ぼくは泣かないのに
夫婦で力を合わせて、八年間やってきたお店を、夫の体調の崩れとともに訪れた営業不振で、万策尽きて遂に店仕舞いとなってしまった時の、辛さと惨めさといったら大変なものでした。
ガックリと心身ともに落ち込んでしまった私と夫を、最後の最後まで支えてくれたのは、三人のわが子たち。一人は、まだ赤ちゃんでした。まだ物事のよく判らない子どもたちでしたが、店をやめてから長い時間、一緒にいられるようになったことを、すごく単純に喜びました。
「みんな一緒にいられる方が楽しいよ」
五歳になるお姉ちゃんが、とても素敵な笑顔で言ってくれました。四歳の弟も負けずに、
「ずーっと、ずーっと、このままでいようよ」
と、幸せそのものの笑顔で言いました。
店をやっていた時は、あちこちに預け歩いたり、店に連れてきても仕事にかまけて、相手をしてやれる余裕などもなくて、いつの間にか笑いを忘れてしまったかのようだった子どもたちでした。
その子どもたちが、いつも一緒にいられるようになったとたん、それまでの暗さが嘘みたいに、明るくはしゃぎ始めたのでした。
「おとうさん、ボール遊びしようよ」
「おかあさん、ごはんの用意、お手伝いする」
と、ベタベタくっついてくる子どもたち。今まで放っておかれた反動もあったのでしょうか、一日中そうしていても飽きないようでした。ニコニコしている時間が長くなりました。
そんな子どもたちを前にしては、気落ちして、なかなか立ち直れないでいる私と夫も、無理矢理にでも明るく振舞うしかなかったのです。ちょっとでも暗い顔をしていると、
「ねえ、おかあさん、どうしたの?」
と、何回も繰り返して問い詰められる始末で、最後には苦笑して、ごまかすのに精一杯。
胸に抱いてる赤ちゃんも、ニコニコと母親の私を信じ切っていました。その寝顔なんかをソーッと見るたびに、苦しさなんかスーッと消えてしまって、とても幸せな気分になれるのでした。
「おい、この子らのためにも、俺たちいつまでも落ち込んでるわけにはいかないぞ」
子どもたちの笑顔のせいで発奮した夫は、私を掴まえて、そう言うまでになりました。
「そうよ。お店は失っちゃったけど、私たちには一番大切な子どもたちが、ちゃんと残っているのよね。あの子らを泣かすわけにはいかないわ」
私には異論があるはずはありません。大きく頷いて夫にVサインでニッコリしたものです。
考えてみれば、この子どもたち、ここまで育ったのが不思議なくらい、若い母親の私を苦しめてくれたものでした。生後三ヶ月で川崎病による入院となった長女。腫れ上がって血も滲んで悲惨な状態の長女が、点滴を受けて身動きの出来ない側で、昼夜まんじりともせず付き添い続けたあの時、
(この子に笑顔が出る時があるだろうか?)
と悲観的な思いにとらわれたものでした。その諦めかけた長女の笑顔が、今、目の前にありました。
ヘソの緒を首に巻いて仮死一歩手前の状態で生まれた長男は、その影響か、やっぱり身体が弱くて、何かといえば熱を出して、私たちをてんてこまいさせてくれたものでした。
三人目の赤ちゃんもアトピー症状が酷くて、ポリポリかいて血だらけになるのを、手をこまねいて見ていなければならなかった辛さ。それが一最二か月を迎える頃に不思議と消えてしまった時は、もう神様に大感謝でした。
それぞれの子どもが、それぞれの難関を何とか乗り切って育ってくれたのです。あの時の苦しい体験が、今は貴重な思い出となっています。あれがあったからこそ母になれたのかも知れません。子どもとの絆が生まれたのです。
その子どもたちが、失意のどん底にある私たちを救ってくれるエンゼル役を務めてくれようとは、当時は全く考えられませんでした。
この夏に、最も頼りにしていた夫のお兄さんが急逝され、またしてもガックリきてしまった時も、速やかに立ち直らせてくれたのは、やっぱり子どもたちの邪気のない笑顔だったのです。あんなに即効性のあるものは他にないでしょう。よく授かったものだと、子どもらを見つめながら、自分の幸せを噛みしめました。
「おかあさんも、おとうさんも、すぐ泣いちゃうの。おかしいな」
敏感な長女が、失望続きで涙もろくなっている私たちを、ちゃんと発見していました。
「ぼくだって泣かないのに」
長男がこましゃくれた口を叩きます。
そして二人とも、そんなの絶対おかしいやとばかりに、くったくなくケラケラと笑うのです。眩しいばかりの笑顔でした。
「こいつらには負けるな、子どものくせに……」
強がって言う夫も、顔をくしゃくしゃにして、みっともありません。でも、そんな夫の心は、私にはよく判っていました。
まだまだ続きそうな苦境だけど、私たちの宝物である子どもの笑顔。頑張って守らなきゃ!!
(1991年・文作)
夫婦で力を合わせて、八年間やってきたお店を、夫の体調の崩れとともに訪れた営業不振で、万策尽きて遂に店仕舞いとなってしまった時の、辛さと惨めさといったら大変なものでした。
ガックリと心身ともに落ち込んでしまった私と夫を、最後の最後まで支えてくれたのは、三人のわが子たち。一人は、まだ赤ちゃんでした。まだ物事のよく判らない子どもたちでしたが、店をやめてから長い時間、一緒にいられるようになったことを、すごく単純に喜びました。
「みんな一緒にいられる方が楽しいよ」
五歳になるお姉ちゃんが、とても素敵な笑顔で言ってくれました。四歳の弟も負けずに、
「ずーっと、ずーっと、このままでいようよ」
と、幸せそのものの笑顔で言いました。
店をやっていた時は、あちこちに預け歩いたり、店に連れてきても仕事にかまけて、相手をしてやれる余裕などもなくて、いつの間にか笑いを忘れてしまったかのようだった子どもたちでした。
その子どもたちが、いつも一緒にいられるようになったとたん、それまでの暗さが嘘みたいに、明るくはしゃぎ始めたのでした。
「おとうさん、ボール遊びしようよ」
「おかあさん、ごはんの用意、お手伝いする」
と、ベタベタくっついてくる子どもたち。今まで放っておかれた反動もあったのでしょうか、一日中そうしていても飽きないようでした。ニコニコしている時間が長くなりました。
そんな子どもたちを前にしては、気落ちして、なかなか立ち直れないでいる私と夫も、無理矢理にでも明るく振舞うしかなかったのです。ちょっとでも暗い顔をしていると、
「ねえ、おかあさん、どうしたの?」
と、何回も繰り返して問い詰められる始末で、最後には苦笑して、ごまかすのに精一杯。
胸に抱いてる赤ちゃんも、ニコニコと母親の私を信じ切っていました。その寝顔なんかをソーッと見るたびに、苦しさなんかスーッと消えてしまって、とても幸せな気分になれるのでした。
「おい、この子らのためにも、俺たちいつまでも落ち込んでるわけにはいかないぞ」
子どもたちの笑顔のせいで発奮した夫は、私を掴まえて、そう言うまでになりました。
「そうよ。お店は失っちゃったけど、私たちには一番大切な子どもたちが、ちゃんと残っているのよね。あの子らを泣かすわけにはいかないわ」
私には異論があるはずはありません。大きく頷いて夫にVサインでニッコリしたものです。
考えてみれば、この子どもたち、ここまで育ったのが不思議なくらい、若い母親の私を苦しめてくれたものでした。生後三ヶ月で川崎病による入院となった長女。腫れ上がって血も滲んで悲惨な状態の長女が、点滴を受けて身動きの出来ない側で、昼夜まんじりともせず付き添い続けたあの時、
(この子に笑顔が出る時があるだろうか?)
と悲観的な思いにとらわれたものでした。その諦めかけた長女の笑顔が、今、目の前にありました。
ヘソの緒を首に巻いて仮死一歩手前の状態で生まれた長男は、その影響か、やっぱり身体が弱くて、何かといえば熱を出して、私たちをてんてこまいさせてくれたものでした。
三人目の赤ちゃんもアトピー症状が酷くて、ポリポリかいて血だらけになるのを、手をこまねいて見ていなければならなかった辛さ。それが一最二か月を迎える頃に不思議と消えてしまった時は、もう神様に大感謝でした。
それぞれの子どもが、それぞれの難関を何とか乗り切って育ってくれたのです。あの時の苦しい体験が、今は貴重な思い出となっています。あれがあったからこそ母になれたのかも知れません。子どもとの絆が生まれたのです。
その子どもたちが、失意のどん底にある私たちを救ってくれるエンゼル役を務めてくれようとは、当時は全く考えられませんでした。
この夏に、最も頼りにしていた夫のお兄さんが急逝され、またしてもガックリきてしまった時も、速やかに立ち直らせてくれたのは、やっぱり子どもたちの邪気のない笑顔だったのです。あんなに即効性のあるものは他にないでしょう。よく授かったものだと、子どもらを見つめながら、自分の幸せを噛みしめました。
「おかあさんも、おとうさんも、すぐ泣いちゃうの。おかしいな」
敏感な長女が、失望続きで涙もろくなっている私たちを、ちゃんと発見していました。
「ぼくだって泣かないのに」
長男がこましゃくれた口を叩きます。
そして二人とも、そんなの絶対おかしいやとばかりに、くったくなくケラケラと笑うのです。眩しいばかりの笑顔でした。
「こいつらには負けるな、子どものくせに……」
強がって言う夫も、顔をくしゃくしゃにして、みっともありません。でも、そんな夫の心は、私にはよく判っていました。
まだまだ続きそうな苦境だけど、私たちの宝物である子どもの笑顔。頑張って守らなきゃ!!
(1991年・文作)