親子であることの証明
前触れもなく父はいきなり勝手口から入って来た。ノソッという感じだった、
「おるかっ!」といつものぶっきらぼうな口調で居間に上がり込んで来て、私が寛いでいる炬燵の向かい側に足を入れた。
珍しいことだった。別に険悪な仲だというわけではないが、父と私はどうも気楽に話せない間柄だった。私も父も似通った話し下手の不器用な性格だった。
その父が今日はなんと自分から私と向かい合う位置に座ったのだから、内心驚きだった。しかし、私は父の用向きが即座にわかった。
とりとめのない話を自分から始めた父の顔は、七十四歳の老人の顔そのものだった。
「ほんまに釘ばっかり打つ仕事やわ」
私は父が聞きたいと思っているに違いないであろう、今の仕事の話の口火を思い切って切った。
「そやろ」
父はわが意を得たりとばかり合槌を打った。
私は二週間前に転職を図り、新しい会社の研修で新潟県の長岡市に滞在して帰ったばかりだった。新工法で近ごろ脚光を浴びている輸入住宅のパネル製作工場が新しい職場だった。
私の転職の理由は、妻の妊娠だった。当時、私は父のブリキ屋の仕事を手伝っていたのだが、妻の保母としての収入を合わせて何とか生計は成り立っていた。
それを妻が出産で仕事を辞めれば、収入源は私一人の肩にかかって来る。その分を今の父とともに営む仕事から得ようと望むのは無理というものだった。結局、月々しっかりと固定した収入がある仕事を探すしかなかった。
「お父さんも年やなかったら、仕事もっとできるんやけどのう。済まんのう」
父の立場を理解している母は申し訳なさそうに言った。母はいつも父の代弁者だった。
父はブリキ屋の後継者たる兄を事故で亡くして以来、寄る年波にも拘わらず、たった一人でブリキ職人の現役を張って来た。
私が父の仕事を手伝うようになったのは、父が膝の痛みに耐えながら屋根に上がって仕事をしている、と母から聞かされたからだった。少しでも父の手助けが出来るならと思ったのである。しかし、経済環境がそれを許さなかった。
「どないやった?」
「何とか出来そうや」
「ほうか。そらよかったのう」
ぶつ切れの父親と息子の会話だった。
「これのう」
父が戸惑ったように三万円を突き出した。
「これまでの日当や。少のうて済まんけど」
「そんなん、ええのに」
と言う私に受け取らせて、父は気弱に目を伏せた。私は自然に頭を下げていた。
「身体だけは気ぃつけて、精出せや」
帰る父の背中に隠せない老いを見詰めながら、私は自分の腑甲斐なさに打ちのめされた。
どう考えても老人の父と壮年の息子の立場は逆である。父が思う存分、好きなことをしながらの余生を送れるように、物心両面で支えになっていて当然の年齢の私が、いまだに父に心配して貰う子供でしかないのである。何とも情けない限りだが、この現実は今更どうこうしようがない。
新しい職場にも少し慣れて来たある休日、久しぶりに父の仕事の助っ人を務めた。錆びたトタン屋根を剥がし、成形したカラートタンの屋根に葺き直す厄介な仕事だった。
「グラインダーは、この角度で支えたら無理せんとトタンを切れるんやど」、「この取り合いをええ加減に仕上げたら、雨が漏るぞ」
父はえらく饒舌だった。作業ごとのコツをいちいち私に念を押しながらも、父の手際はよかった。速度こそゆっくりしていたが、丁寧な父の職人ワザは健在だった。
父の仕事を手伝っていた頃は、いちいち父の指示にカチンと来ていた私だった。それがまるで嘘みたいに、今は素直に聞けた。
「息子さんと一緒に仕事が出来るんは一番ですな。そらあんた、幸せでっせ」
父はその家の奥さんに声を掛けられた。
「ああ。自分の仕事が休みの日だけやけど、手伝うてくれおるんですわ」
父の言葉に弾むものがあった。そして、私自身もくすぐったいような喜びを感じた。
「おい、道具片付けてくれや」
「ああ」
私はすぐ片付けにかかった。父は最後の仕上げに余念がなく、狭い取り合い部分に半身をこじ入れていた。
軍隊時代に「チビ、チビ」と苛められたらしい、本当に小さい身体の父である。その父の小さい身体に、今は仕事にかける職人特有の逞しさが漲っていた。
やっぱり私のオヤジだと誇りを感じた。その父の子に生まれ育った私は、その逞しさを受け継いでいるはずだった。曲がりなりにも自分の家庭を持って人並みの生活をしている。それは、このオヤジのセガレだったからだ。
仕事に没頭する父の様子を見詰める私は、思わず笑った。いきなり父が顔を覗かせた。
「なんや?」
「いや……」
このぶっきらぼうさは、私とオヤジが親子である証明なんだ。そうだろ、オヤジ?
(1997年・文作)
前触れもなく父はいきなり勝手口から入って来た。ノソッという感じだった、
「おるかっ!」といつものぶっきらぼうな口調で居間に上がり込んで来て、私が寛いでいる炬燵の向かい側に足を入れた。
珍しいことだった。別に険悪な仲だというわけではないが、父と私はどうも気楽に話せない間柄だった。私も父も似通った話し下手の不器用な性格だった。
その父が今日はなんと自分から私と向かい合う位置に座ったのだから、内心驚きだった。しかし、私は父の用向きが即座にわかった。
とりとめのない話を自分から始めた父の顔は、七十四歳の老人の顔そのものだった。
「ほんまに釘ばっかり打つ仕事やわ」
私は父が聞きたいと思っているに違いないであろう、今の仕事の話の口火を思い切って切った。
「そやろ」
父はわが意を得たりとばかり合槌を打った。
私は二週間前に転職を図り、新しい会社の研修で新潟県の長岡市に滞在して帰ったばかりだった。新工法で近ごろ脚光を浴びている輸入住宅のパネル製作工場が新しい職場だった。
私の転職の理由は、妻の妊娠だった。当時、私は父のブリキ屋の仕事を手伝っていたのだが、妻の保母としての収入を合わせて何とか生計は成り立っていた。
それを妻が出産で仕事を辞めれば、収入源は私一人の肩にかかって来る。その分を今の父とともに営む仕事から得ようと望むのは無理というものだった。結局、月々しっかりと固定した収入がある仕事を探すしかなかった。
「お父さんも年やなかったら、仕事もっとできるんやけどのう。済まんのう」
父の立場を理解している母は申し訳なさそうに言った。母はいつも父の代弁者だった。
父はブリキ屋の後継者たる兄を事故で亡くして以来、寄る年波にも拘わらず、たった一人でブリキ職人の現役を張って来た。
私が父の仕事を手伝うようになったのは、父が膝の痛みに耐えながら屋根に上がって仕事をしている、と母から聞かされたからだった。少しでも父の手助けが出来るならと思ったのである。しかし、経済環境がそれを許さなかった。
「どないやった?」
「何とか出来そうや」
「ほうか。そらよかったのう」
ぶつ切れの父親と息子の会話だった。
「これのう」
父が戸惑ったように三万円を突き出した。
「これまでの日当や。少のうて済まんけど」
「そんなん、ええのに」
と言う私に受け取らせて、父は気弱に目を伏せた。私は自然に頭を下げていた。
「身体だけは気ぃつけて、精出せや」
帰る父の背中に隠せない老いを見詰めながら、私は自分の腑甲斐なさに打ちのめされた。
どう考えても老人の父と壮年の息子の立場は逆である。父が思う存分、好きなことをしながらの余生を送れるように、物心両面で支えになっていて当然の年齢の私が、いまだに父に心配して貰う子供でしかないのである。何とも情けない限りだが、この現実は今更どうこうしようがない。
新しい職場にも少し慣れて来たある休日、久しぶりに父の仕事の助っ人を務めた。錆びたトタン屋根を剥がし、成形したカラートタンの屋根に葺き直す厄介な仕事だった。
「グラインダーは、この角度で支えたら無理せんとトタンを切れるんやど」、「この取り合いをええ加減に仕上げたら、雨が漏るぞ」
父はえらく饒舌だった。作業ごとのコツをいちいち私に念を押しながらも、父の手際はよかった。速度こそゆっくりしていたが、丁寧な父の職人ワザは健在だった。
父の仕事を手伝っていた頃は、いちいち父の指示にカチンと来ていた私だった。それがまるで嘘みたいに、今は素直に聞けた。
「息子さんと一緒に仕事が出来るんは一番ですな。そらあんた、幸せでっせ」
父はその家の奥さんに声を掛けられた。
「ああ。自分の仕事が休みの日だけやけど、手伝うてくれおるんですわ」
父の言葉に弾むものがあった。そして、私自身もくすぐったいような喜びを感じた。
「おい、道具片付けてくれや」
「ああ」
私はすぐ片付けにかかった。父は最後の仕上げに余念がなく、狭い取り合い部分に半身をこじ入れていた。
軍隊時代に「チビ、チビ」と苛められたらしい、本当に小さい身体の父である。その父の小さい身体に、今は仕事にかける職人特有の逞しさが漲っていた。
やっぱり私のオヤジだと誇りを感じた。その父の子に生まれ育った私は、その逞しさを受け継いでいるはずだった。曲がりなりにも自分の家庭を持って人並みの生活をしている。それは、このオヤジのセガレだったからだ。
仕事に没頭する父の様子を見詰める私は、思わず笑った。いきなり父が顔を覗かせた。
「なんや?」
「いや……」
このぶっきらぼうさは、私とオヤジが親子である証明なんだ。そうだろ、オヤジ?
(1997年・文作)