物事にはそれを形作る輪郭がある。輪郭がないと、たとえばクラゲと水の境目がなくなるような話になってしまって、どこからがクラゲか分からなくなってしまう。だいいち図鑑にこれがクラゲですと描くこともできなくなる。別に図鑑に描けないからいけないというわけではないが、それにしても輪郭がないと困るには違いない。輪郭というのは、目に見えるものだけに限らないだろう。仕事にだって輪郭はある。仕事の段取りには、ああやって、こうやって、それからこうしてといういろんな手順がある。それがわからないと、一向に仕事は進まず困ってしまう。こういう手順を仕事の輪郭と呼んでもいいかもしれない。箇条書きにできないような仕事の手順というのは、なんだかもやもやして人に指示もできない。近頃の会社はどこもマニュアル至上主義だという。そういう箇条書きの手順をちゃんとやりさえすればそれで良いというわけだ。
でも、よく観察してみると物事はそれほど簡単に箇条書きにはできない場合が多いことに気がつく。クラゲだってそうだ。詳しいことは知らないが、きっとクラゲの表面には細胞と海水が混ざったような境界が何となく広がっていて、どこまでが水でどこからが細胞なのかを厳密に線引きをするのはできないに違いない。仕事でもそうだろう。箇条書きに従って仕事をすれば誰でもいい仕事ができるかというと、決してそんなことはないことも誰でも知っている。電話を取る時のちょっとした挨拶や、プレゼンでちょっとだけ仕事と関係ないことを言って相手の心をつかむことなどマニュアルには書いてない細かなことが沢山あるに違いない。そして、そうしたディテールを何気なくこなす人こそプロというものだろう。では、こういうディテールさえ押さえていればすべてはうまくいくかというと、もちろんそんなことはない。電話に出るたびに長々と時候の挨拶ばかりしていたのでは、もちろん仕事は進まない。やるべきことはやはりちゃんと箇条書きに従ってやるしかない。当たり前だ。
では輪郭とディテールのどちらが大切か。それはきっとそんな単純な話ではない。つまり、輪郭を見るためにはディテールに心を馳せる必要があり、逆にディテールにまで気を使うにはきっちりとした輪郭が意識されなければならないのだ。言い換えると、輪郭とディテールの両者は、それ単独では存在し得ない、つまり、輪郭のためにディテールはあり、ディテールのために輪郭は存在する。どっちが上でもどっちが下でもない。それは互いにつながった輪のようなものなのである。
だから、マニュアル至上主義もOKなのである。それはそれ自身が悪いことではない。ただ、マニュアル至上主義は、マニュアルそのものが大事なのではなく、そのマニュアルの項目の隙間に横たわる無限のディテールを見るためのきっかけを与えているにすぎないと考えることが大切なのだ。逆にディテールにこだわることは悪いことではない。お客様の満足のために、直接利益につながらないようなサービスだっていくらやってもいい。でもそれは、そういうサービスに価値があるのではなく、そうしたことを通してどういうビジネスを展開していくかをしっかり見つめることが実は大切なのだ。それを忘れたサービスは、サービスのためのサービスであり、会社にとって利益にはならないだろう。
モノクロ写真には白と黒のコントラストしかない。強いコントラストと滑らかなグラデーション。それは写真を作る二つの要素である。それは互いに相補的な役割を担っているのだと思う。写真同様、物事はどこを切っても2つの対局という構図で切り取ることができる、のだと思う。でも、本当はその2つの軸というのも、我々がそう思っているに過ぎないような気がしないでもない。だってどこを切ってもいいなら、二つの対立軸だっでどのようにも決められるはずである。
でも、よく観察してみると物事はそれほど簡単に箇条書きにはできない場合が多いことに気がつく。クラゲだってそうだ。詳しいことは知らないが、きっとクラゲの表面には細胞と海水が混ざったような境界が何となく広がっていて、どこまでが水でどこからが細胞なのかを厳密に線引きをするのはできないに違いない。仕事でもそうだろう。箇条書きに従って仕事をすれば誰でもいい仕事ができるかというと、決してそんなことはないことも誰でも知っている。電話を取る時のちょっとした挨拶や、プレゼンでちょっとだけ仕事と関係ないことを言って相手の心をつかむことなどマニュアルには書いてない細かなことが沢山あるに違いない。そして、そうしたディテールを何気なくこなす人こそプロというものだろう。では、こういうディテールさえ押さえていればすべてはうまくいくかというと、もちろんそんなことはない。電話に出るたびに長々と時候の挨拶ばかりしていたのでは、もちろん仕事は進まない。やるべきことはやはりちゃんと箇条書きに従ってやるしかない。当たり前だ。
では輪郭とディテールのどちらが大切か。それはきっとそんな単純な話ではない。つまり、輪郭を見るためにはディテールに心を馳せる必要があり、逆にディテールにまで気を使うにはきっちりとした輪郭が意識されなければならないのだ。言い換えると、輪郭とディテールの両者は、それ単独では存在し得ない、つまり、輪郭のためにディテールはあり、ディテールのために輪郭は存在する。どっちが上でもどっちが下でもない。それは互いにつながった輪のようなものなのである。
だから、マニュアル至上主義もOKなのである。それはそれ自身が悪いことではない。ただ、マニュアル至上主義は、マニュアルそのものが大事なのではなく、そのマニュアルの項目の隙間に横たわる無限のディテールを見るためのきっかけを与えているにすぎないと考えることが大切なのだ。逆にディテールにこだわることは悪いことではない。お客様の満足のために、直接利益につながらないようなサービスだっていくらやってもいい。でもそれは、そういうサービスに価値があるのではなく、そうしたことを通してどういうビジネスを展開していくかをしっかり見つめることが実は大切なのだ。それを忘れたサービスは、サービスのためのサービスであり、会社にとって利益にはならないだろう。
モノクロ写真には白と黒のコントラストしかない。強いコントラストと滑らかなグラデーション。それは写真を作る二つの要素である。それは互いに相補的な役割を担っているのだと思う。写真同様、物事はどこを切っても2つの対局という構図で切り取ることができる、のだと思う。でも、本当はその2つの軸というのも、我々がそう思っているに過ぎないような気がしないでもない。だってどこを切ってもいいなら、二つの対立軸だっでどのようにも決められるはずである。