色づいてきました
湯豆腐の香りづけに最適、冬至になれば柚子風呂で温まります。
平年並みの冬ならそれなりですが、どうやら今年の冬は怪しい(かなり寒い)みたい。
寒いのは苦手なんだ。
色づいてきました
湯豆腐の香りづけに最適、冬至になれば柚子風呂で温まります。
平年並みの冬ならそれなりですが、どうやら今年の冬は怪しい(かなり寒い)みたい。
寒いのは苦手なんだ。
出雲市大津町、天心にて
ラーメンと焼きそば、焼き飯、野菜炒め、ギョウザだけで勝負している。
そして安い。
焼きそば定食630円
焼きそばの具は多すぎてはいけない。
大きすぎてもいけない。
焼きそばの具は、屋台の焼きそばを模範としなければならない。
小さく、少なく、ときどきひょっこり、を目標にしなくてはならない。
そうじゃないと、肉野菜炒めに焼きそばが少し混ざったもの、になってしまう。
天心の焼きそばは、まさに模範となるような焼きそばである。
半世紀前に卒業した小学校の銀杏の樹
昔は木造校舎だったが、その面影はカケラも無い。
校庭と校舎の位置が川を挟んで逆になったが、この銀杏だけが唯一昔のままだ。
11月14日撮影
深まりゆく秋
某店から、もう来年のカレンダーをもらった。
よく考えてみると、この組み合わせはまことにヘンだ。
麺にパン
焼きそばはそれだけで一食をまかなえる主食であり、パンもまた主食である。
世帯主と世帯主、本来ならば皿を一つにしてはいけない仲である。
テーブルの上に焼きそばの皿があり、パンの皿があったとする。
この二者を眺めた人は、この二人が抱き合うとはツユ思わなかったであろう。
ところが二人はヒシと抱き合ってしまうのだ。
いけないことをしてしまうのだ。
大衆の前で抱き合うなど、まことにけしからん。
だが食べると美味しい。
だからつい許してしまうのだ。
毎度くだらないことを書き続け15年余りも経った。
当ブログのことです。
思えばアッと言う間だった。
マラソン大会出場の練習日誌のつもりで始めたようなものだったが、時は過ぎ歳も重ね疾風の如くである。
自分の恥を晒しだしているようなものであったかなぁ。
15年という月日は結構長い。
やめることはいつでもできるが、やめてしまえば元に戻ることはなかなかに難しい。
何事においても、一度失ったものを元に返すのは大変です。
それが怖くて、くだらないことでも書き続けるのかなぁ…
などと思ったりするのであります。
立冬も過ぎたので、すっかり暖房の季節ですね。
我が家もリフォームして8年くらい経つけど、床暖房にして正解だった。
まだパワー全開するほどではないが、氷点下まで冷え込んでも石油系暖房機器のお世話になることはない。
ほんわかとした温もりがいいです
床暖にもいろんなタイプがあるのでしょうが、ウチの床暖は温水が流れるタイプでエコキュートで水回りは快適に過ごせます。
石油系燃料は使わないので安心安全、火災の心配が最小限、オール電化ですが…
停電したら闇の世界なのであります。
だが緊急事態には掘りごたつがあるぞ。
炭で暖をとる器具が我が家の床下には残っている。
それが復活するかどうかは定かでないが、まだ何とか生き延びる手立てを考える余地はあると思うのであります。
豆炭も用意しとかなくちゃね。
ビフォーアフターの世界だね。
四国のお土産といえばタルト
ちょいとお仕事で広島へ。
四国へは渡ってないけど、山陽道福山SA下り線にて購入。
しまなみ海道に一番近いSAです。
高速道路のSAのお土産コーナーも、上り線と下り線では大きく違う。
それぞれの意図は強く感じますね。
これが商売というものでしょうね。
しかしコロナ禍の影響で自粛自粛でどこへも行かなくなったことに慣れてきた。
パスポートの残り期限を考えれば、この歳になって海外旅行に出かけることはもう無いだろうなぁ。
国内旅行すら危うい。
見るものはそれなりに見たし、食べるものもたいがい食べたしねぇ。
脱いだ、のぞいた、見えた、触ったの好奇心はほとんど失せたし(いやいやまだまだ…)。
旅に出るのも面倒になってきた。
外食はときどきするが、昼飯を食う程度で夜の宴会はほとんどない。
慣れとたといえばそれまでですが、飲食宿泊観光業者の悲鳴はまだ続いている。
困っていると聞けば、何とかしたいと思うのが世の情け。
近場のそんな方たちの応援が少しでもできればと思う、この頃であります。
時の過ぎること疾風の如し。
年齢を重ねるたびに時間の経過に加速度がつく。
ついこないだガリガリ君をかじっていたと思ったら、今はおでんのコンニャクをアヂアヂなんて言いながらかじっている。
おでんの世界は今や二極分化で、若いおでんファンはコンビニおでんへ、中高年だけが旧来のおでん屋へ流れる。
たった一人で、例えば木枯らし吹きこむ屋台などで、面白くないことがあった日に、心ささくれて食べるおでん。
これはこれでまたよく似合う
ここはやはりおでんでなければならぬ。
焼き鳥では軽すぎて絵にならぬ。
目をウツロにさせ、左手で頬を支え、右手の箸で湯気の立つ大根なんかを邪険に突つき、突いたあと食べるとおいしい。
おでんはこんな状況にピタリと似合ってしまう。
我々の世代は、一般的に言って食品の空洞に対しては、かなり批判的な世代である。
憎しみを持っていると言ってもいい。
かじったあとの内部のアンパンの空洞、カキフライの空洞、タイ焼きの空洞、いずれもそこに邪悪なものを感じる。
商人の阿漕(あこぎ)を感じる。
カレーパンの空洞にだけは、不思議なことにそうしたものを感じない。
カレーパンの空洞は、正しい空洞である。
善良性を帯びた空洞、そういうふうに思えてならない。
その空洞が美味しく、味がある。
カレーパンは紡錘形がよい
死後、スマホ決済サービスの残高などが家族に知らされないまま放置されている事例が出始めている。
「デジタル遺品」と呼ばれ、誰もが直面する課題になる。
残された家族が困らないように、スマホの画面ロックを解除できるパスワードだけでも残しておけば、10秒でできる終活だ。
これからの終活で重要なのは、デジタル遺品を残さないことかもしれない。