こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

男の屑と言われた女性に憤り

2015年01月20日 00時24分26秒 | 文芸
゛男の屑゛と言った女への憤り

 二十六歳にして畑違いの外食産業へ転職した私は、当初こそ独立の夢を描いて着々と歩を進めていたものだが、実習現場に選んで入った喫茶店、この職場が不思議と水が合ったのか、
(このまま、ここで働き続けてもいいな)
 なんて気持ちになってしまっていた。
 オーナーも抱擁力があり、同僚も好人物ばかりだったせいもあるが、なんといっても大恋愛中ってのが一番の理由だった。愛する女性の存在は、私に安全志向を優先させていた。
「今度新しい店を出すんだが、齋藤君にマネージメントをやって貰おうと思っている」
 オーナーに買われた私は即座にマネージャーを引き受けた。恋愛相手のA子も新しい店にアルバイトとして同行した。A子は当時女子大生三回生で、私が働いていた職場のアルバイトとして入って来たのに、私が一目ぼれ
して付き合い始めたのである。
 新しい店のスタートで、すべてのものが揃った感のある私は幸福の絶頂にいた。自分の店を持って独立するなんて、とっくの昔に考えなくなっていた。現状に満足しきっていたのである。
 ところが、この新しい店、案外立地に恵まれていなかったようだ。おかげで最初から悪戦苦闘の連続となった。もちろん、その間もA事わたしとの熱い交際は続いていた。もしかしたら、マネージメントで生じるストレスを解消するために、」ことさらA子にのめり込んでいったのかも知れなかった。
「君には期待はずれだったな。売り上げ不振の責任は取って貰わなあかん。まあともかくご苦労さんやった」
 オーナーの冷ややかな首切り宣言だった。しかし、恋愛中の私には、どうでも良かった。A子がいてくれればいい。現実の煩わしさなど考えたくもなかった。
 職無しになった私には、A子に溺れる日々だけが残されていた。
 そんなある日、A子が深刻な顔で言った。
「自分の店を持つんだと頑張っていたあなたが好きだったの。マネージャーで挫折しても、きっと立ち直ると信じてたのよ。でも、結局ダメ!毎日毎日、グズグズネチネチと、男の屑になってしまった。もういや、付き合えない!もう連絡しないで!」
 強烈なカウンターパンチだった。
 A子に去られた私は、しばらくは魂を嘘なった亡霊みたいなものだった。何をする気力も湧かず、アパートの自室に閉じ籠ってしまった。
 三日ぐらいたった頃、それまで真っ白だった私の脳裡に、フツフツとしたものが生まれていた。だらしない自分に、首を切ったオーナーに、そしてA子の最後通牒に、私はとめどもなく怒りを覚えたのである。
(くそったれ!みんな馬鹿にしやがって!よーし、やったるわ!俺は、自分の店を持ったる!)
 自分の頭をポカスカ撲った。痛かった。しかし、その痛みが私の覚悟を決定的なものにしたと言っていい。忘れられぬ痛みとなった。
 その日を境に、私の、絶対後には退けぬ挑戦が始まった。私は全く別人になっていた。
 二年後、私は喫茶店を開店させた。
 夢を実現させた私には、もう怖いものはなくなった。
(……俺は……男の屑じゃないぞ!)
 地震にあふれた私が、そこにいた!
(小説すばる・1990年11月掲載文)

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母と子をつなぐ雑誌広告

2015年01月19日 00時08分34秒 | 文芸
この頃の雑誌広告

「ウワァー、おいしそう!」
 6歳の長女が、雑誌をペラペラやっていたかと思うと、いきなり歓声を上げた。
「なにが?なにが?」
 私と5歳の長男が、野次馬になって飛んでいく。そして覗き込む。
 大盤の婦人雑誌だった。2ページ全部使ったオーブンレンジのカラフルな広告で、1ページ分にビーフシチューが、いかにもおいしいって感じで出来上がり、湯気を立てている。
「ほんとうだ、食べたいなあ」
 食い意地の張った長男が、喉をゴクリと鳴らして言った。
「アラ、きのう同じもの食べたでしょう」
「エー、嘘だァー!」
「全然違うよ。こんなにおいしくなかったよ」
 もう写真のシチューを食べたかのように、長男は疑いの視線を私に向けた。
「絶対に同じもの。同じシチューなんだから」
 なんかムキになって弁明する自分がおかしくなって、思わずクスッと噴き出した。
「ほら、やっぱり嘘ついてるんだ」
 長女が真面目な顔で糾弾だ。結局、今夜もビーフシチューを作らないと駄目みたい。
 最近の雑誌広告は、雑誌自体も大判が増えたし、カラーがもの凄く綺麗になった感じ。それに、例えばオーブンレンジの広告だからといって、直接商品そのものをアピールする広告は少なく、スマートなイメージでレイアウトされている。写真やイラストが効果的に使われている。
 まるで絵本……そう、私たち母親と子どもたちにとっては、絵本そのものなのだ。
 子どもたちにとって、母親の読んでいる雑誌は、とても興味があるらしい。別々に読んでいても、すぐ私の手元を覗き込んでくる子どもたち。
 そこで色鮮やかな広告のページを前に、母と子の楽しいスキンシップが展開する。
「お母さんよりきれいな女の人がいるよ!」
 人気女優がワインを持ってニコッと頬笑んでいるのを見つけた長男が、ズバリと言ってのける。さすが、男の子、早くも見る目が!なんて喜んでいられるほど、女心は甘くない。ガックリ!母親もやはりおんななのです。
「違うよ。この人はお化粧してるから、ちょっと綺麗に見えるだけなのよ。お母さんだって……」
 すぐに長女が、私にかわって抗議しました。やっぱり彼女は女の子。母親の味方なのだ。
「白い馬車が、カラカラと音を立てて、どんどん空へ上がって行きます。魔法の馬車に乗ったお姫さまは、もうすぐカッコいい王子さまと出会えるのです……って」
 幼くしてロマンチストぶりを発揮の長男が、結婚披露宴会場の広告で、今にも走り出すばかりの二頭の馬に引かれた白い馬車の写真を見て、どんどん物語をふくらませて呟いている。夢見ている長男の顔の可愛いこと。最高!
 最近、働きに出るようになって、ちょっぴり疎遠(?)になりがちだった母と子の関係が、雑誌広告への新しい発見から、再び取り戻せつつあるのだ。子どもたちの成長を見るように、雑誌広告は、まだまだ華麗な変身を遂げそうだ。次はどんな素敵な出会いが出来るかな?ワクワク!
(平成元年十一月・雑誌広告感想文掲載作)
 
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先生を信じてとんだ日

2015年01月18日 00時21分58秒 | 文芸
先生を信じて飛んだ日

「ちょっと話があるんやけどな……」
 いきなり呼びかけられた。機械科で実習担当の永富先生だった。電気科で学ぶ私が先生と知り合ったのは同好会活動を通じてである。
 新設2年目。県立T工業高校は、確立した校風はなく、かなり自由な雰囲気だった。クラブ活動も運動部が殆ど。美術部はなかった。趣味が漫画の創作だから、ストーリー漫画同好会を学校に申請して認められた。顧問になってくれたのが、永富先生である。
「どや。生徒会の選挙に出てみいひんか?」
「え?゛゛そ、そんなん無理です。僕に、そんな資格ありません」

こんな自分が生徒会選挙に?

 寝耳に水だった。小学校から今日まで、級長どころか、リーダー的な役割を務める機会は一度もなかった。内気で小心者だと自覚しているから、当然の話である。
 それだけではない。前に通っていた高校を退学になっていた。T工業高校は、やり直したいと一念発起、合格した学校だ。同級生は、普通なら一学年後輩に当たる。落第生意識から抜け切れない学校生活だった。出来るだけ目立つまいと、何に対しても、控え目になった。ただ、勉強は、前の学校が普通科だったせいで、今のクラスでは上位の成績を占めた。でも、それは何ら自信に繋がらなかった。
「生徒会長に立候補させたいんや、君を」
 永富先生に諦める気は全く見られない。
「ぼ、ぼく゛゛一年遅れのせいとやから゛゛」
「そんなん関係あるかい。今の君は立派なT工業高校の生徒や。同好会の予算も、ちゃんと認めさせて取って来たやないか。君なら、やれる。自信もて。先生が太鼓判押す」
 確かに、同好会の予算折衝の委員会に出て、会の意義や活動内容、必要な予算などを主張して、それなりの結果を得ていた。自分が気兼ねなく居られる場所を確保するためだから、懸命になれたのだ。
「……で、でも、僕は、前の学校で……」
 重荷であり続けている、退学になった過去。私は、俯いて、唇を噛み締めた。
「馬鹿言うな。ここにいるのは、見事に立ち直った人間や。何があったのかは聞いて知っている。だけど、もう誰にも恥じる必要なんか、どこにもないぞ。自分を追い込むな」
「先生?」
 私は顔を上げて、先生を見た。
「うん、うん」
 と笑顔が返ってきた。

先生の力強い言葉で

「先生かてな。いまになって言えるけど、そら何回も挫折してきてるんやけぞ」
 喧嘩が警察沙汰になって、停学の高校時代。大学は留年続き。教員の採用試験も合格まで、かなり四苦八苦した。永富先生は、まるで他人事のように語った。
「どないなことを経験しとっても、なんとか一人前になれとるやろが。恥ずかしいなんて思うたら、バチが当たりよるわ。恥ずかしいのは、これから先の挑戦から逃げることや。先生は逃げへんで、踏ん張って前に進むだけや。君かて、そないなるんや」
 先生はまるで自分に言い聞かせる風だった。
「もっともっと、自分を大きくするためや。失敗したかてええやないか。懸命にやったら、誰も文句言えるかい。やり直しが何度でも出来るんが、高校生の特権や。そやろ?」
 永富先生の力強い言葉に、突き動かされた。
「はい!」
 と、私は躊躇なく答えた。この先生なら信じられる。信じよう。ついていこう。もう私は、迷わない。もう俯きっぱなしはイヤだ。
 生徒会長選挙に立候補した私は永富先生の助言を受けながら立会演説会の原稿を作った。
「よそ事はええから、身近な問題を自分で見つけて、みんなに訴えるんや」
 永富先生は、自分の意見を押し付けなかった。ただ、ヒントを、ボソッと口にした。
 立会演説会は、原稿を持たずに出た。先生の指導で、何度も何度も繰り返して覚えた。そして自分の言葉にして、みんなに訴えかけた。
 生徒会長になった私は、他の役員と協力しあって、走り回った。頭髪問題で、学校に、最上級生だけでもと譲歩したものの、ちょうはつの許可を得た。体育祭しかなかった学校行事に、文化祭を実現させた。泣き、笑い、時には怒った。充実した生徒会活動の一年は瞬く間に終わった。
 美術部に衣替えしたストーリー漫画同好会に復帰した私に、永富先生は一言。
「お疲れやったな。生徒会長さん」
 無言で笑顔を返した。
「もう大丈夫やな。オドオドすんのが、キレイに消えたわ。長い人生、過去を引きずって生きるのは勿体ない。先生、見てられんかったわ」
 ハッと気づいた。先生は、同好会の顧問を引き受けた時には、既に私の過去を知っていたのだ。だから、前向きに生きる力を取り戻す場に、私を引っ張り出したのだ。そうか!先生は、夢と希望を思い出させてくれたのだ。この私に。
(2014年3月掲載文)
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育ったね『おとうさんっ子』その2(完結)

2015年01月17日 00時05分09秒 | 文芸
「か~ら~す~なぜ~なくの~♪」
 泣き止まぬリューゴくんをソーッと泣き、小さな身体をリズムよく揺らしながら、お父さんが歌ってやった歌、忘れちゃいないよな。お父さん、あの歌しか自信なかったから、いつでもあればっかり。でも、あの歌こそ親子の愛情を歌っててピッタリだったんだ。
「この子、音痴になるわよ。情操教育が、あなたのリズムはずれの歌だもん」
 お母さん、しょっちゅうからかっていたけど、お父さんの美声、満更じゃなかったろう。
 でも、リューゴくんを抱っこしていて、ハッとした。お前の柔らかく温かい小さな身体が衣服を通して、お父さんの身体とひとつになるような気がした。お前の天使のような顔を見詰めていると、今にもすい込まれてしまいそうな気がした。それは物凄く幸福な気分だった。お父さん、もう感激してしまっていた。
 たぶん、あんな感激の連続が親子の絆を生み出していくのだろう。お姉ちゃんやお兄ちゃんの子育てに一切参加しなかったお父さんは、これから相当努力しないと、お姉ちゃんやお兄ちゃんとの親子の絆、でき上がらないかも知れないと不安になったものだ。
 リューゴくんを育てて来たお父さんにとって一番の感動だったの、なんだか知ってるかい?お前が立った時なんだ。
 その瞬間を見逃してしまったお父さんだけど、
「この子、いつ立って歩くかな?」
「時期が来たら、ちゃんと立つわ」
 と、お母さんと話し合った翌日、さっきまでハイハイしかしていなかったお前は、ふっと振り返ったお父さんの目の前で立ち上がっていた。そりゃ不安定でヨロヨロして、ほんの瞬間しか立っていなかったけれど、
「ワアーッ!リューゴ、やったぞ!」
 お父さんは思わず大声を出していた。
「おい、リューゴが立ったぞ。本当に立ち上がったんだぞ!」
 仕事から帰ったお母さんに、興奮気味に報告するお父さんだった。本当に、あんな嬉しい気持ちになったのは、いまだかってなかったと思う。
 それからも次々と、リューゴくんは、お父さんを感激ばっかりさせてくれたものだ。
 赤ちゃんを育てるのが、あんなに素晴らしいものだと判っていたら、お父さんは、お姉ちゃんやお兄ちゃんの時にも、子育てをほかの誰にも任せたくなかっただろうな。
 お姉ちゃんやお兄ちゃんが赤ちゃんの時は、夜遅く帰って来るお父さんの顔を見て、いつも泣きだされていたっけ。きっと、あの頃のお父さんは、ヨソの人でしかなかったんだ。お母さんに言ったことはなかったけれど、いつだってガックリ来ていたものさ。
 それなのに、リューゴくんは、なんとお父さんにベターッとくっついていないと寝なくなって、お母さんを嘆かせていた。やっぱり、生みの親より育ての親ってのは、本当なんだと実感して、目が潤んだほどだった。
「悔しいな、母性愛が父性愛に乗っ取られるとは……!?」
 あの時のお母さんの言葉は、とても印象的だった。
 リューゴくんは、無味乾燥的な世の中に疲れ切っていたお父さんに、改めて人間の素晴らしさ、生命の素晴らしさを思いださせてくれた大恩人なんだ。感激や感動なんて、学生時代以来だから、リューゴくんの存在は、お父さんにとっては最高のものだ。
 でも、これからが本当のリューゴくんとお父さんの親子の絆作りなんだ。お前だって、そう思うようになるんじゃないかな。
 二歳になったリューゴくんは、いろんな言葉が喋れるようになってるし、喜怒哀楽もハッキリ表現できるようになって来てる。すごいよな。まったくのゼロから出発して、こんな成長を見せているんだから。
 それでも、もっと限りない可能性を残しているのは間違いない。それを見つけていくのに、お父さんは全面的に手助けをしてやるぞ。お父さんを目標にぶつかって来たらいい!
 へへへへ、ちょっと大口を叩き過ぎたかな。
 この二年間だって、どちらかと言えば、お父さんの方が、リューゴくんのおかげで、大変な成長をさせて貰ってるようなもんだ。
「これからもよろしくお願いします」
 というべきかも知れないな、お父さんは。
「子育て、ご苦労さん。これからは楽になるわよ。お姉ちゃん、お兄ちゃんがいるから、見よう見まねで成長するわね」
 わが子どもたち三人が、バタバタと走り回っている姿を見ながら、お母さんは感慨深げに言ってるけれど、お父さんは、まだ余り楽なんかしたくないんだ。
 リューゴくんの成長に関わり続けて、お父さんが与えるものがあったり、あるいはリューゴくんに与えて貰ったりで、一緒に成長して行くつもりでいるからな。
 だって、リューゴくんは、わが家でたったひとりしかいない゛おとうさんっ子゛なんだ。お姉ちゃんやお兄ちゃんに恨まれるかも判らないけれど、お父さんにとっては一番可愛いんだぞ。あっ!こんなこと言ってると、親失格かな。
 そうだ。リューゴくん、お前が三歳になったら、お父さんが山へ連れていってやる。お父さんが一番大好きな、故郷の裏山のてっぺんまで登るんだ。そして、お父さんを育ててくれた自然を見せてやるんだ。
 だから、゛おとうさんっ子゛らしく、男らしくて優しい、金太郎さんみたいな元気者に育ってくれよ。お父さん、それが楽しみなんだ。
(完結・私の赤ちゃん平成三年五月掲載文)

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育ったね『おとうさんっ子』その1

2015年01月16日 00時18分01秒 | 文芸
育ったね『おとうさんっ子』

 リューゴくん、もう2歳になったんだな。1人前にお兄ちゃんやお姉ちゃんと遊んだり踊ったり歌ったりしてるけど、足元にはちゃんと気をつけなきゃいけないぞ。まだバランスが悪いからヨロヨロしてるだろ。けつまずいたりして転んで泣いてるのを見る度に、お父さんは、もう心配で心配で堪らないんだからな。
 だって、お前は、このお父さんが懸命に育てて来た゛お父さんっ子゛だろ。お母さんが忙しかったから、お父さんがお母さんの代わりもやってたんだ。リューゴくんが可愛いのも当然なんじゃないかな。
 昔は、お父さんも商売でてんてこ舞いしてたから、お姉ちゃんは田舎のおばあちゃんが大きくしてくれたんだ。それで、お姉ちゃんは゛おばあちゃん子゛ってわけ。
 でも、田舎のおばあちゃん、もう七十五歳にもなってて、足が不自由になっちゃったから、お兄ちゃんは、お母さんが育てたのさ。だから゛お母さんっ子゛リューゴくんにしたら、お兄ちゃんみたいにお母さんに大きくして貰いたかったかも知れないな。
 だけど、そうできなかった色んな理由があったんだ。リューゴくんが、もーっと大きくなったら、きっと判ってくれると思うけど、
「お父さん、リューゴ任せるわ」
 身体の調子を崩して家にいるお父さんに、外へ働きに出るお母さんが、そう言った時、本当言って、お父さん、どうしていいか判らなかった。今まで赤ちゃんの世話なんか、自慢じゃないけど一度だってやった事がないんだからな。
 別に無精でやらなかったんじゃない。大体の男は外で働いて、家のことや子育てはお母さんの役目と決め込んでいたから、お父さんも例外なく、
「男は仕事をやってりゃいいんだ!」
 なんて、家ではゴロゴロしてたのさ。今から考えると馬鹿げた思い込みしてたんだ。
「リューゴのこと、任していいの?」
 何回も念推すお母さんに、お父さんは遂に頷いてしまった。ちっとも自信なかったけど、役割分担から言っても、そうせざるを得なかったから、お父さんは覚悟を決めた。
 その時、リューゴくんは生後五か月を迎えたところ。まだ母乳を貰ってたんだからな。
 いま元気にはしゃぎ回っているお前を見てると、あの時、リューゴくんを育てるはめになったのは、お父さんにとっては、とっても幸福だったと思う。本当の親の体験ができたんだからな。お母さんの立場でしか味わえないはずの感激も、ちゃんと味わったんだぞ。
 お母さんの仕事始めの日、リューゴくんとたった二人きりにされた心細さは、今でもハッキリと覚えている。お前はスヤスヤと眠っていたけれど、お父さんは、お前が目を覚ました時、どうしよう!?なんて焦りっ放しだった。
「ここにメモってある時間に合わせて、おしめの交換と授乳、お願いします。おしめの取り換えの時、ウンチの色を見といてください。泣き出したら抱っこしてやってね。ただし、お腹がすいて泣いてる時もあるから、その時は湯ざましを……!?」
 お母さんからの、リューゴくんに関する伝達事項は覚えきれない程あった。まあメモってあったから忘れる心配はなかったけど、実際やるのは初めての事ばかりだから大変だった。粉ミルクを湯で溶き、人肌に冷ますんだけど、
(もし熱かったらヤケドさすかもなあ……)
 なんて不安は序の口で、おしめだって最初にあてたやつなんか、見るのも惨めなほどブワブワさ。
 しかし、抱っこだけは、お父さん上手だったぞ。あれは愛情さえあれば、誰でもうまくやれるんだろうな。それが体験した上での結論だ。たぶん間違いないと思ってる。
(平成3年5月掲載文・続く)
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集めてます

2015年01月15日 00時12分21秒 | 文芸
集めてます

白黒テレビの『月光仮面』の痛快さに魅せられてから、ドラマの大ファンに。しかし、成人し就職してからは仕事が忙しく、リアルタイムで観るのは不可能になった。見たいドラマが見られず、イライラの毎日……。
 十五年前、ついに念願の録画機を購入した。以来、DVDに保存し、その数は1000枚以上に。
定年を迎え、やっとゆっくり視聴できるようになった。とはいえ、最近のドラマも録画しているのでDVDの枚数は増えるばかり。命尽きるまでに、そのすべてに目を通すのはかなり難しい。
 さらに言えば、近年のドラマはどうにもつまらない。理屈っぽい内容に、金太郎あめみたいに、同じ顔ばかりが出てくる。
そんな中、偶然に見た韓流ドラマが実に面白かった。単純明快なストーリー、俳優も個性的な魅力を惜しげもなく出していて、『月光仮面』で味わった痛快さがそこにはあった。『朱蒙』『チャングム』『ビッグ』……!いつしか韓流ドラマを録画したDVDは100枚を優に超えていた。
(2013年4月掲載文)

わが家の道楽

 わが家の場合は『本道楽』です。そう、BOOKの本です。毎月、『サンデー毎日』を含む雑誌から書籍まで、3万円前後を本代に費やしています。このほとんどを同じ本屋さんで買い求めるので、結構デカい顔して立ち読みもできます。
「いくら貧乏になっても本代だけはケチらないで、読みたい本はドンドン買おう。子どもらにも買ってやろう。家中、本だらけになったら最高だ!」
 これが夫と私の、結婚前夜の誓いでした。 昔、本屋の店員だった夫は豪華本や初版本をタップリ買いこんでいたし、私の方もかなりの量の文庫本や新書などを花嫁道具として持参。  
 誓いどおり、貧乏なわが家において、本代だけが突出しています。食費も医療費も切りつめられるだけ切りつめ、外食なんかせいぜい年一回だし、普段着は一年中ジーパンで通し、流行なんて全くお構いなし。それでも私たちは本山に囲まれて、最高に幸せ。子どもたちはとても本好きになってくれました。 
 ただ、夫の実家の人たちには呆れられています。
「本なんか紙クズになるだけやないか」と!
 いえいえ、本はわが家の大切な財産です。紙クズにするなんて滅相な。そんなモッタイないことしませんよー!なんて胸のうち、誰も分かってくれませんよね。
(1992年4月掲載文)

あんまりだぁ!

「ちゃーんと留守番してね」
「お昼は自分で作って食べるのよ」
「お風呂、沸かしといてね」
 妻と二人の娘がてんでに言いたい放題だ。その上、お出かけはいつも私抜き。どうしてこうなったんだ?
 わが家は男の子二人、女の子二人とバランスが取れていた。大学進学と同時に息子たちは家を出たが、お盆や正月、村の秋祭りには必ず帰ってきた。おかげで私が祭りに出なくても済んでいた。ところが、卒業して就職すると状況は一変。初めのうちこそ顔を見せていたが、勤務先が遠方になったせいか、いつしか戻らなくなった。息子たちはもう頼れない……。
 かくして男はわたし一人きりの女人天下になり、肩身は狭くなるばかり。
 父親の立場はなんと脆いのだろうか。しかし、いくらなんでもこれはないよなぁ。
 神様、オレって何か悪いことしました?
(2014年12月掲載文)
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求められる喜び

2015年01月14日 00時07分02秒 | 文芸
求められる喜び 

十二月十五日、六十歳の誕生日を迎えた。十三年勤めた仕出し弁当の料理製造会社が定年になる日。誕生日が現役引退と重なる皮肉な話である。嘱託の話はあったが、あっさりと断った。
 二か月前に入院している。数個あった大腸ポリープの摘出手術で一週間のベッド生活。同部屋の似通った年齢の患者仲間と接したりしているうちに、これまでの真面目一辺倒の人生観に変化が生じた。残された人生、これまでと違う仕事をしたくなった。
 二十一歳で調理師学校に進み資格を得て以来、四十年に渡って調理畑の仕事ばかりだった。洋食レストランに始まり、スナック喫茶、駅ビルレストラン、郊外型レストラン。そして喫茶飲食店で独立した。十年目に店を閉めて今の会社に調理担当として採用された。深夜勤務で十三年、少し疲れたというのが本音だったかも知れない。無性に調理の世界から離れたかった。
 料理製造会社を退職すると、正月三が日までの二十日余りをのんびりと過ごした。英気を養ったところで、ハローワークに足を向けた。気合は十分だったが、六十男の職探しは容易ではなかった。朝早くからハローワークの列に並び、求人情報を競って求めた。すぐ正職は諦めた。調理師の資格を生かした仕事ならまだしも門外漢の職種志望なのである。
 結局地元のスーパーマーケットにパートで採用された。モノを売る仕事は昔から憧れていたから嬉しかった。ただ面接時に小テストを受けさせられたのには少々面食らった。簡単な計算を、筆算で限られた時間で何問出来るかが課題だった。自分の頭がもう若くないことを思い知らされた一件である。
 店の担当部門は加工。清涼飲料水、乾麺、粉もの、菓子、調味料……の棚への補充から在庫管理に発注とかなり複雑だ。消費期限、賞味期限、製造日……覚えることは多かった。パソコンや発注機の操作もこなせなくては仕事にならない。もう必死だった。六十年生きて来て得た自身も自負もかなぐり捨てた。
 朝早く家を出ると、店舗まで歩いた。一時間近くかかったが、足腰の衰え防止のためだと続けた。(俺ってもう六十や!いつ死ぬか分からへん。後悔しとうない)との思いが日を追って強くなった。テレビで知った同世代の俳優や有名人が急逝した影響だった。
 仕事は先走る気持ちに反しての一進一退。それでも結構楽しかった。買い物客との会話も仕事への励みに繋がった。かなり高齢のお客さんには自然と手を差し出した。買い物のアシストを務めながら、(この俺がお役に立ててる)と笑顔が生まれた。調理の仕事では全く機会のなかった人間相手のコミニュケーションは、対面販売のスーパーマーケットだから実現したのだ。
「気ぃー抜いたらあかんよ、齋藤さん。私らはモノ売るだけやないんやで。お客さんの健康に責任持たなあかんねんやから」
 加工部門の主任にこっ酷く叱られた。製造日から計算して消味期限をラベル出しするが、ぼんやりして日にちの計算を間違えてラベル印字してしまったのだ。息子ぐらいの若い主任にぼろくそに言われては落ち込むしかない。しかし、すぐ気付いた。自分の仕事への取り組みに気の緩みが生じたら、お客さんに取り返しのつかない羽目になる。店の信用も落としてしまう。いくらパートであろうと私も店を代表する一人なのだ。
 六十五歳。二度目の定年を迎えた。加工部門の後輩たちが花束を贈ってくれた。「ご苦労様でした。またシルバーで来てください」 
 涙が出た。まだまだ私には求められて働く場所がある。年甲斐もなく胸が熱くなった。
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わが心に刻まれた名作映画

2015年01月13日 00時12分13秒 | 文芸
わが心に刻まれた映画

数多く鑑賞した名作大作映画の大半が、忘却の彼方に去ってしまった。けれど『風と共に去りぬ』だけは、まるできのうきょうに見たような、新鮮さたっぷりの記憶として刻みこまれている。レット・バトラーとスカーレット・オハラの激しい恋と愛憎、戦争、。豊かな大地を赤々と染める戦火と夕日。まぶたを閉じると、生き生きと蘇るシーン。
 あれは私が十九歳、社会人一年生のころの出会いだった。恋人もなく、仕事にも慣れないせいか、厭世的気分に襲われて逃げ込んだ映画館で上映していたのが『風と共に去りぬ』。ちょうどアトランタの大地が戦火の炎に包まれている壮大なシーンだった。大型スクリーンいっぱいに広がる衝撃的な鮮やかカラーは、一瞬にして私を魅了した。身体が打ち震えてしばらく止まらなかったのを、よく覚えている。金縛りにあった感じで、二度目の上映を冒頭から食い入るようにのめりこんで見た。
 絶望から力強く立ち上がるスカーレットの姿に、感動の涙を流した私の人生観は一変したかのようだった。 
 あの映画との出会いが、私を生まれ変わらせたと言っても大げさではない。おかげで暗かった青春を人並み以上に謳歌し直されたのである。
(1993年2月掲載文)

新米パパ&ママを支えるのは

 生後数か月で長女を襲った病魔。一週間近く続いた高熱。当初の診断はかぜ。別の病院で診てもらったら、なんと川崎病だった。即日入院。妻はそのまま付き添うことに。
 初めて授かった子どもを見舞った試練に、ただオロオロ、バタバタ。
 当時は喫茶店をやっていたので、私が病院に顔を出せるのは深夜だけだった。
 息も絶え絶えの娘を見守るしかできない妻と私。心身ともに疲れ果て、殆ど限界だった。
「もうイヤや!」
 高じるストレスに悲鳴を上げる妻。
「あほ!僕ら親やないか。僕らが守らな、誰が赤ちゃん守ったるンや?」
「ほな、あんたが守ったり!」
 感情的になり、離婚という言葉まで口にするようになった僕たち。
 そんな時だった。ベッドの中で、小さな赤ちゃんが懸命に目を開けると、
「ダアダア」
 と声を出しながら笑ったのだ。それは、まさに天使の笑顔だった。新米ママとパパの危機を救い、そして以後二十五年も支えてくれた、娘の笑顔が目の前にあった!
(2007年7月掲載文)

昆虫

 夏が来た!田舎の夏だ。小学生の頃は、朝早くからカブトムシやクワガタが群がるクヌギの木を求めて、雑木林を走り回ったものだ。
 甘い匂いのする樹液が幹の穴を満たしたところに昆虫たちは集まっていた。カナブンもウジャウジャ。蜂もブンブン、ブーン!
 穴場の木は村中の子どもが熟知していたから、もう先手必勝を賭けた競争だった。とはいえ、五十数年前は昆虫の宝庫。二番手三番手になっても必ず何匹かを手にすることができた。
 蜂を追い払ってから、思い切り木の幹を蹴飛ばす。バラバラッ!と、雨あられのように昆虫が降ってくる。カブトムシもクワガタも、もう捕り放題である。
 あれは夢だったのか?現在、いくつかの雑木林は跡形もない。穴場の木も切り倒されていたり、あっても樹液の蜜が涸れていたりで、昔の面影などどこにもない。
 試しに神社の山門脇にある。昔なじみの大木を蹴ってみた。体当たりして揺すりもした。ビクともしない。何も落ちてこない。
 虫捕り網を持った子どもの姿もほとんど見かけなくなった。時の流れは、村の子どもたちから、夏休みの山野を駆け回る虫捕りの楽しさも奪ってしまったらしい。
(2013年7月掲載文)
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沿線散歩

2015年01月12日 00時02分08秒 | 文芸
沿線散歩

 定年退職後、しばらくして「ハッ!」と気づいた。何にもないのだ、自分のすること、したいことが。家族の嫌みに耐えながら、ゴロゴロするのも空しいだけだ。これは大変だぞ。まだ十年以上も生きていかなければいけないのに、どうする?
 ふと近くにある赤字ローカル線の駅へ行ってみた。廃止寸前までいきながらなんとか生き残った路線で、高校時代は毎日利用していた。学校まで五駅。懐かしい駅舎を見て回ってみようと思いつき、側道、あぜ道、農道と、田圃地帯のど真ん中を線路に沿って歩いた。時折、レールバスが一両、とことこ走る。のんびりとした風景が続き、目的の駅にたどり着いたときには焦燥感がなくなり、晴れ晴れとした気分になっていた。
 ローカル鉄道の沿線散歩は今も続けている。浮世の憂さを忘れて四季折々の田園風景を満喫、何とも贅沢なひとときである。
(二〇一四年五月掲載文)

血液型相性度?

 B型夫とAB型女房。相性はバツグンで理想的な家庭が築けると、血液型占いに夢中だった友人に言われたことがある。結婚生活三十一年。授かった子供は四人で男女半々。確かに彼の言うとおりだったようだ。
 ところで、子供らの血液型はAB型三人にB型一人。つまり、わが家はAB型に支配されているのだ。B型の次男は肩身の狭さからか、ついに家を出てしまった。残った私は、成長した子供らと妻の一斉攻撃を受ける羽目に。B型男のいい加減さが、AB型勢には許せないのだろう。
「お父さん、考えもなしにしゃべらんとき」
「B型って無責任なんやて、自覚せなあかんよ」
「へ理屈言うたかて、あかんもんはアカン」
 と、もう言いたい放題。あの相性の良さはどこへ行ってしまったのだ?待てよ。子供たちがみんな巣立てば、私と妻の二人きり。夫婦の相性は原点に戻るかもしれないぞ。
(2014年1月掲載文)
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運動神経

2015年01月11日 00時15分57秒 | 文芸
運動神経?

自慢できるもんじゃないが、運動神経の鈍さだけは物心ついて以来このかた、誰にも負けたことはない。そして、それは劣等感となって、いまだに私を支配している。
 棒のぼりダメ、跳び箱ダメ、鉄棒ダメ……体育の時間がくるたびに、私は同級生の笑いにさらされたものだ。今日、なんとかマトモな夫であり、父になれたのが不思議といっていいザマの連続だったのである。
 昨年亡くなった、二人きりで年子の兄がこれまたとびきり運動神経のスグレ者だったから、余計に私のダメさ加減が目立ったようだった。当時は、そんな兄を恨めしく思った記憶がある。
 現在も私の運動神経の鈍さは全く変わっていない。妻は、そんな私を承知しているが、問題は子供たち。幼いうちはなんとかゴマカせたが、上の二人が小学生になった今、万事休すである。
「お父さん、ボール投げしよう」
「泳ぎに行こう」
「木登りしよう」
 ……ああ……っ!
「お父さん忙しいから、お母さんが代わりに」
 なんて妻の助け舟に感謝の毎日だが、いずれは父の正体を明かさなければならない日が……。        (1991年記)

新しい年に誓う

 一昨年、思わぬ事故で急逝した一歳違いの兄の年をついに追い越して迎えた、新しい年。兄の分も生きるつもりで、張り切らざるを得ない。
 と言っても、私は私の道をひたすら突き進むしかないのだ。しかし、唯一の理解者でもあった兄がいつも一緒だと思うと心強い。
 1992年は、私が芝居作りにかかわり始めてなんと二十五年目の年だ。それも華々しいプロの世界ではなく、地味で目立たぬ地方都市でのアマチュア劇団。ここで、コツコツと舞台を作り続けてきたのである。記念すべき、忍耐と出費の年月だった。
 二十五年間で役者、舞台監督、照明及び効果スタッフ、演出、脚本、といろんな分野を担当して、十二年前からは劇団を主宰している。それも仕事との両立だから、我ながらよくやっていると感心している。実体は怠け者で不器用なのだから。
 その集大成を披露すべき、新しい年なのだ。兄への思いも込めて全力投球である。すでに書き進めている二本の脚本。「星雲忠臣蔵」「オズ・ワールド」だ。二十人近い若者たちと、汗と涙を流して目指す、私たちの晴れ舞台でもある。資金の乏しさは、体力と情熱でカバーする。
 やるぞ!わが二十五年駆けて来た道!
(1192年記。サンデー毎日掲載)
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