夕方、千ちゃんに誘われて、久々に浅草の「駒形どぜう」に行きました。
入口に下がる「どぜう」の文字の大きなのれん・・・
「駒形どぜう」は創業200年を越える江戸時代から続く“どぜう料理”の老舗です。
「泥鰌(どじょう)」、つまり「どぜう」は、
もともと旧仮名遣いでは「どぢやう」もしくは「どじやう」と表記します。
それを「どぜう」としたのは、この店の初代店主・越後屋助七の発案だそうです。
それは、今をさる200年ほど前の
文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した折に、
「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと
当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、
奇数文字の「どぜう」と書いてもらったことに始まるということです。
そして、これが評判を呼んで店は大繁盛。
江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。
そんなこの「駒形どぜう」には、僕もいろいろな想い出があります。
中でも忘れられないのは、10年前に亡くなった父との想い出・・・
“江戸っ子”で酒呑みだった父は、
店のそこここに江戸情緒の残るこの店で一杯やるのが大好きで、
若い頃からしばしばこの店を訪れたそうです。
・・・そうですというのは、そんな大昔のことは僕にはわからないからです。
とにかく父は、その昔は“遊び”相手をつれてこの店を訪れていたんですって!
僕も子供の頃からこの店ののれんを父とよくくぐりました。
当時、大相撲の国技館がまだ蔵前にあり、父も若くてとても羽振りがよかった頃で、
父は毎場所大相撲の桝席を買っていたので、
その相撲観戦の帰りに、よく父に連れられて、
父が連れてきた素性のよく知れない人とこの店に来たものです。
(素性のよく知れないといってもその筋の人なんかではなく、
当時まだ小学生の僕にはどんな会社のなんという人かも
わからなかったという意味です!)
僕は、どぜう料理はやっぱり酒呑みのための肴だと思います。
当時子供だった僕には、正直どぜう鍋は決して美味いと感じる料理ではなく、
父にこの店に連れて来られたにすぎず、
父が「おい、帰るぞ」と言い出すまで、足の痺れを気にしながら
ただバヤリースを飲んで待っているだけの料理屋という感じでしたが、
今でも低いお膳の中央でぐつぐつと煮えるどぜう鍋の印象だけは強く心に残っています。
その父も今は亡く、その父の晩年に付き合わされてここに来た母も亡く、
僕だけが生きています。
そんな父や母の面影をたどりながら、
千ちゃんと僕の間でひたすらぐつぐつと煮えるどぜう鍋を見ていたら、
なんだか不覚にも涙が出て来てしまいました。
生きている間は、最後まで父とは心が通じ合わなかっただけに、
今日の涙は、懐かしさとともに、後悔の涙であり、
父に対する詫びる気持ちの涙です。
それはふと、映画『異人たちとの夏』の中の、
浅草・今半での幽霊の父と子の別れのシーンを髣髴とさせました。
「あれも浅草やん」
この街の風情にはなぜかそういう郷愁を呼び起こさせるものがありますね。
「駒形どぜう」、いいなぁ・・・
ちなみに、長っ尻の僕らがいる間に、
隣りの席は3組の客が出入り・・・
2組目の客は、女子柔道の世界チャンピオンで日本選手権者だった田辺陽子さんの一行でした。
すごいカッコよかったぁ・・・
チャンピオンもどぜうを食べるんだぁ・・・
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「駒形どぜう」は創業200年を越える江戸時代から続く“どぜう料理”の老舗です。
「泥鰌(どじょう)」、つまり「どぜう」は、
もともと旧仮名遣いでは「どぢやう」もしくは「どじやう」と表記します。
それを「どぜう」としたのは、この店の初代店主・越後屋助七の発案だそうです。
それは、今をさる200年ほど前の
文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した折に、
「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと
当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、
奇数文字の「どぜう」と書いてもらったことに始まるということです。
そして、これが評判を呼んで店は大繁盛。
江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。
そんなこの「駒形どぜう」には、僕もいろいろな想い出があります。
中でも忘れられないのは、10年前に亡くなった父との想い出・・・
“江戸っ子”で酒呑みだった父は、
店のそこここに江戸情緒の残るこの店で一杯やるのが大好きで、
若い頃からしばしばこの店を訪れたそうです。
・・・そうですというのは、そんな大昔のことは僕にはわからないからです。
とにかく父は、その昔は“遊び”相手をつれてこの店を訪れていたんですって!
僕も子供の頃からこの店ののれんを父とよくくぐりました。
当時、大相撲の国技館がまだ蔵前にあり、父も若くてとても羽振りがよかった頃で、
父は毎場所大相撲の桝席を買っていたので、
その相撲観戦の帰りに、よく父に連れられて、
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(素性のよく知れないといってもその筋の人なんかではなく、
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僕は、どぜう料理はやっぱり酒呑みのための肴だと思います。
当時子供だった僕には、正直どぜう鍋は決して美味いと感じる料理ではなく、
父にこの店に連れて来られたにすぎず、
父が「おい、帰るぞ」と言い出すまで、足の痺れを気にしながら
ただバヤリースを飲んで待っているだけの料理屋という感じでしたが、
今でも低いお膳の中央でぐつぐつと煮えるどぜう鍋の印象だけは強く心に残っています。
その父も今は亡く、その父の晩年に付き合わされてここに来た母も亡く、
僕だけが生きています。
そんな父や母の面影をたどりながら、
千ちゃんと僕の間でひたすらぐつぐつと煮えるどぜう鍋を見ていたら、
なんだか不覚にも涙が出て来てしまいました。
生きている間は、最後まで父とは心が通じ合わなかっただけに、
今日の涙は、懐かしさとともに、後悔の涙であり、
父に対する詫びる気持ちの涙です。
それはふと、映画『異人たちとの夏』の中の、
浅草・今半での幽霊の父と子の別れのシーンを髣髴とさせました。
「あれも浅草やん」
この街の風情にはなぜかそういう郷愁を呼び起こさせるものがありますね。
「駒形どぜう」、いいなぁ・・・
ちなみに、長っ尻の僕らがいる間に、
隣りの席は3組の客が出入り・・・
2組目の客は、女子柔道の世界チャンピオンで日本選手権者だった田辺陽子さんの一行でした。
すごいカッコよかったぁ・・・
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