
90年代後期の、日勝峠を題材にした連作も、単なる透視図法的空間の再現ではないことは自明だ。といって、琳派的なデザイン感覚ともちょっと異なる。一般的な風景画へ回帰(という語が適切かどうかわからないが)して良いのかどうか、北浦さんはまだ踏ん切りがついていなかったのだろう。
以上は筆者の想像であって、ほんとうのところ画家がどう考えていたのか、もう確かめるすべがないのを、ほんとうに残念に思う。
なお、今回の「日勝峠」は、画面中央上の、空隙がいやでも目に付く。
しかし、これは心理学的に解釈するのではなく、この破調の部分がないと、画面が絵画というよりも壁紙かカーテンになってしまいかねないという構図上の要請であろう。
ちょっとふしぎなのは、この絵のサインが
Kitaura koh
になっていること。
これ以外の絵は、単に
Kitaura
か、あるいは
Kitaura akira
である。「晃」を音読みにしたかった時期があるのかもしれない。
いずれにしても、こういった苦心があったからこそ、後年の風景画が単なる写実ではなく、理知的な画風になったのだろう―と書いては、いささかまとめすぎだろうか。
北浦さんの風景画を見ていると、明るくくせのない色調もさることながら、山の稜線などに直線がけっこう多く曳かれているのが目に入ってきて、ついセザンヌの「自然界に直線はありますか!」という怒りを想起してしまい、ちょっぴり苦笑する。
自然を再構成する絵画を、セザンヌをもって嚆矢とするなら、なぜこの老巨匠の網膜に直線が浮かび上がってこなかったのだろう。それは、単に、サンヴィクトワールと斜里岳の違いなんだろうか?
もうひとつ余談めいたことを記せば、版画の後半のあたりに展示されていたのは「楽園に死す」という、寺山修司を描いたものであった。有名人や特定の人物の肖像というのは、北浦さんには非常に珍しい。
寺山の没したときの作と思うが、彼の映画の題は「田園に死す」だったはずで、「楽園」というのは、どういう意味があったんだろうか。
小さいほうの会議室には、絵はがき集「スケッチ美唄」の原画をはじめ、これまでの個展・グループ展の案内はがきやお礼状、北浦さんの絵が採用されたカレンダーなど各種資料が展示されている。
カレンダーは、室蘭信金(2000年)が「陣屋町の春」、北洋銀行の2007年が「大雪山連峰」、09年が「イタンキ浜海岸」、10年が「中富良野に夏兆す」。このうち「中富良野に…」は、ラベンダーが咲きほこるゆるやかな丘陵地帯を描いた作品で、当時の個展では「中富良野・A」という題で展示されたP10号の油彩である。
案内状などに添えられたきちょうめんな文字が、故人の穏やかな人柄をしのばせる。
2013年7月12日(金)~15日(月)午前9時~午後5時
美唄市民会館(西4南1)
※ 8月23日(金)~27日(火)にも開催。
【告知】追悼 北浦晃作品展 ~画歴60年の足あとを偲んで~ (2013年7月12~15日、美唄)

コレクターが自宅にある絵を持ち寄り、その来歴や、北浦さんの思い出を記した紙を附して、展示している。
コレクターといっても、いかにも絵画を収集してますよ、という人たちではなく、みな北浦さんの知り合いや、中学校での教え子などで、新築祝いに絵をもらったとか、そういうエピソードがほとんどである。
なんだか、いいなあと思う。
展示作は次のとおり。
夕暮れの漁港
黄色いハートの見える風景(以上、木版画)
水の教会 冬
摩周湖
ピンネシリ
秋桜
ナナカマド
冬の林檎(日勝峠)
宮島沼
防風林
東明公園
2013年7月12日(金)~15日(月)午前10時~午後6時
喫茶あぶみ (大通西1北1)
美唄市民会館での展示作品は次のとおり。特に記さないものは油彩。
冬木立(1955)
風(1958、木版画)
黒い魚(1958、木版画)
美唄市立病院(1963、木版画)
冬のポプラ(1967、木版画)
田園風景(美唄) (1967、木版画)
二羽で遊ぶ(1961、木版画)
番号人間(1968、木版画)
黒い山(1968、木版画)
トッカリショ(1975、木版画)
プロフィール・I(1976、木版画)
有珠山とサビタ(1978、木版画)
楽園に死す(1983、シルクスクリーン)
水辺の鏡(1984)
踊子(1988)
北方の島(1989、シルクスクリーン)
少女のピエロ(1989、シルクスクリーン)
祝花(1991)
美唄・颯ケ丘(1992)
美唄・颯ケ丘S(1993)
日高(1992)
日勝峠(1996)
美唄浅春(1998)
十勝岳(1998)
雌阿寒岳遠望(2000)
雄阿寒岳遠望(2000)
美唄浅春B(2001)
斜里岳晩秋(2003)
夕張岳(2004)
冬木立2006(2006)
美唄春陽(2008、シルクスクリーン)
早春のピンネシリ(2007、シルクスクリーン)
ピンネシリ(2004)
美唄浅春2006(2006)
絵はがき集「スケッチ美唄」原画(すべて21.0 × 29.7)
桜咲く東明公園
郷土史料館と沼貝開拓記念碑
国道12号線
宮島沼
アルテピアッツァ美唄
炭鉱メモリアル森林公園
早春の美唄川上流
秋の二号溜池
中央通りの朝
大通り商店街
旧光井美唄住宅街
峰延駅前
春の専修大学キャンパス
アルペンゴルフクラブ
西美唄田園風景
菱沼の岸辺
2年前、時計台ギャリ―の個展で、はじめて作家さんの作品を観ました。明るい色彩の景色が多かったので、「水辺の鏡」などの人物画は意外でした。繊細なタッチですね。
喫茶店「あぶみ」の小作品から。温かい交流の時間が流れていたのですね。
次回展にも行きたいと思っています。
「美唄浅春2006」は、北浦さんが珍しく? 透視図法的な奥行き感を全面的に取り入れた作品で、前景から中景、後景へとつながる視線の誘導が見事な1点です。ちょっと見た感じでは、うまい構図におさまらないような風景(最初は北浦さんご自身もそう感じたらしい)なんですが、ちゃんとつじつまがあっているのです。
8月の展覧会は、「美唄浅春2006」のような、晩年の風景画が中心になるのですね。