口は出すけど手は出さない
「きょうの休み、おとうさんの畑仕事手伝うてくれや」
「えーっ、ぼく、遊ぶ約束してんのに」
「あかんのか?」
「う……ええけど」
4年生の息子、誠悟はしぶしぶといった様子でうなずいた。
「かまへんよ、遊びにいったらええから。約束してんでしょ」
そばで聞いていた妻がよけいな口を出してきた。
「おまえ、だれと約束してるんや?」
「……」
「ユースケくんと違うの」
またまた口出しの妻にムカッときた。
「どないなんや、誠悟」
「だれとも約束してないわ」
(ほらみてみいや)と言わんばかりに胸を張って妻を見た。妻はそれでも負けていない。
「おとうさんがガミガミ言うから、なんも言えへんのやんか。気にせんでええから、遊んできなさい。子どもは、よう遊んだらええんや。遊ぶんが仕事なんやから。おとうさんは子どものこと、ちっともわかってくれへんのやからね」
ついに、わたしの腹の虫が爆発した。
「やかましい!おまえにわしの考え方がわかるかい。おまえとわしは、子どもの教育に対する考え方は違うんや。それをいっしょくたにすな!」
こうなると、妻も黙ってはいない。妻は保母で、児童教育のなんたるかを勉強してきているから、こういう問題には一家言をもつ。
「いまの子どもは昔と違うの。学校で毎日遅うまで勉強、勉強で追いまくられてるんやから、休みの時ぐらいは思うとおりにさせたらなあかんのや。それをも見守ってやるのが親の務めなんやからね」
「アホ!わしの子どもの時分はなあ、親を手伝うて、いろんな知識を身につけたもんや。親といっしょに汗流しとるうちに、自然と親子のきずなが育っていくんやど」
もう平行線をたどるしかない。わたしと妻は十三の年齢の開きがある。育ってきた時代背景が違うから、どうしても意見がかみ合わないことが多くなる。だから、結婚して以来、しょっちゅう口げんかをしている。
でも、子どもの教育うんぬんで言い合うのは、そのときが初めてだった。自由に、おおらかに育ってくれればいい、との考えで一致していたからである。
「勝手にせんかい!もう、どいつもこいつも」
わたしは逆上ぎみに捨てぜりふを残して、その場を立った。中身のない感情に任せた言い合いに妻の目が潤みはじめたのを、目ざとくわたしは認めたのだ。それ以上いけば収拾のつかない夫婦げんかになるのは、これまでの経験上、わかりきっていた。
腹だちが癒やせないままに、わたしは畑で備中鍬をふるって、土を掘り起こした。
「くそったれ!くそったれ!」
と、腹の中で繰り返した。
ふと人の気配に気づいて振り返ったわたしは、そこに息子の姿を認めた。長靴を履いて手伝う用意をしていた。
「おまえ、遊びにいかへんのか?」
「ええのんや。遊びにはいつでもいけるもん」
そうニコニコしながら言うと、息子は「はい」と手のものをわたしに突き出した。アイスキャンディーだった。
「おかあさんが、おとうさんに持っていってあげてってさ。きっとのどが渇いて大変だからって言ってたよ」
そういえば、さっきの口げんかのせいもあって、のどはカラカラだった。さすが妻は好敵手だ。わたしと違ってかなりゆとりがある。あの目の潤みは目くらましだったに相違ない。癪だが、のどの渇きには勝てなかった。
息子と並んであぜの上に座りこみ、アイスキャンディーをなめた。渇いたのどには冷たくて極上の味だった。
「ごめんね、おとうさん」
いきなり息子が言った。見やると、照れくさそうな息子の顔があった。
「なんや?」
「ぼく、おとうさんとおかあさん、けんかさせてしもうたもん」
「アホ。おまえら子どもは、そんなん気にせんでええんや」
そう、あれはわたしと妻の、生活のマンネリ化へカツを入れる行事みたいなものなのだ。でも、口は出すが手を出さないのが鉄則なのだ。
(家の光平成七年三月読者体験記入選作)
「きょうの休み、おとうさんの畑仕事手伝うてくれや」
「えーっ、ぼく、遊ぶ約束してんのに」
「あかんのか?」
「う……ええけど」
4年生の息子、誠悟はしぶしぶといった様子でうなずいた。
「かまへんよ、遊びにいったらええから。約束してんでしょ」
そばで聞いていた妻がよけいな口を出してきた。
「おまえ、だれと約束してるんや?」
「……」
「ユースケくんと違うの」
またまた口出しの妻にムカッときた。
「どないなんや、誠悟」
「だれとも約束してないわ」
(ほらみてみいや)と言わんばかりに胸を張って妻を見た。妻はそれでも負けていない。
「おとうさんがガミガミ言うから、なんも言えへんのやんか。気にせんでええから、遊んできなさい。子どもは、よう遊んだらええんや。遊ぶんが仕事なんやから。おとうさんは子どものこと、ちっともわかってくれへんのやからね」
ついに、わたしの腹の虫が爆発した。
「やかましい!おまえにわしの考え方がわかるかい。おまえとわしは、子どもの教育に対する考え方は違うんや。それをいっしょくたにすな!」
こうなると、妻も黙ってはいない。妻は保母で、児童教育のなんたるかを勉強してきているから、こういう問題には一家言をもつ。
「いまの子どもは昔と違うの。学校で毎日遅うまで勉強、勉強で追いまくられてるんやから、休みの時ぐらいは思うとおりにさせたらなあかんのや。それをも見守ってやるのが親の務めなんやからね」
「アホ!わしの子どもの時分はなあ、親を手伝うて、いろんな知識を身につけたもんや。親といっしょに汗流しとるうちに、自然と親子のきずなが育っていくんやど」
もう平行線をたどるしかない。わたしと妻は十三の年齢の開きがある。育ってきた時代背景が違うから、どうしても意見がかみ合わないことが多くなる。だから、結婚して以来、しょっちゅう口げんかをしている。
でも、子どもの教育うんぬんで言い合うのは、そのときが初めてだった。自由に、おおらかに育ってくれればいい、との考えで一致していたからである。
「勝手にせんかい!もう、どいつもこいつも」
わたしは逆上ぎみに捨てぜりふを残して、その場を立った。中身のない感情に任せた言い合いに妻の目が潤みはじめたのを、目ざとくわたしは認めたのだ。それ以上いけば収拾のつかない夫婦げんかになるのは、これまでの経験上、わかりきっていた。
腹だちが癒やせないままに、わたしは畑で備中鍬をふるって、土を掘り起こした。
「くそったれ!くそったれ!」
と、腹の中で繰り返した。
ふと人の気配に気づいて振り返ったわたしは、そこに息子の姿を認めた。長靴を履いて手伝う用意をしていた。
「おまえ、遊びにいかへんのか?」
「ええのんや。遊びにはいつでもいけるもん」
そうニコニコしながら言うと、息子は「はい」と手のものをわたしに突き出した。アイスキャンディーだった。
「おかあさんが、おとうさんに持っていってあげてってさ。きっとのどが渇いて大変だからって言ってたよ」
そういえば、さっきの口げんかのせいもあって、のどはカラカラだった。さすが妻は好敵手だ。わたしと違ってかなりゆとりがある。あの目の潤みは目くらましだったに相違ない。癪だが、のどの渇きには勝てなかった。
息子と並んであぜの上に座りこみ、アイスキャンディーをなめた。渇いたのどには冷たくて極上の味だった。
「ごめんね、おとうさん」
いきなり息子が言った。見やると、照れくさそうな息子の顔があった。
「なんや?」
「ぼく、おとうさんとおかあさん、けんかさせてしもうたもん」
「アホ。おまえら子どもは、そんなん気にせんでええんや」
そう、あれはわたしと妻の、生活のマンネリ化へカツを入れる行事みたいなものなのだ。でも、口は出すが手を出さないのが鉄則なのだ。
(家の光平成七年三月読者体験記入選作)