この世には確実に罪作りな言葉があると思う。言葉の響きや表記の変化によって、本来の意味から離れた印象を与え、犯罪行為の罪悪感が薄められてしまう言葉。特にここ何年も私が気になって仕方がない言葉は万引き。そう明らかにその行為は窃盗=犯罪なのに、その言葉の軽みが、犯罪者の罪意識を著しく減退させる言葉。
語源を調べてみると、江戸時代から使われている言葉だと言う。諸説あるらしいが、「商品を間引いて盗むことから、”間引き(まびき)”が語源で、撥音”ん”が入ったとされる。万引きの”万”は当て字」と言うのが、やはり有力か?上方では「万買(まんがい)」とも言うらしい。
◆万引きの語源
他人の財物をこっそり盗むことには変わりはないのだから、どうして「窃盗」の一言で済ませずに、わざわざ「万引き」と言う言葉を使い始めたのだろう?江戸時代に店頭での小売り商いが盛んになってから激増した犯罪なのだろうか?被害金額の大小で「窃盗」と「万引き」を使い分けるようになったのか?
しかし、「チリも積もれば山となる」である。近年、個人書店の廃業が相次いでいるが、その理由のひとつに万引きの多発がある。私の実家も以前、小さな書店を営んでいたので、万引き被害には頭を痛めた。書店で扱う商品の利幅はとても小さい。そこへ万引きの被害が後を絶たないとなれば、個人書店には死活問題である。万引きという犯罪行為を行う人々には、事の重大さが分かっていないだろう。と言うより、被害の多寡、規模の大小に関わらず、人の財物を対価を支払わずに無断で持ち出すのは、歴とした犯罪行為であり、けっして許されるものではない。その社会生活を営む人間としての倫理観の欠如は、情けない限りだ。恥を知れ、と言いたい。
言葉は生ものであり、時代を経るにつれ、その言葉の持つ意味や表記や社会における位置づけは変化する。数十年前の映画のテレビ放映時には「現在では差別的表現に当たる表現も含まれています」との断りが必ずと言って良いほど付く。芸術的価値、或いは放映に社会的意義を認められた作品では、今や禁忌となった言葉も時代性を象徴するものとして尊重され、検閲されることなくそのまま放映される。このことに関しては違和感はない。
逆に生ものだからこそ、社会的規範を崩す恐れのある言葉は、社会的に抹殺される可能性も否定できないのではないか?現に映画の例もそうだが、自分が子供の頃に何気なく使っていた言葉でさえ、公の場では既に使われなくなった言葉、使うことを憚られる言葉が結構ある。その意味で、万引き行為が社会悪として看過出来ないほどになっている現在、この”万引き”という言葉の使用も、再考の時期に来ているのではないか?
個人的使用はともかく、少なくとも実際の被害現場では「万引き」と言わず「窃盗」と言って加害者を非難するべきではないか?社会的コンセンサスを形成する手段としては、公共の電波では「万引き」と言う言葉の使用は避け、「窃盗」に統一する。これって、言葉狩りに当たるのかな?表現活動を重んじる作家等からは反対の声が上がりそうだ。
そう言えば昔、「名付け方法」について勉強した時、「ま行」の音は柔らかい印象を与え、耳に心地よい、逆に「さ行」は堅い印象を与える、との解説が名付け辞典にあった。「万引き」はその音の持つ柔らかい響きも、罪作りの一因なのかもしれない。
どうして「万引き」について改めて考えたかと言えば、先日の米LAへの修学旅行生(私立北海道栄高校2年生)の、免税店での集団「万引き」報道を耳にしたからだ。100余人の生徒中、判明しただけでも21人の生徒が盗みを働いていたとは驚きである。しかも、判明後の学校の処理も拙すぎる。盗みを働いた生徒への5日間の停学処分も甘いし、日本に持ち帰っていた盗品を旅行社(←どうして旅行社に尻拭いさせる?)を通じて被害店へ返還。現地の被害店には引率教師が、この件について口止めしていたとの報道もある。
この事件は2重3重に衝撃的である。当該高校の学校及び家庭教育の不全性、現地での日本人全般に対するイメージダウンへの懸念、そして改めて突きつけられた、日本の社会に少なからず浸透している「万引き」と言う行為に対する罪悪感の希薄さ~「1人が(盗みに)成功したのを真似て、総勢21人がその行為に及んだ」とは何事よ!この事態はもっと深刻に捉えられて然る可き。
語源を調べてみると、江戸時代から使われている言葉だと言う。諸説あるらしいが、「商品を間引いて盗むことから、”間引き(まびき)”が語源で、撥音”ん”が入ったとされる。万引きの”万”は当て字」と言うのが、やはり有力か?上方では「万買(まんがい)」とも言うらしい。
◆万引きの語源
他人の財物をこっそり盗むことには変わりはないのだから、どうして「窃盗」の一言で済ませずに、わざわざ「万引き」と言う言葉を使い始めたのだろう?江戸時代に店頭での小売り商いが盛んになってから激増した犯罪なのだろうか?被害金額の大小で「窃盗」と「万引き」を使い分けるようになったのか?
しかし、「チリも積もれば山となる」である。近年、個人書店の廃業が相次いでいるが、その理由のひとつに万引きの多発がある。私の実家も以前、小さな書店を営んでいたので、万引き被害には頭を痛めた。書店で扱う商品の利幅はとても小さい。そこへ万引きの被害が後を絶たないとなれば、個人書店には死活問題である。万引きという犯罪行為を行う人々には、事の重大さが分かっていないだろう。と言うより、被害の多寡、規模の大小に関わらず、人の財物を対価を支払わずに無断で持ち出すのは、歴とした犯罪行為であり、けっして許されるものではない。その社会生活を営む人間としての倫理観の欠如は、情けない限りだ。恥を知れ、と言いたい。
言葉は生ものであり、時代を経るにつれ、その言葉の持つ意味や表記や社会における位置づけは変化する。数十年前の映画のテレビ放映時には「現在では差別的表現に当たる表現も含まれています」との断りが必ずと言って良いほど付く。芸術的価値、或いは放映に社会的意義を認められた作品では、今や禁忌となった言葉も時代性を象徴するものとして尊重され、検閲されることなくそのまま放映される。このことに関しては違和感はない。
逆に生ものだからこそ、社会的規範を崩す恐れのある言葉は、社会的に抹殺される可能性も否定できないのではないか?現に映画の例もそうだが、自分が子供の頃に何気なく使っていた言葉でさえ、公の場では既に使われなくなった言葉、使うことを憚られる言葉が結構ある。その意味で、万引き行為が社会悪として看過出来ないほどになっている現在、この”万引き”という言葉の使用も、再考の時期に来ているのではないか?
個人的使用はともかく、少なくとも実際の被害現場では「万引き」と言わず「窃盗」と言って加害者を非難するべきではないか?社会的コンセンサスを形成する手段としては、公共の電波では「万引き」と言う言葉の使用は避け、「窃盗」に統一する。これって、言葉狩りに当たるのかな?表現活動を重んじる作家等からは反対の声が上がりそうだ。
そう言えば昔、「名付け方法」について勉強した時、「ま行」の音は柔らかい印象を与え、耳に心地よい、逆に「さ行」は堅い印象を与える、との解説が名付け辞典にあった。「万引き」はその音の持つ柔らかい響きも、罪作りの一因なのかもしれない。
どうして「万引き」について改めて考えたかと言えば、先日の米LAへの修学旅行生(私立北海道栄高校2年生)の、免税店での集団「万引き」報道を耳にしたからだ。100余人の生徒中、判明しただけでも21人の生徒が盗みを働いていたとは驚きである。しかも、判明後の学校の処理も拙すぎる。盗みを働いた生徒への5日間の停学処分も甘いし、日本に持ち帰っていた盗品を旅行社(←どうして旅行社に尻拭いさせる?)を通じて被害店へ返還。現地の被害店には引率教師が、この件について口止めしていたとの報道もある。
この事件は2重3重に衝撃的である。当該高校の学校及び家庭教育の不全性、現地での日本人全般に対するイメージダウンへの懸念、そして改めて突きつけられた、日本の社会に少なからず浸透している「万引き」と言う行為に対する罪悪感の希薄さ~「1人が(盗みに)成功したのを真似て、総勢21人がその行為に及んだ」とは何事よ!この事態はもっと深刻に捉えられて然る可き。