こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

父の日を前に

2023年06月07日 01時12分51秒 | 日記
「なんか欲しいもんある?」
長女からlineが入った。
父の日を前に、
贈り物の希望を訊いてくれるのだ。
そして当日は孫を連れて家を訪ねてくれる。
必ず手渡してくれる贈り物。
ついでというわけではないが、
加齢で難儀するようになった足の爪を切り揃えてくれる。
福祉介護士の仕事で、
ベテランの域に達している娘にはたやすいことだろうが、
私にはこの上なく嬉しい。そして幸福感に浸るシーンである。
社会人になってからずーっと続いている娘の思いやりなのだ。
4人の子供がいても、
そんなことを律儀にやり続けてくれるのは、一番上の彼女だけ。
そんな彼女に好物の「炊き込みご飯」を作って持て成す父親。
釜めし風に炊き上げたものを娘はお替りまでしてくれる。
父親冥利に尽きさせてくれる娘に、
(君の親で最高にしあわせだよ)と感謝をしてもし足りない。
炊き込みご飯の話を10年前に書いている。
村の葬儀事に村総出で向かい合ったよき時代、
大釜で数十人分の混ぜご飯を炊き上げたものである。
今はもう、その慣習はなくなってしまった。
原稿を読み直して、思い出にふけってしまった。

『一味違ったカシワごはん』

「ちょっと薄いわ。醤油もっとぶち込めや」
 したり顔で指示するのは長老格。
 鋳物製の大鉄釜を取り囲んで、ワイワイやっているうちにカシワ(鶏肉)飯は炊き上がる。蓋をずらすと焦げた醤油のいい匂いが辺りに漂う。竃の火を落とすタイミングである。火のついた薪を炊き口から引っ張り出すと、水をかけて消した。
「おお、うまそうに炊けたやないか!」
 一斉にどよめきと歓声が上がる。大鉄釜の中で炊き上がって、湯気が立ちのぼるカシワ飯。薄く醤油色に染まった飯の表面に具材が広がる。デカいしゃもじで中身の天地を思い切りよく返す。具材と醤油めしを程よく混ぜ合わす。
それを茶碗によそって座敷に運べば、てったいはん(お手伝いさん)連中の打ち上げ宴会の用意万端だ。美味い物を口にすれば、みんなの顔がほころぶ。そしてお喋りがはずみ、自然と連帯意識が育まれる。男衆もおなご衆も、炊き上げたカシワ飯を存分に味わうのだ。
 数年前まで続いた、祝い事や非事の際の炊き出しだった。その打ち上げに恒例となっていたのが、カシワ飯のふるまいである。飯を炊くのは男衆、汁物はおなご衆の担当と決まっていた。
 洗米も、具材を刻むのも、当たって砕けろ同然のの味付けも、すべてが豪快そのもの。まさに男の料理、ここにありを示していた。
 数十人分をいっぺんに炊き上げるのだ。味付けが少々乱暴でも炊き上がると、結構まとまった味になる。美味くて当然だった。 米・カシワ(鶏肉)・人参・椎茸は自分の家で間に合う地元産。買って来た蒟蒻と油揚げが加わった、具だくさんのご馳走である。あっさりの醤油味は食材のエキスが混じって、飽きの来ない美味さを生み出している。何杯でもおかわりがいける。お茶をぶっかけると極美味の茶漬けになる。もう何もいうことはない。
 年配層が抜けて世代交代が始まると、待ちかねていたかのようにてったいはん(お手伝いさん)の慣習は簡略化どころか、炊き出しなどの連帯作業は、若い人たちの多数派意見で、廃止のはめに追い込まれた。炊き出しをしようとすれば、食材の買い出し、仕込みに始まる面倒な行程を余儀なくされる。自分の時間を優先する若い人に敬遠されるのが時の流れだった。
 たまに家でカシワ飯を炊いてみるが、記憶にある味にはまだ出会ったことがない。少量を電気釜で炊くのだから、あの味を求めるのは無理な話である。炊き上がった食べていると、あの鉄の大釜で炊き上げたカシワ飯の味が、やたらと恋しくなる。あの醤油の焦げた匂いは、おこげを作らない電気釜の機能では、とても望めない。ああ~、食いたい!あのカシワ飯を、もう一度。
コメント
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