臼井義胤は、明治時代に活躍した実業家で、教育者でもあり川崎市柿生に吉胤第一尋常小学校を開校し、教育に尽力しました。
義胤の乳母・阿多津の墓が臼井にあることから、そのご縁で川崎市柿生からバス1台仕立てて佐倉を訪問してくださいました。
阿多津の墓 は、千葉県佐倉市の臼井幼稚園の近くにあります。阿多津は、臼井城主・臼井祐胤(すけたね)の子・竹若丸の乳母でした。
鎌倉時代の末期、1314年に11代臼井城主の臼井祐胤(臼井太郎祐胤)は、25歳の若さで死去し、その遺児・竹若丸(3歳)の後見を
弟で志津城主の志津胤に託しました。
しかしながら、志津胤氏(志津次郎胤氏)は、臼井城を乗っ取ろうとして、竹若丸を殺害する計画を立てたのを乳母の阿多津は、
岩戸城の岩戸五郎胤安の助けを受けて、竹若丸を鎌倉・建長寺へ逃しました。
怒った志津胤氏は、乳母の阿多津を追います。印旛沼の芦原に潜んでいた阿多津は、咳が出てしまい、見つかって殺されてしまいました。
お墓にお茶が沢山供えられているのは、麦こがしとお茶を供えて、お願いすると咳(せき)が治ると伝わったことから
「咳神」としても知られているからです。
その後は、臼井氏歴代のお墓がある円応寺へ移動。
財を成した臼井義胤は、佐倉市にも住み碑を建て、阿多津のことも弔ったのです。
円応寺は1338年臼井氏中興の祖である臼井興胤(うすいおきたね)により創建されたとされます。開山は竹若丸(後の興胤)を養育した鎌倉建長寺の仏国禅師とならび、陰で臼井家の再興を支えた仏真禅師で、師の恩に報いたものです。以来、臼井氏の菩提寺として崇敬されてきました。
寺領は広く風光明媚で知られ、臼井城跡とともに「城嶺夕照」として臼井八景の一つに数えられました。
https://usui8temples.github.io/index.html
臼井花の8カ寺については、是非、こちらのページをご覧下さいませ🌸
常楽寺の藤の花が見頃を迎えるまであと少し。
佐倉には沢山の歴史文化財がありますが、知られてない部分もたくさんありますので、この4月から創設された魅力推進部ではやりがいがあるのではないかと思います。
臼井といえば若い人には、バンプ・オブ・チキンの聖地として知られています。
https://blog.goo.ne.jp/hashioka-kyomi/e/332ae89c336794cbdf322f64e26b7fa7